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老子−25 [老子]

有物混成、先天地生。寂兮寞兮、獨立不改、周行而不殆。可以爲天下母。吾不知其名、字之曰道。強爲之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。故道大、天大、地大、王亦大。域中有四大、而王居其一。人法地、地法天、天法道、道法自然。

 

寂:静か
寞:ひっそり
殆:あやうい
逝:いく
反:還ってくる

 

 混成一体なる存在があり、この厳然たる存在は天地と識別(=命名された概念)される前からある存在そのものの有り様です。識別名がなく意味のある音がない世界があり、自らは識別名を変えることはできない。存在は無限に広がり存在がなくなるということはない。

 それ(=存在)は「命名」によって万物の母(=有)となる。識別される以前(=ただ認識され見えている世界)を何と呼べばいいのか分らない(=呼び名などない)、識別される以前(=ただ認識され見えている世界)を「道Tao」と名づけてみたい。あえて名をつけるなら「大」という名になる。「大」はどこまでもあり、はるか遠くまであり、遠くまで行き還ってくる。「道」は「大」であり、「天」も「大」であり、「地」も「大」であり、「王」もまた「大」である。

 この世では四つ(=道・天・地・王)の「大」があり、「王」は四つの「大」の一つとしてある。人は地に従い、地は天に従い、天は「道」に従い、「道」は自然に従っている。

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 本来の世界は分別されていない一体である。様々なモノ(=四大)が混じり合って混成された”一”なるものです。誰か(=王)の命名によって全体から分離され、個別の存在として識別(=認識ではありません)されたものが点在している世界として識別されます。木々の葉は色を染めようとして染めているわけではありません。自然にそうなっているだけであって、人間が勝手に「紅葉」と名づけて「紅葉」と識別しているだけです。

 風景写真に映っている何かを識別(=別々の存在としする)し、識別対象を指で触れたとしても指は平面の印画紙そのもの(=風景全体)に触れています。私たちに見えている世界は一枚の印画紙全体(=3次元に見えている)であって、その全体から一部を識別するようになっています。もし識別したモノに触れたとしても、個別のモノに触れたのではなく全体に触れているということです。その触れたモノは便宜上全体から選び取られた、分離した何かとして扱っているという思い込みが出来上がっています。どこに触れても何に触れても全体だということ。例えば地震が起こったとして、家の中の家具やら置物やら衣服などが同時に揺れます。個々にあるようですが一体であり、繋がっているということです。分離した何かという観念(=思い込み)で扱うという癖がついているのではないでしょうか。台風が来ても自分の家だけが風から逃れることもできません。太陽の光は地表全体を照らし個別のモノだけが照らされることはありません。万物は区別・差別なく一様に照らされます。命名されたがゆえに個別のモノとしています。脳は習慣に従って自動的に識別しているだけで、どのように見えてどのように識別しようが全てが繋がっているというのが真の姿かもしれません。

 

 ただ”一”なる世界は、誰か(=当時の王)によって上方を”天”と命名され、立っている所を”地”と命名され”天地”となりました。世界は、過去でも今でも未来でも”一体”なる存在です。あらゆる色や形によって、人間の都合で分離して逐一命名します。その結果"一"なる世界は、個別の命名されたモノの集合体という”森羅万象”とされてしまいました。

 分離したモノの集合であるという世界観を親や教師が知識として子供に伝えています。子供は全体から分離した自分という存在となり、見る主体を確立していきます。見えるものは対象(=客体)となってしまいます。何も疑うことなどありません。個別のモノとして見て扱うようになります。良いとか悪いとかではなく、ただの思い込みが習慣となり、習慣が当然となっただけのことです。分離して見えているのですが本当は錯覚しているだけのことかもしれません。

 存在の一々が命名されなければ、全体があるだけです。ある物を見ても識別名が無いとするなら、頭の中で音として想起しない。物が見えたとしてもただ見えただけです。識別名がなければ、頭の中のお喋りはなく静かなものです。物自体が物の名前を変えることはありえません(獨立不改)。ただ命名によって万物の一つとして追加されていくだけです。万物は命名によって限りなく増えていきます。言葉の数だけ万物があります。赤ちゃんの頃は”ママ”という言葉と母親の顔がリンクして識別されます。赤ちゃんの中では、全体から「母親」だけ分離し、万物の始まりが母かもしれません。

 存在を存在としてあらしめているものは一体何なのか、存在として認識する以前は全体としてあるだけで全体を名づけることはできません。とりあえず名称のない全体を「道Tao」と名づけたのでしょうか。

 宇宙がどうしてできたとか、地球に生命が誕生したのは何故かとか、宇宙は有限か無限かとか。仏教では「無記」とか「毒矢の喩え」で問う必要性の無意味さを指摘しています。折角の人生、限られた時間をどう使うかは個人に委ねられています。今救われていると見抜けなければ、自らを灯明として救われ(=束縛から自由となる)ている自身を発見するしかありません。

 

 不安の元凶は”知らない”・”分らない”・”対処できない”・”解決できない”ということを問題としている自身そのものかもしれません。問題は個々人の問題であって問題の作りても個々人です。自身の思考や誰かの思想や誰かのアドバイスで解決できるのであれば問題とはなりませんが・・・・。

 どんなに社会が進歩しようが、知識が増えようが哲学的に思考しようが個人的な問題は個人でしか解決できていないようです。門より入るもの是れ家珍にあらず

 社会的な問題は科学知識や政治や思考力を駆使すれば何とか解決できるかもしれません。終末時計を見ると人間の欲望を抑えることは難しいようです。

 個人の集合が社会であり、各個人が問題を抱えたままに集まっても全体は混乱したままです。

 老子の思想が、現代の我々の個人的な問題を根本的に解決するわけではありません。過去の人がどのように自然と対峙し、どのように世界を見て生きていたかを想像できる資料とはなります。まったく別の世界を生きている人が二千数百年前に記述されたことを参考にして、個人の問題を解決することには無理があるようです。全体的なモノの捉え方として学ぶことはありますが・・・。

 

 私たちが二千数百年後のブラジル人に日本での生活を伝えようと文章をしたためるでしょうか。また、二千数百年後の人が二千数百年前の人の世界観や世界経済や望まれる政治家像の記述を読んで、自身の生き方に役立てようとしているのを見たとしたらどうでしょう。喜ぶどころか進歩していない人たちを見てかえって嘆くかも知れません。

 

 知的好奇心を満たすことは、”分かること”で不安が払拭されるとの思いかもしれません。宇宙の成り立ちが解明されたとして、解明した数式を見ることで個人的な問題が解決するわけではありません。数式から食べ物が作られることもありません。個人的の問題を解決することと、知的好奇心を満たすことに関連はなさそうです。

