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自洲 [阿含経]

自洲

南伝 相応部経典22-43 [阿含経典二巻 P66 増谷文雄著 筑摩書房]

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、世尊は比丘たちに告げて仰せられた。

 

「比丘たちよ、みずからを洲 (す)とし、みずからを依所 (えしょ)として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい。

 比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依所として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住し、事の根本にまで立ちもどって観察するがよい、<嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、いったい何によって生じ、何によって起こるのであるか>と。

 比丘たちよ、では、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、何によって生じ、何によって起こるのであろうか。

 比丘たちよ、ここに、いまだ教えを聞かざる凡夫があるとするがよい。彼らは、いまだ、聖者にまみえず、聖者の法を知らず、聖者の法を行ぜず、だから、彼らは、色(肉体)は我 (われ)である、我は色を有す、わがうちに色がある、あるいは、色のなかに我があると考える。だがしかし、色は移ろい変わる。色が移ろい変わるから、彼らに嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

 だから、彼らは、受(感覚)は我である。われは受を有す、わがうちに受がある、あるいは、受のなかに我があると考える。だがしかし、受は移ろい変わる。受が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

彼らは、想(表象)は我である、・・・

彼らは、行(意志)は我である、・・・

彼らは、識(意識)は我である、我は識を有す、わがうちに識がある、あるいは、識になかに我があると考える。だがしかし、識は移ろい変わる。識が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

 しかるに、比丘たちよ、いま、色において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの色もいまの色も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。

 比丘たちよ、また、受において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの受もいまの受も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するだろう。それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。

 比丘たちよ、また想において、・・・

 比丘たちよ、また行において・・・

また、比丘たちよ、識において、その無常なること、変移するものなることを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの識もいまの識も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。それらが消滅するがゆえに、心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなれば、安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる」

 

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 人生において不可解極まりのないのが「私」であります。だれもが「私」という言葉に翻弄されています。「私」によって問題が起こっています、この「私」の解決(=決着をつける)が全ての解決の足がかりになることは間違いありません。「私」が身体であったり心であったりというのがただの観念(=決めつけ)であるということを見抜く必要があるようです。あらゆる事象が無常であり消滅しています。感覚も感情も思考も意識も智慧も起こっては消えている無常だということ。

 「私」という感覚を無理に継続させていることに気づきます。無常であるのに「私」だけが恒常不変であるとしているのはなぜなのでしょうか。いつまでも「私」は「私」でありたいのかもしれません。ただの表象であることを見抜かなければなりません。

 

 我々の身体が全く同じままの身体ではないことは誰でも実感していると思われます。心もまったく同じままではありません。その時々に生じては完璧に消え去っています。私たちが今経験していることは全てが初めての体験であって後戻りできない経験です。これから起こることも、何が経験されるか知らされてはいません。全ての経験が人生で一度きりでありもう二度と起こらないということです。

 

 物質現象に眼を向けてみます。今見ているディスプレイも変化していて全く同じではありません。ある部分を捉えれば粒子でありされに細分化すると分子[→]電子が飛び交っていて[→]更に素粒子という目に見えないものの集まりで出来ているようです。分子が結合しプラスチックと呼ばれるものがフレームという形となって見ることができます。サッパリ分かりませんが、素粒子がひっきりなしに動き回っているのでしょうか。

 私たちの身体も最小単位まで細分化すると素粒子が結合して存在しているだけかもしれません。私たちの眼の中に光が勝手に差し込み網膜に刺激を与え、何らかの像として勝手に認識されているます。世界は太陽光が反射されて、光の波長が飛び交っているだけなのに・・・。何らかの形と色に分かれて認識され、識別作用が起こるようになっています。

 次に、言葉を持っていなかった動物と変わらない自身を想像してみます。当然「私」という言葉も持ち合わせていません。「見える」という言葉もないので、何かが在るという世界の只中で動き回っていたと想像されます。「私」という言葉もないので、「私が見ている」のではなくただ見えているただ聞こえているただ味わえるただ感覚がある・・・。ただ◯◯という五感の純粋経験だったかもしれません。次に言葉を発するようになり概念で様々な言葉と文字によって思いというものとなっているのでしょうか。他の五感と同じように思いも勝手に浮かんでは消えているということです。思考は「私」ではありません。「私」は常に後づけの説明で登場しています。

 思考を自身で操作していると勘違いしていることで、分別が自身であるとしてしまったようです。この分別するということで二元対立(=苦しみ)を生み出して葛藤するようになりました。

 痛いは痛いでしかなかった。老いは老いでしかなかった。死は死でしかなかった。あるがままはあるがままで何にも間違いはなかったのですが・・・。あるがままで何も問題はありませんでした。だれもがあるがままを認識するだけであれば、今も”エデンの園”に住んでいます。しかし、脳の癖によって瞬時に識別作用が働いて分別してしまいます。分別によって、善悪や好悪や美醜や真偽・・となり”なんとかしよう”という自己(=自我)が登場してしまいます。自身で問題としていながら”なんとかしよう”としている自己矛盾を抱えているということです。「私=自我」が解決する、解決できると自信満々ですがその「私=自我」こそが元凶だということかもしれません。

 


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