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自洲−2 [阿含経]

 概念とは、物事を言葉で定義して共通の認識となっていることのようです。観念は人それぞれの経験や文化や家庭や環境によって抱く個人的な思いかもしれません。

 例えば、海の概念は「地球上の陸地以外の部分で、海水に満たされたところ。」と定義されています。海の観念はというと、人によって異なり「魚が泳ぎ回っている場所」、「青くて深くて神秘的なところ」、「生活の糧を得る場所」、「一度は見て泳いでみたい」、「溺れそうになったので怖い」等々・・・様々なイメージと結びついた思い込みのようです。

 私たちは何の疑いもなく「私」という言葉を頻繁に使っています。「私」は共通の認識であり、いつまでも自己を指す言葉として使われていくはずです。個々人の観念として使われる「私」であって「本来の自己」ではありません。「私」という言葉は同じですが、思い思いの千差万別の「私」として使われるます。

 今まで正しい1キロとして、世界各国に40個の1キロが存在していました。真実の1キロも人間が定義したものです。

 「私」という言葉が使われていますが、数字の”1”と同じく恒常不変なる「私」はどこにも存在していません。今ここでのその時限りの一過性の「私」であって恒常不変の「私」などどこにも存在していないということです。正しい「私」や変わらぬ「私」がどこかにあるでしょうか。ちょっとしたことで気分が変わる「私」が不変の「私」と言えるでしょうか。


 「私」は心身であるとか、記憶であるとかアイデンティティであるとか・・、すべて観念(=各個人の思い込み)として捉えています。3歳児の時の身体はどこにもありません。3歳児の心はどこにもありません。3歳児の記憶もあやしいものです。極端に言えば、1分前の「私」の記憶・思い・心境・体調・感覚・体温・血圧・血流・体内細胞等々と1分後の今の「私」では全く異なっているはずです。1分前の「私」と今の「私」がまったく同じということはありえません。 

 

 「私」というのは、後づけで自己証明のために使っている単なる表象。ただ見えている、ただ聞こえている、ただ感じている、ただ味わっている・・・というのが本当の事実そのものです。五感から入ってくる何かが感覚としてある。感覚を言語化して意味や価値を見出している。意味や価値を識別して判断を下している、その判断に賛否に分けて”なんとかしたい”という「私」が後づけされる。

 認識する自分、判断する自分、判断にとやかくケチをつける自分という三人が登場します。その三人も”なんとかしたい”という思いによって「私」としての主体性を持つようになります。考えればなんとかなるという脳の癖によって出現している幻覚のようなものなのですが・・・。相手にしなければ沈静化してどこかに消え去ってしまうようなものです。3時間前のなんとかしようと思っていたことなどどこにもないはずです。何を思っていようが何を感じようが何を感情的になろうが、他人に危害を加えるようなことがなければ過去のただの思いでしかありません。

 最も厄介な自我意識が”なんとかしよう”と頑張る自分です。考えの上で何とかなると思い込んでいる「私」という観念そのものです。自身でしか味わえない特別な「私」を思い描いて葛藤している自分が最悪なのですが・・。自我意識にとって”あなただけ”とか”特別です”とか”褒められる・称賛される”ということが自我意識をさらに強めることになります。特別になりたいということに全精力を使い自我意識に振り回されて苦しんでいるかも知れません。

 自分自身以外の何者かにはなれません。同じ空気を吸って同じようなものを食べて同じように感受しているのに・・、何かを読んだり唱えたりすれば聖者になるなんてありえるでしょうか。常識的に考えても何者かには変化することはありません。新しいアイデンティティが加わったり別のアイデンティティに更新されることが何者かになったような気にさせてくれるかもしれません。

 誰もが同じように空腹になり食べては排出して、痛い時は痛みを感じ年を重ねれば老い病気をして死んでいきます。人間という身体を持った生き物として当たり前の生涯を終えるだけです。ただ、煩悩を引き算していくことで煩悩に振り回されないようにして平穏無事に生きていけるかもしれません。

 

 「私」は「私」と思っている時に出現している「私」であって、「私」と思っていなければ何でも無いとらえようのない変化している何か。何だかわからないというのが本当のところであって、分かる必要もなく分かることが出来るような対象ではありません。対象であれば認識したりしることができますが、主体は対象になることはできません。主体が主体を知ることなどできません。

 自分だと思っていたもの(=感覚・感情・思考・経験・知識・身体・心・・)は認識できる対象(=客体)なので主体(=本来の自己)ではありません。認識できる全ては自分(=「私」)でなく自分(=「私」)とみなしていたただの観念だと見抜く。自分(=「私」)だと思っていたものが他の一切存在と同じ対象であったと気づいた時には、主体(=本来の自己)はどこにもいないということになります。ただ現れがあり縁によって働きがある、見ようとせずとも見えている聞こうとしなくても聞こえています。この五感の働きはいつ生まれたかも分からずに働き続けています。

 

<辞書での定義>

概念:大まかな意味内容、ある物事がどうゆものかを言葉で定義したもの。共通認識(concept)。

観念:人がそれぞれ抱く考え。人間が意識の対象についてもつ、主観的な像。

各人の認識にある程度の違いがある。

私:自分を指し示す語

自分:おのれ、自身、自己、一人称

自意識:自分自身がどうであるか、どう思われているかについての意識。

自我意識:自己について持っている意識。心を自分で全体的に統合・制御しているという感覚を伴う。能動性の意識、単一性の意識、時間が経過しても同一であるという意識、外界と他人に対して自分が存在しているという意識の4側面からなる。

人:特定の個人、霊長目ヒト科に属する哺乳類。ホモ・サピエンス

他人:自分以外の人

相手:一方の人

主体:認識と行動の担い手として意志をもって行動し、その行動の影響を他におよぼすもの。

対象・客体:主体の意志・認識・行為などの対象となるもの。

主体の意志・認識・行為などとは関係なく外界に存在するもの。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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