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老子−50 [老子]

出生入死。生之徒十有三、死之徒十有三。人之生、動之死地亦十有三。夫何故。以其生生之厚。蓋聞、善攝生者、陸行不遇兕虎、入軍不被甲兵。兕無所投其角、虎無所措其爪、兵無所容其刃。夫何故。以其無死地。

 

徒:ありきたり、無益

攝:ととのえる

兕:一本角の獣

死地:命を危険にさらす

 

人はこの世に出現しいつかは死の世界へに入っていく。生をありきたりに生きる人は十人に三人、無益に死を迎えるのは十人に三人だろう。人の生で、危険に身を投じる人は十人に三人。どうしてこうなるかと言えば、この世に生まれてきて生だけを重んじているからである。残る十人に一人のことで聞くことは、善く生をととのえることのできる人であり猛獣にでくわすようなことはなく、軍隊に入っても鎧や兜を身につけることはないということです。猛獣の角や牙によって傷つけられることもないし、敵兵の刃で斬られることもない。どうしてこうなるかと言えば、命を危険にさらすようなところに身を置かないからである。

 

<他の翻訳例>

生きのびる道と、死におもむく道があるときに、生きのびる仲間になるものが十人のうち三人あり、死んでしまう仲間になるものが十人のうち三人ある。人が生命をたいせつにしすぎ、その妄動の結果、(逆に)死地におもむくものが、(やはり)十人のうち三人ある。それはなぜかといえば、生命を豊かにしすぎるからである。私は聞いている、「生命を守ることにすぐれたものは、陸地を旅行して犀や虎に出会うことはなく、軍隊に加わっても甲(よろい)や武器を身につけない。(こういう人には)犀もその角を打ちつけるすきがなく、虎もその爪をかけるすきがないく、武器もその刃を打ち込むすきがない」と。それはなぜかといえば、(かれには)死地(弱点)がないからである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 私達は概念を使ってさまざまな妄想をしています。”心”・”魂”などの概念によって”個”として永遠の生命があるかのように信じている人もいます。見る者・聴く者・感じる者・・・という自己という主体があって、この自己が感受しているという思い込みです。見える対象が存在し、見ている”私”があるという二元の世界で生きていると確信しています。本当は見ているのではなくただ見えている、聞いているのではなく聞こえています。ただ身体的な働きによって受動的にそうなっているにすぎません。

 何度も記述していますが”私”を指し示めすことはできません。誰もが一致するわけではなく、てんでバラバラのただの概念として抱いています。都合よく”私”をあとづけしているだけのようです。”心”・”魂”がどこにどのようにあるかはまったく分かっていません。単なる働きに都合のいい名称をつけているだけかもしれません。

 だれもその(=心・魂)存在がどこにあるかを証明できません。自身のモノなら思いの通りになるのですが、自身さえ生滅していてる幻のようなモノなのに”心”・”魂”を探そうとしても見つかりません。名前をあてがっているということではないでしょうか。

 「誰もいない森の中で木が倒れたら音がする?」という問いがあります。感受できて聞いたと認識できる人がいなければ、音がしたとは認められません。この文章を書いていると思われる”平凡な生活者”が存在しているかどうかはただの憶測でしかありません。ただのニックネームであって、どこに存在しているのか本人以外はわかりません。”平凡な生活者”の存在を確認することができません。存在しているだろうという憶測でしかありません。

 ”たった今”自身の五感で認識できているモノだけが存在であって、それ以外の存在は想像上のモノでしか無いということになります。昨日見た川辺の花はただの記憶にすぎず、今現在の実際の花がどうなっているのかは分かりません。”火星”と名付けられている惑星も存在しているだろうという想像の惑星ということになります。

 ”たった今”認識できている以外は想像であって、幻ということかもしれません。何が言いたいかと言えば”たった今”だけが真実であり、それ以外は妄想ということです。多くの妄想に振り回されて生きているかもしれません。また、感受された事実(=思考した時はすでにその現象は消滅しています)を分別して迷っています。

 

 極端に言えば一切は刹那の間に変化変容しているので、変化前と変化後では全く違った存在だということになります。”ついさっき”の身体は死滅していて”たった今”の身体へと生まれたことになります。死んでいるからこそ生きているということでしょうか。(生死一如)私達は共通概念で”死”を定義し受け入れているので”ついさっき”と”たった今”が連続しているとみなしています。熟睡していれば”存在世界”はどこにもありません。

 

 言語で表現すればなんとでも表現できます。”灼熱の氷”・”コップに大海が入っている”・”月を飲み込んだ”・・・あり得ないことで惑わすことができます。獰猛な獣に襲われないとか、刀で傷つけられないとか”大袈裟”すぎても何ら違和感を感じません。物理的にありえないことでも言語にすることは可能です。読み手に問題があるのでしょうか。好き勝手に書いている方に問題があるのでしょうか。それとも言語自体に問題があるのでしょうか。言語はただの言語であって存在を証明するモノではないということです。”火星”という言葉を唱えたり書いたりしても”火星”を垣間見ることはできません。思いはただの思いでしかありません。思いを”言語”にして自らを惑わすことのないようにしたいものです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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誰もが既に「それ」 [気づき]

