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意の働き [気づき]

  私達の自意識は事象が起こった(すでにその事象は消え去っています)後から働き(=自らを顧みる・反省)ます。分別が勝手に白黒をつける癖でしかないのに、”私”が存在してその選択を判断したと思い込でいるかもしれません。見えているのに”私”が見ている。聞こえているのに”私”が聞いている。勝手に笑えているのに”私”が笑っている。勝手に悲しいのに”私”が悲しんでいる。痒いところを無意識に掻いているのに”私”が掻いている。風呂に入って寛いでいるのに”私”が寛ぎを味わっている。・・・どこにも”私”という実体はありません。もし、それぞれに”私”が存在しているというのなら変幻自在で多様な固定されたに”私”を認めることになります。その”私”はどんな姿でどんな心境の”私”なのでしょうか。姿は10代のままで心は童心のままなのでしょうか。”意”の働きの主体は変幻自在で固定したものでないことになります。あるといえばあるし、ないといえばない。見つけることも掴むこともできない”幻”かもしれません。

 

 ”私”が働いて逐一命令していたら大変なのことです。体を動かすときに伺いを立てて笑ったり悲しんだり、歩いたり走ったり跳ねたりをどのように”私”が指示しているのでしょうか。自身が確固たる意志に委ねられているのなら、各自が硬直した人生を送ることになります。そしてその確固たる意志はいつ完成されて不動のものとなったのでしょうか。書き換えられなければ意志によって振り回されることになります。

 

 実際は五感は勝手に働いていて、見ようという意志とは無関係です。自らの意志からは切り離されて働いています。”たった今”の事象をそのままに映像・音・味・匂い・感覚としてあります。見ている”私”がいるのではなく、見えている働きそのもの。聞いている”私”がいるのではなく、聞こえている働きそのも。”たった今”という世界は消滅し、”たった今”が次から次へ永遠に”たった今”だけが続いていきます。

 

 五感がどのように働いて見えていて、どうして聞こえているのかのプロセスは医学的には解っているかもしれません。しかし、見えているような世界がそのままの世界とは断定できません。人間の識別できる電磁波の範囲だけが見えているだけで、他の動物の各感覚器官の能力では異なって見えています。三次元のように見え、三次元のどこかで音がしていると聞こえています。 五感は自意識と無関係に働いています。五感の働きは自動的であり、五感に介入している”私”のような存在を見出すことはできません。

 ”フルカラーで見えている事実”を”私の自意識”で”モノクロの世界”に変更することなどできません。聞こえている音を”私の自意識で”エコーがかかった音”に変更することもできません。舌で味わった味を”私の自意識”で変更することはできません。塩の”しょっぱい味覚”を砂糖のような”甘い味覚”に変更することなどできません。

 しかし、”意”は”たった今”の事実を想念で作り変えて”妄想”としてでっち上げることができます。イメージと言葉でできた”妄想”を記憶して溜め込むことができます。この世にないものをイメージして作り出すことができます。民主主義・紙幣・電子マネー・音楽・楽器・小説・演劇・漫才・新聞・雑貨・電化製品・・身の回りに有るあらゆるもの。

  ”たった今”の事実はすでに消え去っているのに、”意”は追いかけることができます。見えている映像は変えようがないのですが、見えている映像に対してのイメージを掴んだり得たと勘違いすることができます。 実在していない”妄想”ですから、好き勝手に捻じ曲げて記憶できます。また分別して善悪・美醜・・・など思う存分いじくることができます。この”意”によってありもしない”妄想”で迷うことになるようです。

  物体に当たった光が反射されます。その電磁波の刺激が網膜から視神経を通って脳内に三次元映像を作るのででしょうか。脳内に映し出される世界ですから、外に存在しているのではなく自身が見えている世界そのものです。見えている映像は変更できませんが、見えている映像を”意”によって解釈することは自由自在です。 存在はただの光の反射されている”何か”でしかないのに、形として認識して”名前”がつけられ意味のあるものとして捉える癖ができています。

  ”これは何だ”という思いが瞬時に働くようになっています。”意”によって知ろうとする”心”があります。只見えている、只聞こえている、只味がする、只匂いがしている、只草取りをする、只掃除をする、只料理をする、只◯◯する、只歩いている・・・。でしかないのに、”意”が何かを掴んだり捉えたり得たりできるように感じています。”意”によって自意識である主観という働きが生じ、対象(=実際には頭の中の妄想)を”なんとかしよう”と騒ぎ立てる(=迷い)という迷いが生じます。”意”の働きに翻弄されているのに”意”を働かせて”なんとかしよう”と問題にしてます。

 ”意”は止められません。”意”はすでに消え去っている事象を相手に分別しているということに気づかなければなりません。 ”意”は事実である”あるがまま”よりも、”意”で思っているような”理想の世界”であってほしい。  

 つまり事実・現実よりも、何でも願い事が叶えられる世界を願っています。自我(=なんとかしようという思考)は理想主義者であって、何かをし続けていたい。本気で”引き寄せ”を実現させたいと願っています。

 自我の理想世界のために、事象の起こるたびに識別して”なんとかしたい”ともがいています。痛いは痛いでいいし、苦しいは苦しいでいいし、病気は病気なのですからそれでいいはずなのですが・・・。現象として起こっていることを”意”に反するとして正そうとしている自我はどんな存在なのでしょうか。

 生・老・病・死は当たり前の自然現象です。当たり前を当たり前と受け取れば何も問題はないのですが・・・。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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