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ただ観察する [阿含経]

南伝 相応部経部22-21 阿含経典二巻 P35 増谷文雄著 筑摩書房

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、長老アーナンダ(阿難)は、世尊のいますところにいたり、世尊を礼拝して、その傍らに座した。

傍らに座した長老アーナンダは、世尊に申し上げた。

「大徳よ、滅だ、滅だと仰せられますが、いったい、いかなるものの滅するがゆえに、滅と仰せられるのでありましょうか」

「アーナンダよ、色(肉体)は無常である。因(原因)ありて生じたものであり、縁(条件)ありて生じたものである。だから、それは消えうせるものであり、朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものなのである。そのように滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

アーナンダよ、受(感覚)は無常である。因ありて生じたものであり、縁ありて生じたものである。だから、それは、消えうせるものである。朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものなのである。そのように滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

想(表象)は無常である。・・・

行(意志)は無常である。・・・

アーナンダよ、識(意識)は無常である。因ありて生ずるものであり、縁ありて生ずるものである。だから、それは、消えうせるものである。朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

アーナンダよ、このように、これらのものは滅するがゆえに、滅だというのである」

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 動物は変化している事象に対して本能的に反応するままにただ生きているのでしょうか。人間は反省したり1年後のことを考える能力があります。動物が1年後の自分を想像することができるでしょうか。動物は、ある特有な”音”を出して知らせることで危険を回避しているかもしれません。動物の発する音は、何かを創造するのではなく身を守るために発したり威嚇のために使われている。

 ホモサピエンスは、言語の発明によって様々な創造力・想像力を発揮していると言っていいかもしれません。地球上で「私は誰?」と自問自答できるのは人間だけです。言語によって発せられたものや記述されたものによって、現実のモノとなって現出しているのでしょうか。反面、見たこともないモノを概念として作り出していることも否めません。世界中のいたるところで、”私”・”神”・”魂”・”心”という概念が作り出され、個々人が自分なりの観念として使っています。全く一致しする”私”があるでしょうか。多分各自の名前やアイデンティティを”私”として抱いているのではないでしょうか。固有の”私”であって真なる”私”はどこにもないことになります。数字の”1”と同じで、どれを”1”にしてもいいということで、正解の”1”はどこにもないことになります。

 

 最初から”天気”・”海原”・”晴天”・”花”・・・・が存在していたわけではなく、ただ”全体”がそのままにあっただけです。だれもが”天気”という決まりごとに同意して使おうということになっています。それもその国の人だけが合意したものです。言葉は合意による便宜的なものです。

 全外があるだけなのですが、全体の一部を切り取って”天気”と命名したまでのことです。誰一人”天気”を掴んだり得たり変えたりすることはできません。存在は変化し続けているし一切が切り離されずに連続して繋がっているというのが存在の姿です。

 ”空気”という言葉が作られたときの、まさにその原初の”空気”はどこにも存在しません。”山”と定義されたまさにその原初の”山”はどれなのかサッパリわかりません。何が言いたいかと言うと、言葉は単なる表象であって各自が思い思いに思い込んでいるイメージであって各人が一致するものはありません。存在は常に変化していて全く同じ状態などありえないのに、言葉が同じであるということは”錯覚”と知りながら使っているということかもしれません。存在が無常であるのに、存在を表現している言語は変化しない(=無常ではない)ということに違和感がないということが不自然です。

 私達は存在を掴みとって解釈したい、知っておきたい理解していたいがために言語を使っているかもしれません。変化するまま繋がって一体のままにいられないのでしょうか。生も人為的に区切り”生まれた”・”死んだ”という区切って考えます。宇宙開闢以来から途切れることなく繋がって変化してここにあるということかもしれません。どこかで途切れていれば今ここにある存在は存在していません。今ここにある存在も変化しながら繋がっていくことでしょう。変化のどこかで区切る必要もないし、全体をどこかで区切る必要もないかもしれません。私達は細分化していくことで分かろうとしていますが、実は細分化することで自らを振り回して混乱しているかもしれません。

 ”川”も”山”も各々の勝手なイメージとしてあります。今ここでヒマラヤを見ていなくてもヒマラヤと言ったりヒマラヤについて語ることができます。この今ここにありもしないことが妄想だということを認められません。

 存在は単に我々の記憶の中に言語とイメージとしてだけあるということを疑うことがありません。存在は今ここで光や音の情報が処理されている像や音や感覚としてあります。それも確実に生滅している無常なモノや現象です。滅しているものを滅しているとそのままに観察し、無常なるモノを無常であると観察できれば今ここの現実から離れることはありません。頭の中のおしゃべりは、単におしゃべりであって勝手に話していて”私”ではないとふと気づくことを繰り返す。勝手なことを言っているなとただそのままに観察する。勝手なおしゃべりに干渉したり、なんとかしようとしない。

 「諸行無常」とは当たり前(=無常)であることを当たり前(=そのまま)に全面的に受け入れることなのでしょうか。

 

概念:物事を言葉で定義して共通の認識

観念:人それぞれの経験や文化や家庭や環境によって抱く個人的な思い

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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