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迷い [気づき]

 ヒトの迷い(思考)について。

  ヒトは物心(世界があって自分がいるという感覚)がついてから、辞書に出てくるような観念(思い込み)である”私”を日常生活で自然と教え込まれてしまいます。身体(物体・肉体)に名前がつけられて呼ばれ、無意識に返事をするようになります。ただの身体ではなく識別名がつけられた特別な何かであると感じるようになるのでしょうか。自身も全てに名前がつけられていることに気づき自然と名前を覚えるようになります。世界は知るべき対象であり、自らは知る主体であると自然と勘違いするようになります。

 名前を覚えると褒められるので、記憶することはいいことだと身につく(癖)になってしまいます。 名前がついている対象は、好ましい(執着)・避けるべき(忌避)・認識しなくてもいい(無関心)というものからできている自分の世界が構築されます。モノを見ると瞬時に識別作用が働くようになります。(ここが迷いの始まり)

 モノ自体に善悪はないのに自身の色付けされた世界に生きるようになります。 認識するやいなや分別してしまうプログラムが出来上がります。なんでもない安住の世界(ただ見えている、ただ聞こえている・・)から迷いの世界(分別の世界)へ切り替わる間が無く(間抜け者)なります。 人間社会で生き抜いていくために、行為にも善悪があると教え込まれます。周りの大人や学校教育で、取捨選択すべき行為が教え込まれます。社会に従うロボットのようなプログラムがインストールされることになります。記憶力と思考力が生きていく術であるかのように徹底的に洗脳(染脳)されます。知らず知らずの内に思考最優先の生き方となり、常に思考を追いかける脳の癖ができあがります。努力して思考すれば何かを掴んだり得たりできるという間違った観念が植え付けられた脳の習性となるようです。サトリも掴むとか得るとか勘違いしているのではないでしょうか。

 

  思考が問題を解決するツールだと信じ込んでいますから、自ら(なんとかしようという思考)を疑うことが無くなります。思考が問題を作っていると言われても、脳の癖によって思考で何とかできるという呪縛があるので抜け出ることができません。 鈴木大拙のお話の中に、ムカデに”ムカデさん、ムカデさん、どの足からあなたは歩くのを始めるんですか?”と聞いたら”動かなくなった”という話があります。”考えるようになったらうまく歩けなくなる”ということです。

 人間は問題があるから考えて解決すると思い込んでいますが、考えることで問題にしているということです。 健康体であるということは、自分の体があるのかないのか気にならない状態かもしれません。あちこち気になり”なんとかしよう”というのは不健康な証拠です。思考しているのは不健康だということです。健全・平安であるのはあちこち気にならない(思考しなくてもいい)状態ということかもしれません。自分が思いに振り回されていないということであり、何も考えなくてもいいというのが最高。

  起こってしまったこと(過去であり消滅していること)を考えている間に、”今という事実”を見逃し続けています。つまり、考えているということは今という事実の他に妄想しているということになります。考えなくても生きているということを体験(坐禅)しなければならないということをでしょうか。 ”なんとかしよう”というのが自我(記憶と思考の使い手)ですが、自己の思考が間違ってはいない(自己正当化)というのが人間です。自らを疑うことは至難の技です。思考しないほうが安楽であるという体験(坐禅)がどうしても必要になるのということでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 


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