 自身の外の世界を全て知り尽くし、それが知識となったとしても世界が無常であることに変わりありません。既知とされていることは既に消え去った過去のことであり、これからのことは誰にもわりません。未知が永遠くので知識がどんなにあったとしてもどこまでいっても未知に遭遇していくだけで、解決される未来はありません。知りえない未来(=未知)と対峙するしかない今の連続があるだけです。確かな事実は”今ここ”ですがそれも生滅していて有るとも無いとも言えない無常です。
 宇宙はこの瞬間にも滅しています。1秒前の宇宙はあとかたもなく消え去っています。1秒前と全く同じ宇宙を出現させることはできません。飛び交っている素粒子を元に戻すことなどできません。

 

 私たちが見たり聞いたり・・言葉で識別(=認識ではありません)している世界から文字という”形”と、言葉という”音”がある以前のただの認識(=あるがまま)だけの世界。ただ見えたまま聞こえたまま味わったまま・・言葉を使って解釈(=識別)以前の状態では、頭の中は空っぽのままです。

 計らいの及ばない本来の姿(=無為)があり、その無為の世界が「道Tao」であり「道Tao」は宇宙の働きそのもの(=自然)に従っている。無為自然とは本来の働き(=宇宙の働き)と一体となっていて「私=社会的自己・自我」が出る(=有為)以前のことを言っているのでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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自洲−1 [阿含経]

自洲

南伝 相応部経典22-43 [阿含経典二巻 P66 増谷文雄著 筑摩書房]

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、世尊は比丘たちに告げて仰せられた。

 

「比丘たちよ、みずからを洲 (す)とし、みずからを依所 (えしょ)として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい。

 比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依所として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住し、事の根本にまで立ちもどって観察するがよい、<嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、いったい何によって生じ、何によって起こるのであるか>と。

 比丘たちよ、では、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、何によって生じ、何によって起こるのであろうか。

 比丘たちよ、ここに、いまだ教えを聞かざる凡夫があるとするがよい。彼らは、いまだ、聖者にまみえず、聖者の法を知らず、聖者の法を行ぜず、だから、彼らは、色(肉体)は我 (われ)である、我は色を有す、わがうちに色がある、あるいは、色のなかに我があると考える。だがしかし、色は移ろい変わる。色が移ろい変わるから、彼らに嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

 だから、彼らは、受(感覚)は我である。われは受を有す、わがうちに受がある、あるいは、受のなかに我があると考える。だがしかし、受は移ろい変わる。受が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

彼らは、想(表象)は我である、・・・

彼らは、行(意志)は我である、・・・

彼らは、識(意識)は我である、我は識を有す、わがうちに識がある、あるいは、識になかに我があると考える。だがしかし、識は移ろい変わる。識が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

 しかるに、比丘たちよ、いま、色において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの色もいまの色も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。

 比丘たちよ、また、受において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの受もいまの受も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するだろう。それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。

 比丘たちよ、また想において、・・・

 比丘たちよ、また行において・・・

また、比丘たちよ、識において、その無常なること、変移するものなることを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの識もいまの識も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。それらが消滅するがゆえに、心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなれば、安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる」

 

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辞書で”自然”の概念は、

山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの。「自然に親しむ」「郊外には自然がまだ残っている」

人間を含めての天地間の万物。宇宙。「自然の営み」

人間の手の加わらない、そのもの本来のありのままの状態。天然。「野菜には自然の甘みがある」

そのものに本来備わっている性質。天性。本性。「人間の自然の欲求」

<省略>・・・

 1では人間は除外され、2では人間を含めています。1では人間主観で自然を客体で捉えた概念であり、2では人間主観を排除した概念ということなのでしょうか。ただの概念であり大した問題でもないのですが、真実の”自然”は留まること無く変化している現象そのものだということでしょうか。1と2のどちらも”真”であれば、どちらかを断定すれば他が”偽”となるということ。言葉には必ず対立概念が含まれているかもしれません。”善”には”悪”が隠れています。”好きになる”ということは、”嫌いであったか、何でもなかった”。いつか”嫌いになるか、何でもなくなる”ということが暗示されているかのようです。言葉自体が迷いかも知れません。(参考:常見外道、断見外道)

 

 会話や文章で”自然”という言葉が使われることがありますが、”自然”と発信している人のイメージと、受け取る人のイメージがピッタリと一致するということは不可能に近いかもしれません。ある人の文化圏・気候で培った自然と全く異なる文化圏・気候で育った人では天地ほどの違いがあるかもしれません。雪を見たことも触れたこともない人に”雪”という言葉はただの音や形であって何も伝わりません。

 たった二文字で壮大で変化している”自然”を表現できるわけがありません。それこそ言葉は音と形と概念だけの作為的な人工物であって、ただの表象であって道具だということ。この点をわきまえて使わないと言葉を振り回したり、振り回されたりするかもしれません。

 

 人間は言葉を慎重に選んで使っているようですが、言葉自体がいい加減であれば受け取る方もいい加減の理解で終わってしまいます。間違えようのないことは、今見えている聞こえている「あるがまま」の事実だということしかありません。頭の中で言葉という道具をこねくり回して、問題にはならないはずの事実を言葉でいじくってはいないでしょうか。いじくっている実物は眼の前にあるのかそれとも頭の中の抽象概念としてあるものなのか・・・。

 事実にケチをつけてなんとか事実を自身の思いの通りしたいのが実体のない「私=社会的な自己・自我」というただの思いであり、思い描いていることも実体のないこうありたいという思いです。つまり、思い(=こうありたい)を思い(=こうすれば・ああすれば)という実体のない道具を振り回しているだけかもしれません。今考えている事自体が脳内で電気信号・化学物質の受け渡しをやってエネルギーを消費しているだけ徒労かもしれません。

 

 私たちは家庭や教育によって知識を蓄えることが正しいとして成長してきました。なるほど社会生活では少しは役に立ちますが、平安・静寂ということではかえって邪魔になると感じています。教育でも社会生活でも、思考によって問題を解決できるというふうに育ってきましたが思考で問題が解消されて問題そのものから自由になっているでしょうか。

 思考するということは、思考の対象(=問題)があり、問題を解決する主体があるという前提です。対象と主体が存在する限り問題をなんとかしていくことが永遠とつづくことになります。問題を作り続ける主体があるという思いがある限り問題が無くなることはありません。

 仏教では、問題を何とかしようとする「私=社会的な自己・自我」がそもそも無いということを見抜きます。事実(=あるがまま)と分離した何者かがいなければ問題にしなくてもいいということです。病気になれば淡々と対処すればいいだけ、死ぬ時は死ねばいいだけ。死んでもいないのに死後のことを考えてもどうにもならない、事実でないことを考えるということから解放されるだけでも救われるかも知れません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 

 

 

 


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老子ー24 [老子]

跂者不立、跨者不行。自見者不明、自是者不彰。自伐者無功、自矜者不長。其於道也、曰餘食贅行。物或惡之。故有道者不處。

 

