正見 [阿含経]
「大徳よ、正見(しょうけん)、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか」
「カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。
カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間に無というものはない。また、カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。
カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。だが、聖なる弟子たるものは、その心の依処に取著し、振りまわされて、<これがわたしの我なのだ>ととらわれ、執着し、こだわるところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したとみて、惑わず、疑わず、他に依ることがない。
ここに智が生ずる。カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。」
カッチャーヤナ 南伝 相応部経部12-15 阿含経典一巻 P112 増谷文雄著 筑摩書房
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・「正見とはいったい、どういうことでございましょうか」
現実・事実を正しく見て、現実・事実のままでいることができれば混乱・葛藤・苦悩することがあるでしょうか。現実・事実を否定したり、逃げたりせずに現実・事実のままに生きているとしたら。現実・事実が間違と言っている主体は一体何者なのでしょうか?
・「この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。」
我によって二つ(現実と思い通りにしたい)に見てしまう。ありのままの現実・事実を認めたくない、思いを実現してほしいと願ってやみません。過去(=記憶)や未来(=想像)のことで不安に苛まれています。過ぎ去って存在していない過去を悔い、ありもしない未来に期待して頭の中では現実・事実を生きていません。現実・事実を思いの通りに変えたい。
理想(=思いの通り)の世界が正しく、”今”というありのまま現実・事実が間違っているとして苦悩します。極端に言えば現実・事実が無いことであってほしく、思いの通りの世界があってほしいかもしれません。
無門関第一則「趙州狗子」:狗子の仏性の有無を問う。迷いを解決する悟りではなく、問題そのものがない悟りとは。狗子に悟れる素質の有無を問うているのではなく、あるがままを生きていて迷うことがない狗子を見よ。迷うことが無い狗子には悟れる素質という二元対立的なことは議論にならない(=無)。”今”という現実・事実のままに生きている狗子には迷い(=問題)はなく迷いの対極にあるちっぽけな悟りは必要がない。逐一の問題解決はちっぽけな悟り。あるがままの現実・事実をそのままに生きていれば、現実・事実が問題にはならない。問題にならなければ、悟る必要も悟るということもない。現実・事実にケチをつけている本体(=我)が出てこなければどうなるでしょうか。
・「正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。」
世間に恒常不変のものはなく、無常であり何もしなくても消え去ってしまいます。形あるものも形のない思いも跡形もなく消え去ってしまいます。消え去る”思い”に振り回されています。子供・青春時代の”思い”はどこにもありません。その頃は大事な”思い”だったのに・・。今の重大な”思い”も数年後にはあっさりと忘れ去られているということでしょうか。
”今(=刹那)”が完璧に消えなかったら大変なことです。見えたものや聞こえたもの・・感受されたものが消えなかったらどうなるでしょうか。音が残って頭の中で鳴り響いて蓄積されたら次の音を音と認識することはできません。刹那の瞬間に一切は消え去り、まったく別の事象が起こっています。(前後裁断)全く同じ状態として有り続けるというものはありません。
・「この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。」
”我”は貪欲であって、”我欲”を満たそうと一生懸命です。根底には”自分かわいい”があります。”自分を安心させたい・安楽にしていたい・特別でありたい・分かっていたい・救われたい・苦悩したくない”という思いが高じて、命がけの苦行さえ行ってしまいます。お釈迦様も”我”に振り回されて苦行した一人かもしれません。”我”に同調したり逆らったりすればするほど悲惨な目に合うということかもしれません。
苦悩の原因が現実・事実と異なる思いの通りにしたいという”愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている”ということかもしれません。”我”の”こうありたい・こうしたい・こうあるべきだ”というただの思いです。
思いの通りの世界が”我”にとって真実の世界であって、現実・事実をなんとかして思いの通りの世界へと変えたい。世間の人々の”我”の働きをずばり言っているのでしょうか。
・「聖なる弟子たるものは、その心の依処に取著し、振りまわされて、<これがわたしの我なのだ>ととらわれ、執着し、こだわるところがなく」
わき起こる思いは自分が意図的に浮かび上がらせているものではなく、縁によって勝手にわき起こってくるものです。勝手に見え、勝手に聞こえ、勝手に思う。ただ思いを追いかけ回して言語でつなぐことで、何らかの意味が通じるようなものになります。
”我”に同調したり追いかけなければどうなるでしょうか。
・「ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したとみて、惑わず、疑わず、他に依ることがない。」
現実・事実に反して、”我”に同調して思いの通りにしたいと思うことで”混乱・葛藤・苦悩”となります。これ(=混乱・葛藤・苦悩)が苦だということが分かり、苦が生じたと正しく見ることができます。思いのとおりにしたいという”思い”を追いかけずにほったらかしにする。”何とかしたいという思い”を取り合わないでいると、現実・事実のままで一つになります。現実・事実のままであれば”混乱・葛藤・苦悩”が滅します。苦(=混乱・葛藤・苦悩)が滅したという体験によって、疑うことがなくなります。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
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