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老子−40 [老子]

反者道之動。弱者道之用。天下萬物生於有、有生於無。

 

反は道の動きである。弱は道の働きである。天下の万物は”有”によって生じる(=認識される)が、"有"は"無"によって生じている。

 

反:かえる。かえす。逆らう。

者:行為の主体

用:働き

 

<他の翻訳例>

あともどりするのが「道」の動き方である。弱さが「道」のはたらきである。天下のあらゆるものは「有」から生まれる。「有」そのものは「無」から生まれる。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 ”道Tao”は天地が生まれる前から存在していた”一”なるものであり宇宙の道理。あらゆる存在の根源は”道Tao”。”道Tao”という絶対一があり、陰陽(=有無)が合体しているとの認識です。陰陽のどちらかを定義すれば他方が自動的に定義されます。万物を”有”とすれば、存在と認識されない”無”という概念がないといけません。コインのどちらかを”表”とすれば反対側は”裏”となります。表だけのコインもないし裏だけのコインもありません。反する一方を認識する動きが”一”なる”道Tao”だということなのでしょうか。(反者道之動)

 ”道Tao”は混沌としていて、理路整然としている儒教に反するものだと言いたいのでしょうか。”道Tao”は人為によって強権をふるって従わせようとする儒教の教えではなく、柔軟で無為であるので弱いと表現しているのでしょうか。(弱者道之用)

 万物の根源は”一”であって、はじめから別々の存在ではなかった。存在を個々に認識することで別々の存在となる。存在が”一”なる全体から接点もなく、空気中に浮いているような存在があるでしょうか。どれもこれも接点をもっていてつながっています、境界もありません。

 物質に光が当たり特定の光を反射し他の光が吸収されますので特定の色と認識できます。反射した光の電磁波が眼の網膜を経由して、脳の視覚野で色や形となっているようです。電磁波そのものは色でも形でもなく光の波長です。色の識別ができない生命体にとってはただの濃淡があるだけかもしれません。個々の存在ではなく全体に濃淡があるという世界です。音も振動であって振動に最初から意味はついていません。

 波・振動そのものが着色されたり形がついているでしょうか?何かを叩いたり見たりして、色や形が向かってくるわけではありません。電磁波自体に色がついてるのなら空気中も色が見えてもいいのですが・・・。勝手に色や形として認識されていて、”私”が”私”の意志で色や形を現出させているわけでもありません。私達の生きている世界には様々な波・振動が飛び交っています。無色透明な波・電磁波はアンテナを経由して携帯電話・TV・ラジオに同調すれば再生されます。  

 世界は見ることも聞くこともできない無色透明な波・振動に満ちています。目のない生き物には色や形が認識できないので個別の存在はなく、温度・湿度などのモノの性質の違いを感じ取っているのでしょうか。

 世界は”一”なる全体であるのですが、各生命体が生きるために個々の存在として認識しています。

 

 哲学では”なぜ世界があるのか?”ということが問いのようです。自意識が自らが主体として勝手に対象を生み出すように働いてしまっているかもしれません。自分の存在を疑うことなく、眼前の”世界”が何かを問うて勝手に迷っています。世界は”知るべき対象”であると決めつけています。思考によってすべてが解決できるという古典的な手法から脱することができません。

 眼前に”世界”があるのではなく、様々な振動を感受して自身の中で勝手に構築された三次元世界を見ているのですが・・・。”世界”は自身と別にあるのではなく、自身そのものの内に展開されている世界をそのまま見たり聞いたり味わったり臭ったり感じたりしています。自身の外にある”世界”というのがただの観念だということを疑いません。

 五感の活動で構築されているそれぞれの世界として認識されています。内的な感覚を感情として変換しています。”一”なる全体を個々の世界として感受していて、自身の感受した”世界”を理解したとしても自身の見た世界でしかありません。哲学者の理解している”世界”を説明されてもなんの共感もありません。人の見ている世界と同じに見えたら大変なことです。小説を読んで小説の世界が自分の世界になったり、映画を見て映画の世界が自分の世界になったり、戦争映画を見て戦争が自分の世界になったら・・・・・。誰もが誰かの世界と同じになったとしたら・・・。世界征服を考えているような人と同じ世界、自然環境よりも自分だけが経済的に恵まれたい世界、どうでもいいことを考え続け他人に自分の理論を押し付けたい世界、あの世を信じて同じように信じて欲しいと願っている世界、筋力を鍛え上げたい世界・・・。自身の趣味趣向はお好きにどうぞですが、同じような世界を強要されることは遠慮したいものです。

 他は他の世界であり、自らは自らの世界です。同じ雑貨を見ても欲しいと感じる人もいれば何も感じない人がいるのが当たり前です。全員が同じ反応をするのは本能的な部分であって、それ以外は別々の世界が構築されているということでしょうか。性格の不一致と言われますが、一致していたら大変です。忌み嫌うようになったら大喧嘩になってしまいます。それぞれが異なっていて、それぞれの世界で生きていけば何も問題がありません。

 

 思考で”一”なる全体世界を解明することが可能でしょうか。自身の内で映し出された映像(=世界)を云々するのは、自身を見て自身について云々することです。思考の中の存在を触れたり掴んだり得たりできないのに分析して解明したかのように勘違いしているのでしょうか。

 

 存在は”命名”によって意味のある”有”という存在とされています。”有”という概念はいつか消え去って消滅して”無”となるという概念があるからでしょうか。”無”から何かが前触れもなく”ポッ”と出現することがあるでしょうか。すでに物質がり、何らかの条件が揃うことで変化変容して感受できる(波・振動)ようになる。認識できない状態を”無”とすれば、”無”から生まれるという解釈でもいいかもしれません。しかし、全くの”無”から何かが突然に出現したら大変なことになります。

 眼の前に予期せずに様々なものが出現していたら困ってしまいます。怖くて歩いていられません。映画のようなファンタジーの世界になってしまいます。”無”から”有”が生まれるのではなく、”無”という対立概念によって”有”と表現しているだけのことでしょうか。(有生於無)

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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