跂者:つま先で立つ人

跨者:大股で歩く人

自伐者:自慢する人、格好つける人

自矜者:自負する人、自分を誇りに思う人、プライドの高い人
贅行:無駄な行為。
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つま先で立っても、いつまでも立っていられない。
大股で歩いても、いつまでも歩いていられない。
自分の目で見たと言っても明らかではありません。

自分が正しいと言っても讃えられることではありません。

自慢するような人は功績に値しません。
プライドの高い人は長続きはしません。

「道」の立場からすると、不自然なことや自分を主張するということは捨てられる食べ物のようであり無駄な行いです。

一切の生き物は無駄なことや無益なことはしません。

「道」に沿った生き方をしている人はそんなところで留まることはない。

******

<他の翻訳例>

無理をして、つま先立つ者は、立っていられない。

無理をして、自分を見せようとする者は、称賛されない。

無理をして、自分で見ようとする者には、事態は明らかにならない。

自分でやったことを、自慢する者に、功績は挙げられない。

高慢な者は、人の上に立つことはできない。

道の観点からすれば、そういう行いを、

『食後のごちそう、余計なお世話』という。

人々はそんなものは好まないものであり、

本当に欲がある者は、そんなことを欲したりはしない。

老子の教えあるがままに生きる  安冨 歩著 ディスカバー・トウェンティーワン」

******

 この章では「自」と「不」が対になって表現されていることにお気づきになられたと思います。自(=自己・自我・有為)を働かせることは無為自然ではなく、結局は上手くいかなくなるということを言いたいのでしょうか。自然の道理に逆らって不自然なことをすれば長続きすることができないということでしょうか。

 私たちの考えでは、一つの宇宙の中に様々な存在があり自分という存在が対峙しているということでしょうか。この身(=主体)に感覚器官が備わっていて、逐一感受して反応している。私たちの周りには、知られるべき無限の世界(=対象)が広がっていて、知るべき自身が対峙している。全てを知り尽くすことが使命のように思っている人もいます。周りにある存在を片っ端から何でもかんで知り尽くしたいという知的好奇心でいっぱいなのでしょうか。所詮は「管を以て天を窺がう」ようなことかもしれないのですが・・・・。

 

 私たちのやっていることは、物質を分析したり生成過程を研究したり歴史を遡ったり仮説を立てたり・・・思考することでなにもかもが解き明かされて解決するという思考回路が根強くあります。誰もが幸福を願っています。政治家や思想家や科学者は、社会の仕組みを見直したり新しい思想を提案し、便利で物質的・精神的に満たされる幸福な人生を思い描いているのでしょうか。それとも、自身の権勢欲や主義主張を認めてもらいたいとか知的欲求を満たすためだけに活動しているのでしょうか。木星の探査で知りうることが今生きている人にどう役立つかサッパリ分かりません。

 知的欲求の方向性としていは、外と内という両極端に分かれます。一方は無限に広がる宇宙であり、他方は微細な素粒子の解明という方向へ向かっているのでしょうか。

 極大も極小も無限へ向かいます。無限を手にすることができないので無に等しいということになります。地球上で生活していて空気を吸うことに気づかないくらいに無限に有れば無いも同然です。鳥にとって空は無限であり、魚にとって海は無限です。空も海水も無いに等しく生活しています。釣り上げられた魚は海水が無い状態にあって、初めて海水が有ると気づきます。さて、私たちは有であるのか無限であるのか・・・・。

 

 人間が動物と異なる点としては、物質を化合したり加工して新たな物を作り出すことができることかもしれません。保存・貯蔵することができる技術を手に入れたことで生産=消費(生産即消費)ではなく、タイムラグを生み出すことができたことが大きな違いかも知れません。動物は狩り=食糧=消費=生存があり、食糧を余すとか無駄にすることはしません。

 

 私たちは知らぬ間に地球という環境の中に置かれています。意志の力である程度の動作ができるだけですが言語を使って無限に思考ができます。それもただ自分だけの一身の内だけに起こっていることです。「他は是れ吾にあらず」であり、他人の心境がどいうもので同じものを見ても様々な視点で様々に分別しているはずです。個々人の視覚能力・聴力・味覚・触覚・嗅覚・思考力が異なっているとうのはごく自然なことで分別された結果も異なります。

 共通な部分があるとすれば、分別以前の見える・聞こえる・味わえる・匂う・感じる・思考するという勝手に起こっていることではないでしょうか。分別以前ですから好悪・善悪・美醜などがない「あるがまま」をそのままに感受しています。「純粋な知覚=本来の自己」が誰にも備わっているということです。

 刹那の瞬間に分別が起こってしまい、思考が使われています。事象を振り返った時には、事象は過ぎ去り消えています。既に思考という段階にあれば、事象と出会うことはできません。既に消え去った事象に対して、思考を使ってどうこうしようと頑張っても後の祭りです。「馬の前に荷馬車を付ける」ようなことをしているかもしれません。

 「私」という視点は消えることはありません。思考した後に必ず思考主体としての「私」を持ち出して説明しています。癖なのでどうにもなりません。「私」は触れることも見ることもできないただの観念(=思い込み)であり便利な言葉です。「私の思い」と言っている「私」はどこにいるのでしょうか、一体どうやって「私」を見たり触れたりできるでしょうか。客体化(=対象)としないで「私」を見ることが可能でしょうか。「私」は「私」を見れないし触れることもできません。触れられるということは既に対象であって「私」ではありません。ペンやスマホと同様に「私」が認識できれば別ですが・・・。

 この章で「自分」としているのも観念(=思い込み)で定義された「自分」であり、習慣的に使っているただの表象です。その表象にまとわりついているアイデンティティを自慢しても無駄だといっているのでしょうか。ワンちゃんも猫ちゃんもその時その時で生産と消費が行われ、食べ残しも無駄な行いもありません。将来を悩んだり死後を心配している動物がいるでしょうか。私たちは、思考力の副産物として余計な思い込みに振り回されているかもしれません。

 悩みもがいてもお腹は空くし、泣きっぱなしということもできません。勝手に思いは出てくるし、勝手に身体は動いています。”なんとかしよう”という思いを手放して「あるがまま」に徹底的に委ねてみるのもいいかもしれません。「私」で悩んでいるのも自作自演のジョークかもしれません。

 

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自洲 [阿含経]

自洲

南伝 相応部経典22-43 [阿含経典二巻 P66 増谷文雄著 筑摩書房]

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、世尊は比丘たちに告げて仰せられた。

 

「比丘たちよ、みずからを洲 (す)とし、みずからを依所 (えしょ)として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい。

 比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依所として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住し、事の根本にまで立ちもどって観察するがよい、<嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、いったい何によって生じ、何によって起こるのであるか>と。

 比丘たちよ、では、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、何によって生じ、何によって起こるのであろうか。