 猿は人間にはなれません。犬は人間にはなれません。タコは人間にはなれません。猿が猿を逸脱・超越した猿以外の何かになれません。猿は猿にはなれません。犬は犬にはなれません。タコはタコにはなれません。猿から遺伝子を受け継いで猿として生まれたのに他の何かになったら猿としての存在は絶えています。遺伝子の交配によって徐々に変異があるということは周知のことです。

 釈迦はヒトから生まれヒトとしての生命体を全うしました。”仏”という概念になったわけではありません。肉体はあとかたもなく消え去り、この世に存在していません。

 苦行したり坐り続けたり思考したり・・・ヒトを超越した何かになったら大変なことです。単に「我」による妄想が妄想でしかなかったということを見抜いただけのことかもしれません。思考することで”何かできる”という呪縛から解放され自由になり赤子のようにありのままの世界で生きれるようになったということでしょうか。

 

<殺仏殺祖>

 逢仏殺仏。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脱。(臨済録)

 

 仏に逢うては仏を殺せ。・・親族に逢うては親族を殺せ。何とも過激な言葉が使われています。言葉通り真に受ける人はいないと思います。仏・祖・羅漢・父母・親眷は人間が作り出した概念であって、逢うということは誰かをその概念で見てしまうということかもしれません。この錯覚・妄想を消し去りなさい。いつまでも概念の世界(=有為の奥山)に留まっていては無為で生きていくことはできないということでしょうか。

 何か(=苦行・思考・・・)で何かに到達するという思い込み(=観念)に囚われては行けない。何者かになるわけではなく、しつこい脳の癖(=我を張る)から抜け出すことがいかに難しいかということです。言葉で迷ったことを、言葉で目覚めさせるには過激な言葉を使うのが一番です。脳の癖(=眠りこけている)から目覚めるには概念を取り去ることです。

 

 私達は概念(=言葉による定義)と観念(=決めつけ・思い込み)を使って、勝手に一人芝居をしています。自らが問題を作って自らが悩み苦しんでいるということでしょうか。父母や親戚を選んで生まれてきたわけではありません。偶然に誰かの精子と卵子が受精しこの世に生命体として出現しただけです。”生命”そのものが生命体と通して躍動しています。生命が生命体を通して生命として生命を味わっている。

 人間社会に生まれてしまったのですから、既に作られている社会という場で生きていかなければなりません。人間が作り出した社会でのルールを教わらなければなりません。生命体を持続するために”自我”という自己保身のために作られた表象を使って生きているということです。

 

 他人の世界を知ることも立ち入ることもできません。過去は記憶の中にあるだけです。自他を区別するのは自己(=自我)という分別があります。都合の良い(=保身の為)ように言っているやつ(=自我)が問題を起こしています。この自分(=自意識)を見抜けばいいだけなのですが・・・。”たった今これ”しかないというのが終着であり出発点。思いに使われなくなり、思いを使えるようになったほうがいいということです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−49 [老子]

聖人常無心、以百姓心爲心。善者吾善之、不善者吾亦善之、徳善。信者吾信之、不信者吾亦信之、徳信。聖人之在天下、歙歙焉、爲天下渾渾。百姓皆注其耳目、聖人皆孩之。

 

百姓:人々

歙:和合する、縮こまる

渾:まじる、湧き出る

孩:赤子

 

聖人は常に無心でいて、人々の心を自身の心としている。善人を善とし、不善人も善としている、これが善というものである。信じる者が信があり、信じない者も信がある、これが信というものである。聖人は天下(=統治下)にあって和合し、人々と混ざり合うことができている。人々は見聞覚知したことで分別するが、聖人は赤子のように分別無く見たまま聞こえたままにしている。

 

<他の翻訳例>

 聖人には定まった心はない。人民の心をその心とする。「善であるものを私(聖人)は善(よ)しとするが、善でないものも私はやはり善しとする。(こうして)善が得られる。信義のあるものを私は信ずるが、信義のないものも私はやはり信ずる。(こうして)信が得られる」。聖人が天下に対するやり方は何もかも一つに集めるのであって、天下のためには、かれの心を見分けにくくする。人民だれもが(かれに)耳と目をそそぐ。聖人はかれらを赤子のように扱う。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 ”私”・”心”が何処にあるのなら指し示すことができるでしょうが指し示すことは出来ません。何処にあるかも知れない”私”・”心”を捉えたり掴んだり得たりしようとしています。これが”心”だというものを捉えたり掴んだり得たりできることがあればいいのですが・・・。そもそもそんなことができないので、どうしようということになっています。

 ”心”はあるようで無いのでいかようにも定義することができます。自身の事だからなんとかく分かっていると思っているだけで実際は何も分かっていないということでしょうか。目の前の鉱物であれば触れたり分析できますが、縷々変転して捉えることができなません。どこから出てきてどこに消え去るかもサッパリ分かりません。どのように働いているかもハッキリ分かっていません。自らの”心”の源泉やどこへ行ったのかも分からないのにどうして他人の”心”が分かるのでしょうか。瞬時に現れては瞬時に消え去っています。

 いつどんな思いが沸き起こってくるのか予測も予想もつきません。音楽・詩・絵画・演劇・イメージ・感性・・・自分の”心”を自由自在に思い通りに操作できるのなら”心”は対象化され自身の”心”ではありません。この操るという”私”も幻想であって、”私”を操ろうとしている”私”は何かというと自我という幻だということを見抜く必要があります。

 

 人それぞれの個人的な固有な感覚があり、他人には分かりません。誰かと同じ”感性”があるのなら何人ものショパンがいてもいいのですが・・・。あらゆる存在がユニークであって二つとない別物として存在しています。

 ”私”・”心”は不生(=どこからどのように生まれたのか不明)であって掴むことも捉えることも得ることもできません。実体がなくどのようにして生まれどのようにして消え去るのかも不明です。あるように思えるのは”たった今ここ”だけかもしれません。”たった今ここ”以外は幻のようなものでは?

