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生は偶然、死は必然 [気づき]

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。

よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

<省略>

 知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。

 又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。

 そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。

 のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。」(鴨長明 方丈記より)

 方丈記は火災・竜巻・飢餓・地震などの天変地異を経験し、世間を観察した記録と言われています。

 

<行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。>

 川の流れは絶えること無く続いている。生命は途絶えること無く続いていて、途絶えることなかったので今ここに生きています。源泉を辿れば同じであり万物斉同ということになります。絶滅しないように、環境の変化に耐え生き残れる戦略をとったようです。有性生殖によって様々な遺伝子の組み合わせが可能になり、多様性によって変化への順応と進化が可能であったのでしょうか。源泉の水は(原初の遺伝子)は常に更新されてどこにもありません。

 今流れている水(=この身)は何だと問われても、変化変容して進化多様化した一つの現れにすぎません。生まれようと思って生まれてきたわけでもなく偶然の産物です(生は偶然)。偶然の産物に意味や価値があってもなくてもどちらでもいいし、気にすることではなく自由でいいじゃありませんか。人智の及ばないところで行われた偶然の結果に責任や義務があるでしょうか。

 偶然の産物に何かを達成する責任や義務があったら大変です。”どうしてここにいる”と問われても誰一人答えられません。これから先がどうなるか誰にも分かりません。

 

<よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。>

 淀みにできる水疱は、消えては生まれ(生滅)るということが永遠に行われています。水疱が消えずにそのままにあることなどありません。生まれたものは綺麗サッパリ消え去ることになっています。人も家も生まれては滅することになっていています。(無常)

 様々な状況で千差万別の水疱が出来ては消えていきます。水疱が何する訳ではなく時期がくればあとかたもなく消え去ります。

 

<知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。>

 どこから生まれてきたのかも知らないし、死んだらどこへいくかも知りません。空・無から生まれ空・無へと帰る。空・無など知り得ません。生死不明であるからこそ、何も持ってきていないし何も持っていけません。

 

<又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。>

 ただの仮の住居なのに、誰の(=我)ために悩み、何のために目を楽しませるのだろう。”起きて半畳寝て一畳”とあるように寝てしまえばスイートルームでもワンルームでも一緒なのですが・・。眼・耳・鼻・舌・身・意が喜ぶというのは、人によって異なります。つまり各人が勝手に心地よいと感じている個々の感覚ということになります。

 真実は一つしかありません。真実は一つであっても、受け取る各人の嗜好に依存していているということになります。タバコを吸いたい人もいれば、タバコの煙が苦手な人もいます。科学的に分析したタバコの煙が変動したり自動販売機のコーヒーが買う人によって変化することはありません。タバコの煙はタバコの煙という一つの真実があり、自動販売機のコーヒーの味はコーヒーの味という一つの真実ですが、同じ対象であっても感じ取る人の嗜好や嫌悪感によって分かれます。

 自らの習慣や嗜好によって一つしか無い真実が様々に分かれてしまいます。各自が自分の世界で生きているということになります。自分の世界を他人に押し付けたり、他人の世界を批判することで争いになっています。  

 誰もが自身の世界で安住し、自身の世界を否定されたくはありません。湿度◯%で温度◯度という環境は一つですが、人の容姿がことなるように異なった感覚として受け取っています。

 物理的に”月”と呼ばれる衛星は一つですが、見る生命体の数と同じ数の”月”があるということになります。”月”を映す水滴の数と同じく”月”があるようなものです。

 

<一人で”ドーパミン・オキシトシン・セロトニン”を分泌させるためには>

感動や運動することが必要です。多幸感・ストレス発散・免疫機能が上昇します。自己保身の為にも眼・耳・鼻・舌・身・意を通して楽しむということは当然のことです。スキンシップやおしゃべりによってもホルモンが分泌されるので、身体が要求していることに従っているということでしょうか。本能的に多幸感を得る方法を知っていて実践しています。

 

・各自の楽しみは各自の環境や嗜好によって作り上げられた各自の世界です。誰もが自分が正しいとして生きています(自己正当化)。誰もが異なっているという事実が分かれば闇雲に他人を批判できません。

・真実・事実は一つなのですが、自身の固定観念を通して様々な価値観に分けてしまいます。真実・事実を自分の世界に合わせようとして苦悩します。

・生命の多様性という戦略による現れの一つであり、各自の世界を構築して生きています。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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