 比丘たちよ、ここに、いまだ教えを聞かざる凡夫があるとするがよい。彼らは、いまだ、聖者にまみえず、聖者の法を知らず、聖者の法を行ぜず、だから、彼らは、色(肉体)は我 (われ)である、我は色を有す、わがうちに色がある、あるいは、色のなかに我があると考える。だがしかし、色は移ろい変わる。色が移ろい変わるから、彼らに嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

 だから、彼らは、受(感覚)は我である。われは受を有す、わがうちに受がある、あるいは、受のなかに我があると考える。だがしかし、受は移ろい変わる。受が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

彼らは、想(表象)は我である、・・・

彼らは、行(意志)は我である、・・・

彼らは、識(意識)は我である、我は識を有す、わがうちに識がある、あるいは、識になかに我があると考える。だがしかし、識は移ろい変わる。識が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

 しかるに、比丘たちよ、いま、色において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの色もいまの色も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。

 比丘たちよ、また、受において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの受もいまの受も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するだろう。それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。

 比丘たちよ、また想において、・・・

 比丘たちよ、また行において・・・

また、比丘たちよ、識において、その無常なること、変移するものなることを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの識もいまの識も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。それらが消滅するがゆえに、心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなれば、安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる」

 

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 人生において不可解極まりのないのが「私」であります。だれもが「私」という言葉に翻弄されています。「私」によって問題が起こっています、この「私」の解決(=決着をつける)が全ての解決の足がかりになることは間違いありません。「私」が身体であったり心であったりというのがただの観念(=決めつけ)であるということを見抜く必要があるようです。あらゆる事象が無常であり消滅しています。感覚も感情も思考も意識も智慧も起こっては消えている無常だということ。

 「私」という感覚を無理に継続させていることに気づきます。無常であるのに「私」だけが恒常不変であるとしているのはなぜなのでしょうか。いつまでも「私」は「私」でありたいのかもしれません。ただの表象であることを見抜かなければなりません。

 

 我々の身体が全く同じままの身体ではないことは誰でも実感していると思われます。心もまったく同じままではありません。その時々に生じては完璧に消え去っています。私たちが今経験していることは全てが初めての体験であって後戻りできない経験です。これから起こることも、何が経験されるか知らされてはいません。全ての経験が人生で一度きりでありもう二度と起こらないということです。

 

 物質現象に眼を向けてみます。今見ているディスプレイも変化していて全く同じではありません。ある部分を捉えれば粒子でありされに細分化すると分子[→]電子が飛び交っていて[→]更に素粒子という目に見えないものの集まりで出来ているようです。分子が結合しプラスチックと呼ばれるものがフレームという形となって見ることができます。サッパリ分かりませんが、素粒子がひっきりなしに動き回っているのでしょうか。

 私たちの身体も最小単位まで細分化すると素粒子が結合して存在しているだけかもしれません。私たちの眼の中に光が勝手に差し込み網膜に刺激を与え、何らかの像として勝手に認識されているます。世界は太陽光が反射されて、光の波長が飛び交っているだけなのに・・・。何らかの形と色に分かれて認識され、識別作用が起こるようになっています。

 次に、言葉を持っていなかった動物と変わらない自身を想像してみます。当然「私」という言葉も持ち合わせていません。「見える」という言葉もないので、何かが在るという世界の只中で動き回っていたと想像されます。「私」という言葉もないので、「私が見ている」のではなくただ見えているただ聞こえているただ味わえるただ感覚がある・・・。ただ◯◯という五感の純粋経験だったかもしれません。次に言葉を発するようになり概念で様々な言葉と文字によって思いというものとなっているのでしょうか。他の五感と同じように思いも勝手に浮かんでは消えているということです。思考は「私」ではありません。「私」は常に後づけの説明で登場しています。

 思考を自身で操作していると勘違いしていることで、分別が自身であるとしてしまったようです。この分別するということで二元対立(=苦しみ)を生み出して葛藤するようになりました。

 痛いは痛いでしかなかった。老いは老いでしかなかった。死は死でしかなかった。あるがままはあるがままで何にも間違いはなかったのですが・・・。あるがままで何も問題はありませんでした。だれもがあるがままを認識するだけであれば、今も”エデンの園”に住んでいます。しかし、脳の癖によって瞬時に識別作用が働いて分別してしまいます。分別によって、善悪や好悪や美醜や真偽・・となり”なんとかしよう”という自己(=自我)が登場してしまいます。自身で問題としていながら”なんとかしよう”としている自己矛盾を抱えているということです。「私=自我」が解決する、解決できると自信満々ですがその「私=自我」こそが元凶だということかもしれません。

 


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老子−23 [老子]

希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者、天地。天地尚不能久、而況於人乎。故從事於道者、同於道、徳者同於徳、失者同於失。同於道者、道亦樂得之、同於徳者、徳亦樂得之。同於失者、失亦樂得之。信不足、焉有不信。

 

希:まれ、かすか
飄風:暴風
驟雨:大雨、土砂降り

孰:だれか〜わからない

 

言葉が稀であるのが自然である。

暴風は朝まで吹き荒れることはなく、大雨が一日中降り続くことはない。天地において自然を操作している誰かがいるだろうか。天地で同じ自然現象が長く続くことはない。人間も同じ状態を長く続けられることが出来ないのは言うまでもない。(諸行無常)

 「道」のままに生きる人は「道」に従い、「徳」のままに生きる人は「徳」に従い、道も徳も関心のない人は関心のないままで生きる。

 「道」のままに生きれば、「道」を得て楽しむ。「徳」のままに生きれば、「徳」を得て楽しむ。道も徳も関心がなければ、関心のないままに楽しんで生きる。「道」も「徳」もなく言葉だけで仁義を説いている人たち(儒学者)は信頼されず、不信があるのみである。

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希言自然”をどのように翻訳するかによって全文が全く違った解釈になります。

<翻訳書籍例>

◯いつもおしゃべりであることは自然に反する。「世界の名著 老子・荘子 中央公論社」

◯世界はあなたに、聞いても聞こえない言葉で語りかける。あなたは、その言葉を、受け取らねばならない。・・中略・・・

それを通じて届けられる、聞いても聞こえない言葉を、受け取らねばならないのだ。

老子の教えあるがままに生きる 安冨 歩 ディスカバー・トウェンティーワン」


 老子は2千数百年後の人を対象に書いたわけではありません。当時の識字能力のない人たちは読むことができません。当時の君主やある程度の教養のある人に向けて書かれたものではないでしょうか。

 2千数百年前に君主が持つべき資質を示し儒教の批判を記した書を、現代の一般庶民の我々に生きるヒントとして読ませるのはいかがなものかという意見もあるようです。

 般若心経も各自が思いのままに解釈しています。普段の生活の指針としたりとまさに「玉石混淆」です。必要として参考にしている人がいて、需要があるので何も問題はありませんが・・・。

 