 

<聖人常無心、以百姓心爲心>

 無為(=無心)のままに生きている時は誰もが聖人と呼ばれてもいいということでしょうか。私達はどのように唇を動かしてどのように言葉を発しているかも分からずに話しています。驚くことに無心で言葉を発して会話しています。同じように見ようとして見ているのではなく無心で見えています、無心で聞こえています、無心で香りが分かります、無心で味わい、無心で感じています。

 有為(=計らい)でセピア色に世界を見ることは出来ません。有為(=計らい)でエコーがかかったように聞こえようとすることは出来ません。なんでも甘くするようにもできません。芳しい匂いに変換することもできません。何もしなくても(=無為無心)で”あるがまま”を”あるがまま”に感受しているのでだれもが既に聖人かもしれません。

 時々、”どうしよう”・”何とかしよう”という思い(=有為)が出てきます。”どうしよう”・”何とかしよう”と思うことは悩んでいることになります。”あるがまま”から離れて”どうしよう”というありもしない何かを掴もうともがいていしまいます。無心を壊しているのが自身の計らいということかもしれません。この計らいも自身の”心”が働いているとういことです。良いも悪いもなく放っておければ聖人で、放っておけずに追いかけて振り回されるのが人民ということでしょうか。人民の放っておけない”心”も自身の心と確証できていればそれで問題ないのですが・・・。

 大雨の時に川の増水を見に行く人がいますが、どうにもならないこと(=増水を止める)を知ってもただ困惑するだけです。火星がどうなっていようがまったく関係ないかもしれません。意味の無いことを知ろうとしたり追いかけているのが我々凡人かもしれません。大いに反省するところかもしれません。極端に言えばあらゆる事や存在に意味や価値が無いので、勝手に意味や価値がつけられるということかもしれません。どこの外食チェーンで誰が何が一番好きかなども意味や価値をつけられるということです。この世界で、意味や価値がないということは素晴らしいことです。意味や価値から自由であり解放されているということになります。

 

<善者吾善之、不善者吾亦善之、徳善>

 ”善”という思いと”善”という行いがあるとして、”不善”の思いで”善”なる行いをしても”善行”となります。”善”の思いで”不善”を行えば”不善”の行いとなります。行為を見て善か不善かが決まるということでしょうか。

 様々な争いで、当事者はそれぞれ”大義名分”を持って争うことになります。どちらが”善”か”不善”かはよく分かりません。それぞれが自らが”善”であると言い張っているだけです。正しい方が勝つのではなく、勝ったほうが正しいとしているだけです。いわゆる「勝てば官軍負ければ賊軍」ということであって、争いに勝利したという結果をもって正義だというこのようです。根底にあるのは、”勝利したいという欲望”に従っているということのようです。

 人間以外の生命体からすれば、人間がいなければそれなりに生きていけるのに・・・。人間ほど厄介者はいないということかもしれません。”善”も”不善”もその時々で各人の思い込み。俯瞰して見れば”善”も”不善”もなく、地上で何らかの動きがあった程度かもしれません。

 

<百姓皆注其耳目、聖人皆孩之>

 人民は見聞覚知したことを自身の固定観念(=フィルター)を通して瞬時に分別するものです。自身が裁判官であり二元に振り分け”善悪”・”美醜”・”好き嫌い”・・・・あらゆる対象に意味や価値づけを行っています。

 赤子のときは見えるまま・聞こえるまま・・であって、意味や価値はなく”そのまま”にある何かです。執着と忌避を行ったり来たりの騒動に巻き込まれているかもしれません。

 

心:体に対し(しかも体の中に宿るものとしての)知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。

人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用。知識・感情・意志の総体。

 

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別々の世界で生きている [気づき]

 コペルニクス的転回(=発想を根本的に転換)が必要とされます。物理的には存在は一つであり宇宙も世界も一つです。存在は一つでも見ている生命体によって全く異なっています。一人の”おじさん”は見ている生命体によって異なります。区の役員・スポーツクラブの監督・夫・父・子・孫・祖父・会社員・飲んだくれ・友人・ただのおじさん・通行人・自転車に乗っている人・買い物客・お客・乗降客・案内人・ボランティア・おしゃべりな人・掃除している人・飼い主・餌をくれる人・水をまいている人・・・・・。”おじさん”との関係性・立場・見られた時の状況によって異なる人として認識されます。本当のその人は誰かは分からず、その時々に出会った丁度当てはまるアイデンティティで見ているとしているだけのことです。見られている我々は見る人によります。本当の”あなた”は誰なのかサッパリ分かりません。他人を見ているつもりなのですた、ある瞬間だけであって一体何を見ているのでしょうか。

