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決めつけによって迷う(悩む・苦しむ) [気づき]

 私達個々人は異なる教育・家庭環境・信仰・文化・習慣・癖・風習・思い込み・行動パターン・生活環境・趣味趣向・経験・アイデンティティ・・・等々があり、また個々人で異なる状況に接していることでまったく異なる思いが沸き起こっています。

 様々な思いが湧いてくるのはどうすることもできない自然なことです。このとりとめもない思いにつきあう必要があるでしょうか。身体であれば、身体が危険な状況に遭遇したときは、自らの身を守るために自然にホルモン分泌が行われ最適な行動が促されるようです。

 誰もが自身が構築してきた観念を自らが否定することは難しいことです。誰もが自分が正しいとして生きています。世界は常に変化変容しているというのに、自らが構築した観念を世界に押し付けることでは混乱がおさまることはありません。世界を従えるのか世界に従っているのか明白なのですが・・・。人間だけが自然に反して得意満面になっているのでしょうか。

 

「もし今、私たちの知らない遠く離れた地の誰も居ない森で、一本の木が倒れたとします。 その際に、その木は“音を出して”倒れたのでしょうか。」という問いがあります。人は文字や音として表現されたことを勝手に妄想(=想像)することができるので、認知していないにもかかわらず”音”が発生していると思いこんでい疑いません。実際に聞いてもいないのに、妄想(=想像)した場所では”音”している筈だと決めつけています。実際に起こっているのは自身の感受したことだけです。他人の痛みをそのまま感じたら医者や看護師として働くことはできません。単に妄想(=想像)の中での出来事だということです。

 

無門関の第4則に「胡子無鬚( こすむしゅ )」というものがあります。

<原文>
或庵曰(いわ)く、
「西天の胡子(こす)、甚(なん)に因(よ)ってか、鬚(ひげ)無き?」

<現代語訳>
或庵(わくあん)が言われた、「達磨(だるま)は、一体どういうわけで、鬚(ひげ)がないのか?」

 

 公案は数学の問題を解くように答えを出すのではなく、迷い(=二元思考)から開放されて自由になるということ。大事なことは誰かが迷わせたり悩ませているのではなく、自身が迷っていて自身が悩ませているということです。周りに責任があるのではなく全てが自身の内で起こっていることに自身で騒ぎ立てているということです。

 小さい頃から達磨の置物や絵を見て”髭”があって赤い衣を着ているというイメージがついています。実際に見たこともないのに決めつけています。見たとしても次の日には髭を剃っているかもしれません。ただの妄想(=想像)にがんじがらめにされて不自由になっている自分に気づかなければなりません。”髭”があるという思い込みがあるということです。

 自身の身を守るということは当たり前のことですが、自身の固定観念も必死で守ってはいないでしょうか。ただの記憶であって傷つくこともないのですが・・・・。記憶というのは積分されて残っている実体のあるものなのでしょうか。釈迦・老子・・・どんな人であったのかは勝手な妄想でしかありません。分かりもしないことに囚われてもどうしようもありません。今この瞬間に体で感受されている実感が全てです。良いも悪いもない只感受されていることだけ・・・・。

 観念の足枷をしていて自由と言えるでしょうか。沸き起こってくる思いを追いかけることを止めて思っていることを放ったらかしにして自由を味わうのもいいかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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