 一切存在は名もない(=名は認識後に記憶と照合されて思い浮かぶ)ただの一切存在であって、五感によって勝手に感受(=認識・知覚)されるだけです。見ようとせずとも見え、聞こうとせずとも聞こえます。命名されていることで個別に識別(=認識とは異なります)され、分別される対象(=意味や価値があるもの)とされます。認識されるだけでは善悪などの分別の対象ではありません。識別作用以前では万物は区別・差別のない全体としてあるだけです。認識:五感での感受 識別:分別によって二元対立となる

 一切存在は反射・振動・波長・圧力・素粒子・・によって認識されます。存在は人間の都合のいい言葉(=地域によって多くの言語があります)によって、勝手に命名されているだけです。今この瞬間にもどこかで辞書にない言葉が生まれて(=命名されて)います。命名されることで意味や価値を付与されて、全体から分離した認識対象となります。人為で意味や価値をつけているだけで、一切存在の本質は区別・差別のない万物斉同であったはずです。

 「無為」は人為ではありません。人為で意味や価値を与え、人為で人をコントロールすることは「無為」と逆のことをしているかもしれません。

 

 人間は、感受した感覚から様々な思いが勝手に浮かんできます。(思いは自分ではありません)脳内で起こっていることは、様々なイメージが入り混じったあやふやな思いがただの形(=文字)とただの音(=言葉)へと変換されてしてしまいます。誰もが知らぬ間に、感覚・感情から概念(=言語)へと変換させる脳の癖がついてしまっています。

 「痛い」といっても無数の痛みの感覚があります。無数の痛みを単一の「痛い」として表現せざるをえないところに言葉の限外があります。脳が感覚・感情と言葉を常にリンクして処理する癖がついているので、言葉が感覚・感情と一体化してしまっています。

 言葉(=ただの音・振動・空気中を伝わる圧力)によって感情が揺さぶられ、大きなダメージとなることもあります。言葉から受ける苦しみによって自身の命を奪うこともあります。本来は言葉から感覚・感情そのものを体感することなどできないのですが・・・。

 一切存在は、動的でたえず変化して消え去っています(諸行無常)。無常なるモノを静的で固定された表象(=言語)で表現すること自体が不可能なことで間違っているのですが・・・・。

 

 例えば、動的な血流を静的な表象である「血流」という文字(=ただの形)で解るのでしょうか。「血流」と言われても現実に見ることもできないし体中の「血流」を感じることもできません。私たちが、「血流」という言葉から「血が流れている」という概念とイメージを思いう浮かべているだけであって、ただの思い込み(=概念)だということです。

 「血流」という言葉を聞いて、見ているような・感じているような気になっているということです。見てもいないし感じてもいないことを、あるかのような実在として捉えるてしまう妄想力が働いているということです。流れているということは、瞬間瞬間たえず変化して消滅していることです。

 今身体を巡っている動的な「血流」を「血流」という言葉(=概念・静的でたんに形と音)で捉えたり掴んだりすることはできません。身体の中を巡る血流を全て見ることなどできません。「血流」はただの概念であり、「血流」という実体などありません。血管の中に指を入れたとしても「血流」の一部であって「血流」そのものではありません。

 身体の中のほんの一部(=血管)に触れて「血流」としました。家族の一人に触れて長男としました。日本の一部に住んでいて◯◯県としました。地球の一部に居るとして日本としました。太陽系の一部として地球としています。地球は太陽系であり、日本は地球であり、◯◯県は日本であり、家族は◯◯県に住んでいて、長男は家族であり、長男は身体をもち、身体は血管をもっていて、血管には血流があります。

 血流は宇宙の一部ということであり、血流は宇宙そのものかもしれません。

 

 「川」「海」「雲」「鳥」「私」「薔薇」・・・・命名されたあらゆるモノは概念であって直接に掴んだり得たり捉えたりできません。「川」という名づけられた概念で「川」を見ています。本物の「川」は一瞬も同じではありません。常に変化してまったく同じ状況などありません。動的な水が流れている様があるだけです。

 一切存在から名を排除して、そのまま・素のままをただ見る。意味も価値もなく動的に変化しているもの(=宇宙そのもの)でしかありません。極端に言えば、「雲」を見ているのではなく宇宙の動きそのものを見ている。身体が動いているのではなく宇宙が動いているのかもしれません。

 

 「本来の自己=私」が「本来の自己=私」を知ることはできません。なぜなら「私」が知られる対象にならない限り「私」は知られないからです。残念ながら「私」は「私」として分離させて別の「私」を出現させて知られる対象となることはできません。どうして別の「私」が存在しうるのでしょうか。「私」は「私」というひとつであるから「私」と言えます。

 もし知られる対象としての「私」が存在しているとしたら、その「私」は概念であり幻想だということです。

 鏡の前に立っている「身体」を触れてみて下さい。この身体が「私」だとしている、その思いはただの概念でとらえているのが「私=自我」です。だれが鏡を見ている自分を直視しているというのでしょうか。”自分が鏡を見ているに違いないとしている”という思いが「私=自我」というただの思い込みです。鏡を見ている自分を直視できていないので経験上の思い込みで”鏡を見ている”と確信しているだけです。鏡の中の像が本当の自分です。不思議なことに鏡を見ている自分が本当の自分だと疑わないほどに、観念上の私を実在として扱っています。何らかの姿があり五感が働いていて「我=分別」を持っていない知ることのできない何か。実在として掴むことが出来ない働きとして在る、あり続けている、これからも・・・。生まれていないので死ぬことがない何か・・・。

 ”私が見ている”というのが概念です。「私」でもなんでもない五感の働きによって見えているだけということです。

 「川」の水に触れて流れの圧力や冷たさという感覚を感受(=認識・知覚)しているのが「それ=本来の自己」です。識別作用が働き「川」だと分別しているのが「私=自我」だということのようです。

 

 多言は不自然で信用できないということでしょうか。儒学者は多くの「言葉」を使って人間を律しようとしている。人間はこうすべき・こうあるべきと枠にはめて、不自然な生き方を強いていると言いたいのでしょうか。人為的で自然に逆らっているというこかもしれません。

 人間も自然の造形物のひとつの顕れでしかありません。自然をコントロールしている主催者のようなものはどこにも見当たりません。変化し続ける自然を「言語」という「形と音」だけの曖昧模糊な人為的なものでは表現できない。

 人間が動物と大きく異なっている点は、事実・現実とかけ離れた「虚構」や「物語」を作りだすことができるということでしょうか。事実・現実は一つしかないのに、ありもしない妄想の世界にエネルギーをつぎ込んでいるかもしれません。頭の中は、今ここにある一つの事実・現実から離れ、消え去った過去を思い出したり起こってもいない未来を心配していないでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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思考で苦しむ [気づき]