 

 宇宙・世界・存在は個々の生命体ごとの感受(=認識)として展開されています。各生命体が各生命体固有(唯一無二)の宇宙・世界・存在があるということです。生命体が生命体としての働きが終わってしまえば、その生命体が感受(=認識)していた宇宙・世界・存在の全てが消え去ってしまいます。宇宙・世界・存在は各生命体のスクリーンに映し出されています。

 ”月”は一つではなく生命体の数だけ”月”があるということになります。例えば野に咲く”花”も蝶・鳥・虫・人・・・によって異なる対象として認識されます。

 各生命体は他の生命体が感受している宇宙・世界・存在を直知することはできません。自身の感受している世界を他の生命体に知られることもありません。

 ”痛み”の感覚も各生命体によって異なる感覚であり、その生命体が感じている”痛み”は固有の感覚であって他の生命体がその”痛み”の感覚をそのままに感じることはできません。各生命体には固有の世界が展開されており、自身の世界での出来事は自身の問題であり自身でしか分かりません。似て非なるものが各生命体の世界なのかもしれません。生命体の源泉をたどればたった1つの細胞であり、源泉は同じであり同じ源であり多様性によって異なる現れとしてあるだけです。決められた解釈・価値・意味がないので、自由に解釈・価値・意味をつけることができます。

 誰もが一つの”月”を見たとしても、詩にしたり絵にしたり音楽にしたり勝手に自身の思いによってイメージを膨らませています。何が一つの”月”を異なる”月”に転換させているのでしょうか。それは”私”という主観の出処となっている”自意識”によります。”自意識”の分別心(=二元)というフィルターによって”あるがまま”が歪曲されて感じられるのでしょうか。

 

 ”自意識”は有為(=計らい)であり思考によってなんとかしようという意図をもった働きでしょうか。この”自意識”によって”あるがまま”が瞬時に色づけされて”私”というありもしない表象が働くことになります。主体となった”私”は解釈・価値・意味をつけるために言語を用いて概念化します。言語による概念は二元対立であり”美”には”醜”という概念がないと説明できません。”善”は”悪”なくして語ることはできません。

 何もしない(=思考に取り扱わない・放っておく)ことで、”自意識”の働きが弱まるとフィルターを通さずに”あるがまま”がダイレクトに映し出されるようになるかもしれません。今まで見えていた景色が、初めて地上に降り立ったように”新鮮に見えた”という体験談があります。固定観念なる”私”という自意識なくダイレクトに脳内スクリーンに映し出された映像が見えたのでしょうか。

 ”私”と二元対立という概念によって葛藤・混乱による世界をみているという見抜き。何もしないということによって色のついたフィルターを徐々にクリアにしていくことでダイレクトに世界を味わえるかもしれません。

 

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老子ー48 [老子]

爲學日益、爲道日損。損之又損、以至於無爲。無爲而無不爲。取天下常以無事。及其有事、不足以取天下。

 

益:増加


学問に精を出せば、日毎に知識・有為(=計らい)が増していく。
道に精を出せば、日毎に知識・有為(=計らい)が減少していく。
知識・有為(=計らい)に頼ることを減らしていくことで無為に至る。
無為となれば、自然に為される。
天下(=国)を治めるには、常に無事(=戦争がないように)であるようにする。有事(=戦争)で天下(=国)を治めようとしても、うまくいくわけではない。

 

<他の翻訳例>

学問をするときには、日ごとに(学んだことが)増してゆく。「道」をおこなうときには、日ごとに(することを)減らしてゆく。減らしたうえにまた減らしていって、最後に何もしないことにゆきつく。この何もしないことによってこそ、すべてのことがなされるのだ。天下を勝ち取るものには、いつでも(よけいな)手出しをしないことによって取るのである。よけいな手出しをするようでは、天下を勝ち取る資格はない。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 科学技術の進歩によって作為的な人工物の中で生きていくことを強いられています。ビルが乱立する都会で自然とともに生きていると感じることには無理があります。自然との接点は”空気・空・日差し”だけかもしれません。黄砂に覆われた北京の映像を見る限りでは、”空気・空・日差し”でさえ遮られています。作為的なモノで満ち溢れている世界(=人工物)から無作為な世界(=自然のまま)へ回帰したいと思うのは当然のことかもしれません。人工的な癒やしはバーチャルであって真の癒やしではないと感じます。

 

 作為的な世界(=有為の奥山)で立ち回るには、学(=知識)を修めなければなりません。教養を身につけ作為的な世界(=人間社会)で人格形成し、作為的な世界(=人間社会)で生きていかなければなりません。この世に先に生まれた先輩達が様々なルールを作り上げてきました。文化・法律・しきたり・生活様式・・・・。先輩たちもルールに従い、次代の子どもたちにもルールに従わせるようにしています。何故ならルールを変えることは大変なことであり、ルールに従って生きていくほうが容易だからです。好き勝手に生きたくても暗黙のルールによって強制されています。特に農耕民族である日本人の村意識のもとではルールが絶対となっているようです。

