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二の箭を受け流せないというだけの相違点 [気づき]

箭(や)によりて」を先に読まれることをお勧めします。



<比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子と、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、なにを特異点となし、なにを特質となし、また、なにを相違とするであろうか>

 普通の人(=凡夫)と聖なる弟子との相違点があるそうです。それは身体的な相違ではありません。何かを掴んだとか何かを得た後のことではありません。修行したり経典を読んで習得したり記憶した結果によって相違するということではありません。経典を解読できる学者や写経した人や経典を暗記できたりすることである境地に達するということがあるでしょうか。宗教的な行事を修めたり、宗教知識を得たり経典を覚えることで何者かになったら大変なことです。宗教的な修練をしなかったら道が閉ざされていると宣言しているようなものです。宗教は聖者への切符を手に入れることではありません。宗教が一番の固定観念かもしれません。宗教臭さも捨てさった自身が真に自由で解放されていることかもしれません。

 身体的な感受の時点ではだれもが聖者ですが、恣意的(=固定観念を通して)に分別して二元対立的に思考してしまうことが問題です。脳の癖で自らを凡夫として混乱の中に導き入れています。善も悪も人間が勝手に定義したものであり、その人間が決めた善悪に振り回されています。”勝てば官軍負ければ賊軍”です。闘って勝ったほうが正義としているだけのことです。戦争自体が”我欲”の集大成であり狂気であり正義なんて勝手な言い訳でしありません。原子爆弾を投下して正義と言い張るところには首をひねってしまいますが・・・。

 身についてしまった脳の癖(=”我”のために何とかしようとして思考を働かせる)だと見抜いて相手にしない。私だとされている”私”は”本来の自己”ではないということです。対象(=客体・私と認識されるもの)がどうして主体であるでしょうか。私が考えた、私がしたとされている”私”は対象だということです。”私は誰?”と問うて出てくる全ては”私”ではありません。我(=”私”)が私(=本来の自己)を知るとうことはできません。知られる者(=我)が知る者を知ることができるでしょうか。見られるモノ(=対象・例えばドア)が見ている者を知ることはできません。見ている者も存在せず、見えていることだけがある。映像自体が自身で、音自体が自身で、感覚自体が自身で・・・。頭で一生懸命に理解しようとしているのが”我”。見えているそのままで無問題・No problem。

 

<比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。>

 身体的な感受は釈迦・弟子・達磨・祖師達・・我々凡夫であろうがほぼ同じです。誰もが同じ人間であり同じ身体構造を持っています。感受している感覚はほとんど同じであって、”痛い”は”痛い”であり”痛い”を”痒い”と感じる人はいません。感覚を感覚通りに感じなければ、歩くこともできません。もし、下半身に麻酔をかけられ感覚がなければ歩くことはできません。当たり前の話ですが、身体的な感覚は聖者であろうが凡夫であろうが変わりません。身体構造だけを比較すれば凡夫も聖者も異なる点はありません。聖者になると手のひらから怪しげな気を自由にコントロールしたり、宇宙の特別な場所に繋がっているという馬鹿げたことがあるわけがありません。

 ”特別”ということが”我”の特徴であるということです。”特別”に惹かれるから”特別”になりたいとおもってしまいます。”我”にとって”平凡”でいるということが一番難しいことのようです。身体的な感覚だけで終われるのなら誰もが赤子であり聖者です。大人には脳に癖がついて”言語”によって思考活動が行われてしまいます。思考・学習・知識・先人の知恵・処世術・躾・訓練によって人格を磨いて行くということになります。社会生活での適切な言葉の使用と儀礼や所作を身につけて世渡りをするということです。論語を知っていて実践できる等々の人間社会での表面上の付き合い方です。相手の気分を害さずに自己の主張を受け入れさせるように画策するというのが優れた人徳とされるのでしょうか。悪く言えば、言葉巧みに相手を丸め込む術を習得する。善く言えば相手を尊重しつつ納得してもらえるように自己の思いの通りにしたい。そこには”我”があって、”我”を通すということが前提です。仏道では”我”に振り回されない”本来の自己”を発見することであって”我”のない自分自身で生きていくことかもしれません。

 いくら道徳心があったとしても貪・瞋・痴が見え隠れしていれば偽りの道徳心かもしれません。人に道徳を教えるということは、あなたには道徳が出来ていないという前提で教えることになります。謙虚の裏には”自尊”があるということかもしれません。動物世界には謙虚なんて通じません。謙虚な動物が存在するでしょうか。謙虚は意図的であって、自然ではありません。謙虚の”虚”は上辺だけの偽りかもしれません。人間社会で考えた優しさ(=謙虚)よりも、分け隔てなく(=平等)自然な行動であればいいのですが・・・。どうしても考えるステップを経て行動するような脳の癖が抜けません。咄嗟の行動には思考が介入していません。