 社会的構造的な問題から自身の問題にフォーカスしてみます。社会構造的な問題は政治家や学者が考えて解決する問題であり我々が責任を負う問題ではありません。

 私たちは、悩みを生じさせている原因が思考を追い回している思考であるという事実に気づいているでしょうか。あたかも自身の尻尾を掴もうとしている犬や猫のようです。

 思考こそが、私たちの諸問題解決に必要なものでしょうか。一旦立ち止まって観察したり何もしないというところに留まってみるのもいいかもしれません。

 よく言われている「一切転倒」というのは問題が先にあり思考が後であるということかもしれません。思考が問題を作り、その問題を思考を使ってどうにかしようとしています。掻いて痒みを増しているのに、さらに掻いて痒みを抑えることができるでしょうか。更に痒くなるか炎症を起こしてしまうか・・・。

 

 問題を起こしていながら思考でなんとかしようとします。教育によって思考で問題(=ペーパー上の問題)を解く訓練を受けて育っています。自身の問題を解いてきたわけではなく、作られた問題をルールに従って答えてきただけの話です。自身の問題を解決してきたわけではありません。コペルニクス的転回が必要とされます。自身が感受することを分別して取り扱う(=思考の対象とする)ことで問題となっています。認識で終わっているのに、次の識別作用を働かせて分別してしまうことで問題とするか。

 

 私たちは自らの意志で生まれてきたわけではありません。自我意識も知らぬ間に身についていて、思いの通りにしようと勝手に働いてしまいます。生まれ出る環境も選ぶことも出来ず、習慣も言語も環境に従うしかありません。◯◯人として◯◯語を話さなければなりません。

 生まれた環境の一切にあがなうことができません。半強制的に従わなければ生きていけません。あらゆる事象をそのままに受け入れるようにできているのが人間かも知れません。

 何者でもないただの生命体が周りの大人と言われる人たちによって構築されているガチガチの社会があり、その社会の枠組みに組み入れられているというのが事実・現実です。

 生まれたからには、集団の一員として生きるしかありません。集団の生活スタイルを自動的に自身が受け入れるので、集団がそのまま自身にコピーされます。周りの環境そのものが自身そのものとなります。周りの世界=自身の世界。自我意識(=自他の分離・分別)が身につく前の赤子にとっては、感受したものは外ではなく自分自身そのものということのようです。

 取捨選択できない赤子には一切(=感受=見えるのは、聞こえる音、味、匂い、感覚)が自身そのものです。

 

 言葉を覚えるに従って、一(=一との定義は多を含む)でない全体があるだけです。大人によって、存在が個々に分離されているように教え込まれていきます。何でも無い全体があるだけでした。その何でもない全体から花とカテゴライズされたモノが抽出され、次に薔薇という名前がついているというこを教わります。あらゆるものには予め名前が付与されていて、それらのものは認識される対象であるという錯覚が植えつけられます。ただ全体があるだけということは忘れ去られ部分が集合されたものが全体だと思うようになります。

 次に、「私=社会的自己=自我・思考・記憶=アイデンティ=身体」という何らかの主体があるという錯覚が錯覚と思えなくなっていきます。

 

 先に対象があって次に対象を認識している「私=社会的自己=自我=主体」が徐々に確立されていくかもしれません。「私=社会的自己=自我」という確固たる実体は存在していないのですが、五感は機能として認識し続けます。私たちは、ただ鏡のように映し出しているだけなのに、瞬時に対象とする癖によって分別します。この二元対立の分別によって”なんとかしたい”自我意識が起こります。ただの”なんとかしたい”という思い(=頭の中のイメージ)に振り回されてしまいます。

 このプロセスは、

1.感覚と感情が結びついて何らかの思いが沸き起こる。

2.言葉を覚えたので感情を言語化するよに脳が働く。

3.思いが言葉になり、”なんとかしよう”と頭の中でお喋りする。

4.お喋りしている「私=社会的自己=自我=主体」がどこかにいるかのように感じる。

 本来はただの思いが言葉になってしまった現象でしかないのに、「私=社会的自己=自我=主体」という錯覚・幻想が錯覚・幻想でなく実在のように感じられてしまいます。

 

 成長するに従い、感覚を言語化していただけから言語である言葉(=ただの音)や文字(=ただの形)が自身と密接につながり言語と自己同一化するようになります。

 言語でイメージ(=頭の中だけの現象)を展開できるようになり、それを図面や楽譜や芸術作品や建造物・・・として出現(=アウトプット)させることができるようになっています。言語を瞬時にイメージ化することができることには弊害もあります。あまりにも言語が身近になり自己同一化することで、感情や感覚に多大な影響を及ぼしているということです。SNSでの誹謗中傷で心(=実体がなく現象を捉える働き)が病み身体まで深刻なダメージを負ってしまうということです。

 例えばタイ語で”คุณสวยมาก”と投稿されても意味が分からなければ全く気になりません。また、外国のTVドラマで字幕がなければ何を言っているかサッパリ分からず感情移入することもありません。ただの音でありただの形でしかないというのが事実ですが・・・。

 見えるまま、聞こえるままにして意味を識別しなければ問題にはならないということです。カラスが”カッー”と何の意味もない音として聞こえれば何も問題はありません。しかし、ある鳥が”アホ”・”ドジ”と鳴いていると気になるのではないでしょうか。

 私たちは対象に意味や意義があるという前提を植えつけられています。一切を識別(=認識でははありません)して分別する脳の癖によって苦しんでいるかもしれません。自我意識は全てに意味があって、知るべき対象であり思考して解決しようとしてしまいます。

 本来のあるべき姿では、一切は万物斉同(=一様)であり起こるように起こっている。何も意味や価値など備わってはいない。自身も変化・変化していて恒常不変なものなどない。無常なるものには実体がない。実体のないものに我はないので、無我である。

 自我意識は記憶です、すでに消え去った事象を記憶(=ただの思い込み)から蘇らせて迷っているということではないでしょうか。

 記憶は記憶でしか無く、実体は存在していません。記憶された過去の事象はこの世から消え去っています。どこを探しても見つかりません。幻影(=記憶)でしかないものを取り扱うことでくるしんでいます。過去に振り回され、今に生きていない。過去を蒸し返して過去に振り回されて苦悩していることに気づいてみる。

 存在していない記憶(=幻影)を実体のない思考(=なんとかしようという思い)を使って大騒ぎしています。頭の中で記憶という映写機で映し出された映像に対して、思考という映写機で映像を変化させようとしているかのようです。実体のないものを実体のないものでどうすることもできません。頭の中の上映は放っておいて、映画館(=記憶や思考)から外に出るのがいいでしょう。今ここに強烈に戻ります。呼吸している自分、何かが見えている自分、何かが聞こえている自分、何らかの感覚がある自分。今ここで起こっていることだけを観察してみます。映画館(=頭の中)で何が上映されているかなど気に掛けずに、今ここでの感受だけが自身そのものとしていてみる。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−22 [老子]

曲則全、枉則直、窪則盈、敝則新。少則得、多則惑。是以聖人抱一、爲天下式。不自見故明、不自是故彰。不自伐故有功、不自矜故長。夫唯不爭、故天下莫能與之爭。古之所謂曲則全者、豈虚言哉。誠全而歸之。