 作為的な世界では作為的に生きることが身の安全です。作為的な世界にあっても作為的であることを見抜くことができればいいのですが・・・。作為的ということは分別こそが自分であると思いこんでいることです。学んで得たことは上辺だけの知識でしかありません。分別以前のあるがままを感受している我々の自性は清浄だということです。”六根清浄”という言葉がありますが、分別した後の意が作為であるのにもかかわらず支持しています。分別以前の”意”は清浄だということを見抜けば、六根は汚れてはいません。(自性清浄心)

 

 学ぶということは作為的な人間社会に迎合しなけれなりません。知らない・分からない・出来ない・その状態でない・・・ということが学ぶ対象としているということでしょうか。学問がどんどん増えているということは、どんどん無知になっているのでしょうか。学ぶべきことが減るどころか増え続けているということは、混迷し続けているということでしょうか。日々人工物を作り続け不要になれば捨てなければなりません。必然的に空気中や海洋への投棄となります。過去に描いていた理想的な未来の姿が現在の姿でしょうか。

 

 学ぶ対象は学ばなければ現実にならないという認識があるからです。学ばなければならないということは、学ぶ対象を何にも分かちゃいなということです。最初に泳ぎを学ぶということは、まったく泳げないということを知っているということです。(無知の知)

 人より頭一つ抜きん出るためだけに多くの時間を費やしてはいないでしょうか。作為的な人間社会で、チッポケな望みを叶えるために生きているのでしょうか。羨望されたい権威を持ちたいというだけで、それに見合う以上の犠牲(=精神的・肉体的)を払っているかもしれません。犬・猫や他の動物からしたらどうでも良いことなのですが、必死に作為的な世界の中で頑張っている姿が痛々しいかもしれません。名刺に書き込めるアイデンティティも期限付き(=定年まで)の単なる文字だったと気づいても後の祭り。結局は我欲に振り回されていたとはたと気づく。介護施設での日々がなんとも重苦しい。

 

 自然のままに無為としてあるにはただ坐る(=只管打坐)しかないのでしょうか。普段の生活で作為的な思考を追わずに放っておけば霧散して消え去ります。作為を教え込まれ作為に慣れている”癖”をとらなければなりません。作為的に生きることで疲れてしまいます。幸せホルモンのセロトニンやエンドルフィン・オキシトシンが分泌さることで幸せを享受できます。思考することで幸せホルモンが分泌されるどころか、かえって”うつ”へと向かっているかもしれません。学ぶことより深く静かな腹式呼吸と、散歩や朝の日を浴びることのほうが効果的です。

 

 学んで幸せになるということは、ある条件を満たすことかもしれません。その条件が欠落した時に幸せは逃げていくとしたら条件付きの幸せということになります。科学では実証性・再現性・客観性という条件によって成立しますが、幸せは主観です。思いや思考によって導出された概念による心境が幸せの条件ではなく、身体的な幸福感の実感そのものが幸せかもしれません。学びと身体的な実感には大きなズレがあるようです。

 

 

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「有為の奥山」で頑張らなくてもいい [気づき]

 あらゆる問題は全体と分離した”私”という感覚と、その”私”が自然に抱く「自分かわいい」を具現化したいことに由来しているかもしれません。

 誰もが安全・安心・便利・快適を希求して止みません。名前をつけられ、分離した”個人”として育てられ、教育を受けてきました。この現象世界(=有為の奥山)で何かを掴んだり捉えたり得たりひとかどの人間にならなければとされています。”たった今ここ”で自らが何を掴んで何を捉え何者になったのかと自問自答しても、返すことができるものは見つかりません。一般的にはアイデンティティ・身につけた技能・立ち居振る舞い・知識・・・のようなものかもしれません。知識は手のひらサイズの電子辞書には遥かに及ばないし、インターネットで検索すれば瞬時に答えらしきものを探し出すことができます。ただ老いた身体と向き合っている現実があるだけです。

 

 これから先も何かを掴んだり捉えたり得たりしても、一時の慰め程度のものなのでしょうか。方丈記に「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。 」という一節があります。

 どこから来てどこに行くかも分かっていないのに、人生は意味や価値があるものだと思い込まされたり思い込んだりしているのでしょうか。人生に意味や価値があるということを、一体誰がどこでどのように決めたのかサッパリ分かりません。分かろうとすることは分かっていないことを感じていて、分かることで得すると感じているということです。

 何者かになろうとすることは何者ではないということを感じていて、何者かになることで得すると感じている。常に”私”という感覚を持ち続けていることで”私”という何かがあるかのようにしているだけかもしれません。恒常不変で一定した”天気”なんてどこにもなく常に変化変容しています。恒常不変な”私”もないのですが、”私”を後づけしてあたかも存在しているかのようにしています。

 

 この世に一時的に生命体を得て出現しているだけ。一体誰のために心を悩まして、何のために目を嬉しく思わせようとしているのかということです。身体も感受も無常であって何も残るようなことはないようです。朝顔の露には様々な様子が映し出されるだけで残ることはありません。身体に”私”がついているのか、”私”に身体がついているのか。そんなことも分からずに”たった今”はどこかに消え去ってしまいます。

 

 有為の奥山で、何かを掴んだり捉えたり得たり頑張ることで苦悩を生み出しているかもしれません。”私”というものが”空っぽ”であり存在しないものにつけられた表象だと見抜く。そもそもが”空っぽ”なのだから求めることもなく捉えることも掴むこともできないと理解できれば安心・安全・快適を手にしているかもしれません。