 例:買い物袋が破れて物が落ちたらすぐに拾ってあげる。

 自然な行いには考えなくても(=我の入る隙間・余地は無く)できるので、意図(=有為)”我”による行動ではありません。無為(=”本来の自己”)のままで行動しています。

 ”お茶を召しあがれ”と言われて考える必要はないので”我”はありません。(喫茶去という公案

”以前来た”とは”本来の自己” 考えないでできているのが”本来の自己” たった今(此間)の自分


<すなわち、苦なる受に触れられると、彼は、そこで瞋恚(いかり)を感ずる。苦なる受にたいして瞋恚を感ずると、眠れる瞋恚の素質が彼を捉える。また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。なぜであろうか。比丘たちよ、おろかなる凡夫は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方法を知らないからではないか。>

 感受した刹那の後に”苦”と認識してしまい、”苦”を与えた対象に対して怒りをぶつけるとか。”我”の思うままに怒りを解消しようとしたりするのが二の箭を受けたということです。”何とかしてやろう”という”我”が主役として振る舞い、思考が追従するということで悩み苦しむということのようです。

 

<すでにわたしの教えを聞いた聖なる弟子は、苦なる受に触れられても、泣かず、悲しまず、声をあげて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。すなわち、それは、身における受であって、心における受ではないのである。>

 ”心における受”としなければいいだけということが分かりました。どうすれば”心における受”とならないようにできるのか・・・。読経・写経・真言・印・苦行・戒律を守る・・・・・これらは補助的なことで形式的なことかもしれません。答えは”取り扱わない・取り合わない・何もしない”ということかもしれません。思考して追いかけ回しているということは”取り扱って”取り憑かれているということになります。思考で思考を止めることなどできません

 日本では人間社会への適応のために義務教育を受けます。学校教育で訓練することは”思考”を使って問題を解決するということです。”思考”こそが問題に対処する武器だと教わり続けました。何度も何度も繰り返すことで脳に癖として染みついてしまいました。洗脳ではなく染脳されています。教育が悪いというのではなく、思考は必要な時に使い闇雲に使うものではないということを学んでいないということにあります。脳を癖をとるということは困難なことです。”何もしない”・”放っておく”ということができません。二の箭を受けないようにするには・・・。

 達成ということは、努力して行動の先にあるものだというのが通常です。(無達成の達成)思考や行動という努力で達成することではありません。学びとか知識とか思考とか行動では達成できないというパラドックスです。我々は既に達成しています。何とかしようとすると離れていいき、底なし沼にはまり込んでしまいます。色々なセミナーで教わり、経典を丸暗記しても達成できません。(無達成の達成)

 

<わたしの教えをきいた弟子は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方法を知っているからではないか。そして、欲楽を願わないから、眠れる貪欲の素質が彼を捉えないのである。また、彼は、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、あるいはまた、それからの脱出の仕方も、よくよく知っている。それらのことをよく知っているからして、苦でもない楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えるようなことはない。>

 あらゆる事象は消えて無くなるので変化(=無常)しています。混乱から脱出するには、ただ放っておけば霧散するという経験を重ねる他ありません。”我”は考え続けることで”我”を生き続けさせます。”我”が”我”であり続けるために考えて考えている主体があるということで”我”を”我”としています。(我思いう故に我あり)自らが混乱の中にいることで自らの存在を可能としているという、馬鹿げた一人芝居を続けています。

 

<心にそうも、そわざるも
みなことごとく消えはてて
清浄無垢の道を行き
彼の岸にこそ立てるなれ>

 思考すべき時以外で様々な思いがわき起こっても”つき合わず”知らんぷり。状況が変化すると勝手に思いがわき起こってきます。自分で思いをコントロールしてるわけではないので、自分の考えではありません。やみくもに思考を追いかけ回さずに、必要な時に思考を使ってあげればいいだけなのですが・・・。どうでもいい思考を追いかけ回さない限り、必ずどこかへ消え去っていきます。”自分(=我)の為に何とかしよう”というのが”我”であって真我ではありません。自分為にやっているのがどうして悪いのか、その”我”に悩まされ続けていませんか。”何とか”しなくても”何とか”なっています。以前の悩みは続いているでしうかそれとも消えているでしょうか。思い出せばありますが、今は今を生きているだけです。考えなければならないとき以外は、どんな思いがわき起こっても相手にせずに気にかけなければ既に彼の岸(=寂滅の状態)にいるかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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