 

曲:部分
則:なれば

枉:湾曲する、まげる
盈:みちる、あふれる

敝:やぶれる、ぼろぼろになる
彰:あきらか
伐:殺す、手柄
矜:つつしむ、うやまう、おごそか、たっとぶ、ほこる
莫:否定

豈:のぼる、願う、楽しむ、やわらぐ
歸:落ち着く

 

部分はすなわち全体である。
曲(線)はすなわち直(線)である。
窪みがあれば満ちるということがある。
朽ちるということは新しかったということである。
少ないと感じれば得ようとする。
多くなれば心が惑う。

故に聖者は「一」のままを抱いて、天下の規範となる。
自身をしめす必要がないので、却って明らかである。
自身を正しいとしないので、却って際立つ。
自身を誇らないので、却って功績を認められる。
自身を自画自賛しないので、却って尊敬される。

これらのことで、他者と争うことのない。
だからこそ、天下の人々は、この様な聖者と争うことはない。
昔から言われている「曲則全」、部分は全体であるという言葉は虚言ではない。
本当に部分である個人は全体に帰すのである。

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 現実・事実は一つであるのに、事象を固定観念によって分別して”なんとかしよう”と思い「苦」を作り出していないでしょうか。物事にはあらかじめ善悪のラベルが貼りついているわけではありません。”1”も”単位”も人間の作り出した勝手な概念であり実体のないただの表象・呼称でしかありません。”単位”はある定義定数から”単位”を作り国際単位として合意したものです。基準となるモノから計測機器が作られ”単位”とされているようです。

 1mは光と時間から算出されますが1mを捉えたり掴んだり見たりすることはできません。メートル・秒・キログラム・アンペア・ケルビン・カンデラ・パスカル・ジュール・・。パスカル(圧力)・ジュール(エネルギー・仕事・熱量)は一体どこにあるのか確かめることもできません。存在も知らずに生きています、これからも”単位”を聞くかも知れませんが、990hpaや100ジュールそのものを見ることはできないと思われます。計測機器で表示された数値は見ることはできますが、熱量そのものは見ることはできません。

 重いという感覚、暑い・寒いという感覚、スピード感、風を受けた感覚、明るさの感覚、距離の感覚・・・、感覚が先にあって単位を聞いてそのくらいだったと納得します。

 言葉だけで”風速30m/秒”と言われてもただの音であり実際には身体で感じることはできません。事実(=体験・体感)が先にあって後から単位(=”風速30m/秒”)を言われて納得しているのが現実です。

 

 私たちは単位など気にせずに生きています。必要な時に単位や数字の”1”を持ち出して使っているだけです。午後3時などどこにも存在していないし、970hpaがどこにあるかもわからずに生きています。歩いていて風速5m/秒を見たり掴んだり得たりすることはできません。

 私たち人間は、存在していないし見えもしないものを言葉をあてがって「虚構(=フィクション)」を作り続けています。「虚構(=フィクション)」を共有することで頭の中のことが優先されてしいます。頭の中の言葉を組み替えて文字にしたり図にしたりというアウトプットができて、実際に手を使って現実に作用することができます。

 困ったことに、教育によって思考する訓練を受けて文字で出された問題を解くことを学びます。また、意志を使って筋肉に働きかけることで些細な運動ができるという成功体験を積んでいます。思考が主であり、身体や意志が従であると自然に感じるようになっています。現実に対しても思考によって働きかければ現実を変容させることができると思うようになってしまったようです。

 意味や価値を勝手に思い描いて”願えばできる病・願えば叶う病=願うだけで現実が変わるという思い込み”と気づかずに思っているだけとなります。思っても身体が動かなければ現実は一つも変わりません。

 事実が常に先にあるということを忘れてしまい、”なんとかしよう”という思いだけに振り回されることになります。何でもかんでも思いだけで現実が変化したら大変なことです。「一念三千」であり、その一念をどうして「私」が介入して操作できるのでしょうか。視線を移すと勝手に見えたり聞こうとしなくても勝手に聞こえてくるように思い(=意・念)も勝手にわき起こってきます。眼・耳・舌・鼻・身・意は「私」無く(=無我)働いているだけです。瞼を閉じれば見えているものが立ち消え、ジッーと見入るとよく見えます。これと同じように「思い=思考」も取り扱わないと立ち消え、「思い=思考」を取り扱い続けると消えるどころかどんどん燃え盛ることになるようです。思いが出たら、思いが出たとして放っておけば消えるという経験を積むしかありません。

 何もせず(=思考にかまけず)に今の自分に参じる(独参)ことが近道かも知れません。見えていれば見えているまま、聞こえていれば聞こえているまま、思いが出れば出たままにして手をつけない取り扱わない次の思いが出るにまかせてみる。

 

 私たちは「私」を気にせず(=無心・無我)に生きているのですが、困らない自分であろうとするときに”なんとかしよう=我”という気持ちがわき起こり”願えばできる病・願えば叶う病”に振り回されてしまうようです。

 各人が勝手な単位(=アイデンティティ)で自らを測定して「私」はこれこれこういうものだという取り扱い説明書でなんとかしようとします。ただ”なんとかしよう”という思いが起こったとしてかまわなければ”なんとかしよう”は自然に消滅するだけなのですが・・・。”なんとかしよう”という意志があればなんとかしているはずですが、なんともできないで何もこもってはいません。いつまでも思いが続くので困っているということのようです。

 

 あらゆる事象を固定観念によって瞬時に二元対立として分別するので葛藤に振り回されてしまいます。身体も心も”1”や”単位”のようなものであり「私」としているただの概念で割りふっているようなものではないでしょうか。聖者は二元的な見方をせずに、部分と全体を比較してどうのこうの分別をしないということなのでしょうか。

 

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"1"は幻 [気づき]

 「数値」は数の量や内容であり計数(=カウント)と計量(=計測器・計量器で調べる)があります。数値は数学で加減乗除の対象として扱って答えを算出できます。一方「数字」は数を表す文字であって計算することはできません。

 自然数⊂整数(負の整数、0、正の整数)⊂有理数⊂実数⊂複素数 

 

 この世に絶対的な"1"があるでしょうか。"1"はただの概念としてあらゆる存在を定義できます。文字も"1"(=1文字)、パソコンも"1"(=1台)、本も"1"(=1冊)、自動車も"1"、自転車も"1"、花も"1"、靴も"1"、茶碗も"1"・・・・。ありとあらゆるものが"1"であって、絶対の"1"などどこにもありません。だれでもが"1"というものを捉えたり掴んだり得たりできません。"1"そのものを見ることはできません。"1"(=表象・呼称)は存在していないということです。

 だれもが認める排他的な"1"なる存在があるでしょうか。もし絶対的な"1"があれば、他の存在は"1"ではありません。そんな絶対的な”1”がどこかにあるのでしょうか。