 

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老子ー47 [老子]


不出戸知天下、不闚牖見天道。其出彌遠、其知彌少。是以聖人、不行而知、不見而名、不爲而成。

 

闚:うかがう

牖:窓

弥:ますます、あまねく

名:あきらかにする

 

家から出なくても世間のことを知り、窓から外をうかがうことなく天の道理を知ることができる。遥か遠くに行けば行くほど知ることは少なくなっていく。聖人は出かけていくことなく知ることができ、見ずしてあきらかにできる。何もしないでも為されている。

 

<他の翻訳例>

戸口から(一歩も)出ないで、天下のすべてを知り、窓の外をのぞくこともしないで、天の道をすべて知る。出てゆくことが遠くなればなるほど、知ることはいっそう少なくなる。それゆえに、聖人はでかけて行かないでも知り、見ないでもその名をはっきりいい、何の行動もしないで(万事を)成しとげる。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 ”私・心とは”と問うても”私・心”を見出すことは出来ません。瞬間瞬間に変化変容しているモノは掴んでいることも捉えることもできません。”たった今”ここ”も変化していて恒常不変ではありません。

 慧可(えか)が「私の心は不安で仕方ありません。安心させて下さい。」と問いかけると、達磨は「その不安で仕方ない心を私の前に出しなさい、安心させてあげるから」との答えたそうです。「達磨安心」

 私達は生命体を通して働いている”生命”そのもの。”私(=社会的な自己)”という言葉は、今日の◯◯(=世界・天気・ニュース・株価・ゲーム・夕飯・体調・気分・・・)と同じで有為転変しているものを表象しています。恒常不変の”天気・体調・気分・・”なんてどこにもありません。ただ、伝えるため理解したいために表象として使われているだけのことではないでしょうか。

 

 私達は、存在は自身の外にあってその存在が”世界”であると教わってきました。もし存在を認識する生命体がいなかったら、”世界”は存在しているでしょうか。”世界”は生命体によって”世界”となっています。”思い・知識・観念”によって”世界”としているだけであって、”思い・知識・観念”が想像上の存在をイメージしています。”たった今ここ”で感受されている現実だけが”世界”ではないでしょうか。

熟睡しているときに”世界”は認識できないので”世界”はありません。感受している我々の内に”世界”が展開されています。まぶたを閉じれば音と感覚だけの”世界”が展開されています。”世界”の中で生きているのではなく、生命が生命体として生きていて感受している”世界”があります。

 2000年前の人達に”火星”や”土星”は存在(=イメージさえできない)していません。今現在でも、人間以外の生命体には”火星”や”土星”は存在していません。私達も”火星”や”土星”が存在していると思いこんでいるだけです。存在していたとしても”幸せ・健康・・・”を直接もたらしてくれるわけではありません。

 

 生命体の本能は「自分かわいい」であり、保身第一です。五感が自動的に働いて、外で起こっていることを感受して効率的に対処するようになっています。起こっていることをできるだけ多く詳しく知る必要があります。知識を持つことで多様な状況に対処することができるということで、知識人は重宝され厚遇されるということでしょうか。

 

<不出戸知天下、不闚牖見天道>

 聖人であろうが凡人であろうが”たった今ここ”だけが”世界”であれば、外に出れば外での”たった今ここ”の”世界”が感受されています。道理はどこでも働いています。

<其出彌遠、其知彌少>

 自身の見の上に起こっている”たった今ここ”だけがあり、全てだということです。”たった今ここ”から離れれば離れるほど、迷妄の中に入って行くばかりです。知るべきことがどんどん増えるばかりであって、”本来の自己”から離れれていくのではないでしょうか。

 ”たった今ここ”で働いている道理は地の果てでも同じように働いています。個々の生命体や存在を個別に知り尽くすことはできませんが、自身を観察すれば生命の働きを知ることが出来ます。

<不爲而成>

 道理は動きは働きがあることであり、聖人であろうが凡人であろうが変わりありません。ただ有為の奥山で”なんとかしよう”ともがいているかぎりは、なにかしていると思い込んでいるということでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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得ることではないらしい [気づき]

 人類史上、様々な人が出現してきました。例えば、物理法則の発見者・探検家・科学者・物理学者・数学者・発明家・医学者・政治家・英雄・侵略者・小説家・詩人・作曲家・芸術家・アスリート・富豪・武将・映画監督・俳優・武術家・格闘家・宗教家・・・。学校で教わったり、眼で見てたり耳で聞いたり実験で体験したりできるものもあります。彼等が何を成し遂げたかを知っています。彼等が描いた絵・楽譜・剣術・公式・論文・映画・解剖図・地図・詩・・・彼等の業績を真似ようと努力することも、到底及ばないと諦めることもできます。例えば、自身の音楽的な能力を直視してみると、楽譜が読めない・音痴・楽器の演奏も出来ない・・・そうであれば作曲家になろうとはしません。運動音痴であれば、オリンピック選手を目指すことを諦めます。平気で嘘をつけないなら詐欺師にはなれません。一つの研究に何十年も没頭できなければ研究者にはなれません。

 ノウハウを教わったり・技能を修得したり・知識を憶えたり・修行したり・先人の技術を受け継いだり・国家資格を得たり・国家試験で免許を取得したり・記録を達成したり・・・・身体を使った努力や頭を使った思考や記憶によって何をすべきか、何かを掴んだりが分かっていれば専門学校に入学してある程度の素養を得ることができる可能性があります。

 芸術作品を模倣したとしても、作者の創造過程や感性・境遇・情熱・・をそのまま同じであることはできません。また、同じであれば個性が失われ独自の作品を否定することになります。

・ 彼を知り己を知れば百戦殆からず

・絵心がなければ画家には向いていません

・運動音痴であればアスリートには向いていません

・人には向き不向きがあり、何でもかんでもチャレンジすることはしないようです

 

 禅では、知識ではなく「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」であって教義を学んで得たり掴んだりすることではないと言っています。坐禅(=思考の癖から脱する)によって”何もしない”ことによって、”私”の不在を確証します。私達は時空間を使って思考します。思考は時間(=過去・現在・未来)と空間を前提にどんどん展開します。時間は概念であってモノを扱うように時間を得たり捨てたり出現させたり消したり交換したり掴んだりすることはできません。時間は存在していると思いこんでいるだけで”たった今”が生滅していて繋がってはいません。

 1分前はどこにも存在していないし、1分後もどこにも存在していません。1分後も”たった今”という瞬間があるだけで消滅してしまいます。

 空間もモノのように得たり作ったり出現させたり消滅したり交換したりすることはできません。我々の中心は何処にも動いてはいません。自身の身体が在るところが”ここ”であって、”ここ”は動くことはありません。今居る場所が”ここ”であって、”ここ”が中心であって周りの空間を認識できます。ある空間に”ここ”がやってくるわけではありません。朝起きてから”ここ”が自身にくっついて移動し、会社の自分の席に”ここ”が移動してくるのでしょうか。家にあった”ここ”が、会社に到達する前から”ここ”が会社に存在していているのでしょうか。決められている”ここ”に私が座ればいいのか、座った席が”ここ”となるのかどちらでしょうか。”ここが私の席”と言えば良いのか”私の席はここ”だと言えば良いのかどちらでしょうか。身体の在るところが”ここ”であって、決められた場所であっても身体がなければ”ここ”は存在していません。極端に言えば、”たった今”感受できていることだけが実在であり、それ以外はあるであろいうという思い込みで作られた世界ということかもしれません。

 有名人の”訃報”を聞いて、死亡した後に知ることができます。知るまでは”生きている”と思い込んでいたということになります。事実と思い込みは異なっているということです。我々のイメージにあるブラジルの熱帯雨林はただのイメージの思い込みです。実際の姿と思い込みとは異なっています。時間も空間もただの思い込みと言っては過言でしょうか。

 感受して自身の内に展開されているのが世界だということになります。思い込みはただの思い込みであって思い込みの世界であり現実の世界ではありません。

 過去も未来も無く”たった今”だけが永遠に生滅している。”ここ”という空間だけがあり、それ以外は思い込みの空間かもしれません。時間も空間も生まれていないので無くなることはありません。(不生不滅)熟睡している時には時間や空間は存在しているでしょうか。

 

 お釈迦様や覚者が何かを掴んだり得たりしたのなら大変なことです。そうであれば、我々にこれこれを掴みなさい得なさいという教えてくれなければなりません。どうもそうではなく、普段の生活は”一切皆苦”であり、迷いの中でいきています。十二縁起を観察することで、実体がない無常であることを見抜き脱しなさいということ。

 お釈迦様は何かを知識として掴んだり得たりしたのではない。もし掴んだり得たりした何かが記憶されたことで心境が持続されるのであれば、他の覚者もお釈迦様の掴んだものや得たものと完全に一致していなければ偽りの覚者ということになります。

 お釈迦様の掴んだり得たものがどいうものか分かる人がいるでしょうか。もし、掴んだり得たりしたものがあるのなら、お釈迦様と一致していると証明できなければ嘘っぱちということになります。数学の問題を解いて答えが一致するようなことでなければ、掴んだり得たものが正解かどうかどのようにして判定するのでしょうか。

 「拈華微笑」という言葉があるように、師は弟子の力量がどの程度なのか知ることができますが、弟子は自身の力量がどの程度なのか知るすべはありません。山の頂上の景色は登った人しか見ることはできません。

 掴んだり得たりしたモノ(=知識・心境・・)がどういうものかを分からずにチャレンジするということは、向こう見ずのお人好しということになります。苦行をしたり経典を読んだりして試行錯誤を重ねたとしても、何を掴んだのか何を得ることができるのでしょうか。その掴んだモノや得たものが正解でありお釈迦様の得たものと完全に一致するわけはありません。

 作曲方法を教わったとして、聴いたこともないショパンの曲と完全に一致した曲を作曲できるでしょうか。絵画の勉強をして、見たこともないピカソの絵と完全に一致した絵を描くことができるでしょうか。

 誰かが掴んだり得たりしてモノと同じということは不可能です。あまりに変数(=文化・言語・年齢・経験・性格・・・)が多すぎ、全く異なる変数から算出して答えが一致するということは無理だということのようです。

 