 自らが対象と認めた時に"1"(=表象・呼称)としています。区別・識別できる何かを"1"(=表象・呼称)と定義して使っています。

 

 ボクシングでのカウント(=1・2・3・・)を見ることができるでしょうか。カウントの実体はどこにもなく、ただの音として認識されるだけです。"1"は便宜上使われている概念でしかありません。概念を捉えたり掴んだり得たりすることはできません。

 宇宙全体を"1"としてもいいし、ウィルスの一つを"1"としても何ら問題ありません。ただの概念であって勝手に定義すればよく、"1"はどこにでも出現させることができます。"1"は固定されたものではないということであり実際はどこにも実在として存在していないことになります。あらゆるものに"1"をあてがうことができるということは、無限に有るということです。

 "1"など本来はどこにも無いのですが勝手に"1"と定義して気にせずに使っているだけかもしれません。"1"を「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」に置き換えて見て下さい。「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」はどこにも実体はありません。感覚・感情・思考を振り返ることで割り当てられた表象(=呼称)です。他者への説明や感覚・感情・思考を処理するために「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」という言葉が使われているだけのことです。

 10年前のままの「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」はどこにも見当たりません、昨日のままの「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」もどこにも見当たりません。今(=思った瞬間には今ではありません・事実はすでに消え去っているちょっと前)ここにあると思っているときにだけ「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」としているだけです。

 

 "私"の意志で目を覚ましているのでしょうか、"私"である身体なのに肩こり一つ治せない。耳鳴りで自らを悩まそうと思ってもいないのに耳鳴りがある。"私"であるのに熟睡できない、老いたくなくても老いる。病気になりたくなくても病気になる。"私"=身体であり"私"=心であるはずなのに、"私"の思い(=こうなりたい・こうなりたくない)と現実の身心はかけ離れている。勝手に変化して消滅している。"私"の思いと身心はリンクなどしていない。"私"は身体でもなく、"私"は心でもない。ただ何らかの因縁で現れた身体(=物質)に備わっている眼・耳・鼻・舌・身・意の働きが勝手に起こっているだけかもしれません。


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老子−21 [老子]

孔徳之容、唯道是從。道之爲物、惟恍惟惚。恍兮惚兮、其中有物。恍兮惚兮、其中有像。窈兮冥兮、其中有精。其精甚眞、其中有信。自今及古、其名不去。以閲衆甫。吾何以知衆甫之然哉、以此。

 

真の徳の姿は、ただ道に従っている姿である。
「道」はおぼろげで、捉えどころがない。
しかし、ぼんやりした「道」の中に実体へと変化する何かがある。
捉えることができず、微妙なものである。
そこには変化して物質となる、深遠で精妙なものである。
その中に真実がある。
過去より現在に至るまで、「道」という名(=現出する働き)が絶えることはない。
万物を主宰している。
私は何によって、万物の根源が「道」であると解るかと言えば、
この「道」が捉えられず精妙であるからである。

 

孔:おおきな

容:すがた

恍:かすか

惚:ぼんやり、微妙
窈:深遠
冥:くらがり、奥深い
衆甫:万物の初め。
閲:しらべる、おさめる。

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 「道=タオ」は「道=タオ」と名づけることなどできない恍惚の状態。「道=タオ」から名(=現出させる働き)が働いて、有無が生まれる。天地は妙(=無の働き)であり、万物は徼(=有の結果=名づけられた結果)としてある。

 

 ここからは知識での観察ではなく、ありのままの観察ですので通常の知識を使っての推察ではありません。私たちの本質がどいうものかで迷わないための手がかりになるかもしれません。知識や思考は社会生活に必要なものですが、こと本来の私たちの探求には妨げになるかもしれません。

 知識や思考や科学技術を駆使して私たちの本質に向かうのは混乱を招くだけであって「百害あって一利なし」ということです。「向かえば背く」

 

 存在は認識体(=生命体)の感受(=見聞覚知)によって認識体での存在となっています。認識体の感受(=見聞覚知)によってのみ存在となります。認識体が認識しなければ存在はありません。認識された存在は認識体の外にある対象物ではありません。見られたものは見た認識体そのものです。しかし、認識体の脳の癖で分離された対象物として扱うようになっているようです。

 大事なポイントです。今この瞬間に起こっている事実は対象ではなく、事実そのものだということです。「私=本来の自己」の外で起こっているのではなく「私=本来の自己」そのものだということです。今この瞬間に感受(=見聞覚知)して確かめられないものは全て思い込みです。いるはずもない「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」を持ち出して「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」が聞いた、見た、味わったとして分別してしまいます。

 あまりにも瞬時の出来事であり、「私=本来の自己」と「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」の境が分かりません。観念を持ち出して分別してなんらかの二元対立的な意見は「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」が使われたという証拠です。「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」がいい悪いではなく、「私=本来の自己」の働きがあるということ見抜くということが主眼となります。

 

 全く同じ状況にあっても、身体的な特性や個性や観念によって反応が異なります。小学生にとって泳げない人にとってはプールの時間は楽しいものではありません。ダンスが苦手な人にはダンスの時間は苦痛でしか無いかも知れません。音痴な人にとっては歌のテストは辱めを受けていると感じるかも知れません。

 各人が各人の観念によって見ているということです。何で泳げないのか、何で踊れないのか、何で歌えないのか、何で数学ができないのか、何で解剖したくないのか・・・・。自身ができることは他人もできて当然のようにしているのが観念(=我)であって思い込みです。自身が自身に対しても観念で勝手に想起していないでしょうか。

 外で車の走る音がした、「カァーカァー」という鳴き声が聞こえた、草むらから「リィー、リィー」と鳴く音が聞こえた・・・。事実は車など見ていません、カラスも見ていません、鈴虫も見ていません。聞こえた声は私であり、外の何か(=対象として尋ね、想起したもの)ではないということです。私なしに聞こえているという事実があって、カラスと決めつけて聞いている私がいるはずとした結果「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」があるように感じられた。

 

 尋ねて分かるとしているのは観念上の決めつけであって、本当の自己を尋ねてはいません。どうして今ここに生きているかなど「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」には分かりません。どうして存在を感受して認識しているのかもサッパリ分かりません。分からないし何でもないものとして有るのが「本来の自己」の真の姿かもしれません。名(=玄)によって有無となり、無(=名がないもの)である存在に一つ一つ名づけることで認識できる存在として認める。

 森の中に入って木々に生い茂る一枚一枚の葉を対象としては見ません。砂漠のひと粒ひと粒の砂を対象としては見ません。識別する意味や価値がなければ対象とならないからです。新発見の植物や魚やウィルスは何でもないのですが、名をつけることによって自動的に対象の一つとして見るようになります。

 万物から名を排除して概念も取っ払って「赤子の目」で観ると、あらゆる存在は恍惚であり捉えられないおぼろげな何かとしてあるだけかもしれません。

 

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