 ヒトとしての身体構造と感受する機能や働きは同じです。お釈迦様であろうが我々であろうが同じような身体なら、”痛み”・”快感”・”臭い”・・五感で感受することに違いはありません。ただ感受したものにどう反応するかが問題です。老・病・死を克服して老いなかったわけでもないし、病気をしなかったわけでもなく、死ななかったわけでもありません。肉体的・物理的な苦を解消できたわけではありません。誰でもが平等に”痛い”し、誰もが”老い”ます。苦を大袈裟に問題にする”私”というものがどこにもいないということを見抜いたということでしょうか。

 分別以前はお釈迦様であろうが我々であろうが異なることはありません。ただ見えているただ聞こえているただ草取りをしているただ食べているただ歩いている・・・・。お釈迦様でも我々でも異なることはありません。

 ”当たり前”のことに対して”自分かわいい”を持ち出して、”思いの通りになんとかしたい”と悩み”問題”としているのが覚者でしょうか。

 

 私達は、解決すべき問題があるという前提で思考する”癖”がついています。自身に問うてみます人は考えていない時に悩むことができるだろうか。」

 考えるということは、考える事(=なんとかしようと)が起こった後に考えます。また、起こってもいないことも考えます。つまり、”たった今”のことは考えられません。”たった今”は問題にならないということです。私達は”たった今”にしか生きていないので、問題はないということになります。過去や未来を持ち出すと問題になります。考えることで問題を作っていると気づきます。”たった今”を見逃して(=過去や未来にかまけている)生きているかもしれません。

 どうでもいいことや、どうすることもできないことを患い、ついつい脳の”癖”によって考えてしまい”問題”となります。この考え続けることでいつまでも”問題”が重くのしかかったままでいることに気づいてもいいかもしれません。極端な例ですが、科学者でもない一般人が”火星移住”について悩む必要はありません。バッタの被害で困っている所に行けもしないのに悩む必要があるでしょうか。自分では解決できないことに頭を悩ます必要があるでしょうか。

 平安でいたいのなら、わき起こる”おしゃべり”につきあわない訓練をする必要があります。思考に囚われずに”ボッー”とする時間も必要かもしれません。

 

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老子−46 [老子]

天下有道、却走馬以糞、天下無道、戎馬生於郊。罪莫大於可欲、禍莫大於不知足、咎莫惨於欲得。故知足之足、常足矣。

 

却:退く

糞:肥やし

戎馬:軍馬、戦で使われる馬

郊:都市の周辺

禍:わざわい

咎:あやまち

惨:いたましい、みじめ

 

 統治下で恣意的でない”道”の統治が行われている時は、足の速い馬より農耕用の馬の方が重宝される。統治下で恣意的で”道”に従っていない統治が行われている時は、統治下の近郊で軍馬が必要とされる。(戦争の準備が必要となる)

 大きな罪が生まれるのは欲があるからであり、大きなわざわいは足るを知らないからである。欲を満たすモノを手に入れようと欲することほ、いたましいことは無い。だから足るを知ることで満たされ、常に満足していられる。

 

<他の翻訳例>

 天下に「道」が行われるとき、足の速い馬は追いやられて畑を耕すのに使われる。天下に「道」が行われないとき、軍馬が都市の城壁のそばにまで増殖する。欲望が多すぎることほど大きな罪悪はなく、満足することを知らないことほど大きな災いはなく、(他人のもちものを)ほしがることほど大きな不幸はない。ゆえに(かろうじて)足りたと思うことで満足できるものは、いつでもじゅうぶんなのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 生命には生命の働き(=道)に従っています。生き続けていることで生命と言われる所以です。受精せずに分裂(=コピー)する「無性生殖」と受精による「有性生殖」とに分かれています。生殖様式にも卵生と胎生があります。また昆虫では、卵・幼虫・さなぎ・成虫へと変化する変態という形があります。生命の多様性には生態系の多様性・種の多様性・遺伝子の多様性があります。生命は模索を重ねながら自らは変化を受け入れて生き続けています。ヒト以外の生命体は生殖が終われば役目を終えて生命体という個体は”死”によって分解消滅します。

 ヒトは生態系だけ環境から農耕・文化・道具・言語によって社会を形成してた生命体と生きています。ヒトという生命体は生殖を終えても”余生”というものを生きています。未熟なままで生まれてくる”子孫”を世話できる家系が存続することができます。存続できる家系だけが遺伝子を次代へ繋げることができたようです。余裕があり援助ができる組織が生き残れたのでしょうか。

 生命体は「自分かわいい」が最優先であり、自らを保身するために攻撃性がなくなることはないのではないでしょうか。生命体同士は弱肉強食の世界であり争いがなくなることはありません。生態系の中で自らの遺伝子を残したいというのが本能として備わっています。

 今生き続けている生命体は最強の遺伝子を持った個体だということでしょうか。

 

 地球上の生態系の中での生命体を見れば、あらゆる現象は必然的な道理で起こっています。個々の生命体を善悪・罪・災いも・称賛・・・・という人間的思考で分別すべきことではないかもしれません。捕食者は自らの生命を維持し生殖して子孫を残さなければなりません。かわいい小動物を食べることが罪となるでしょうか。満腹になればそれ以上狩りはしないようです。ヒトは欠乏感や比較によって”足りない”という感覚があり、必要以上のモノを欲して苦しむことになるのでしょうか。

 

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