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生命体と生命 [気づき]

人は誰でも「自分かわいい」が最優先であり、安心・安全・平安・自由でいたい・幸せ・望み通りに実現させたい・快適・特別でありたい・知っていたい・・・・。思いのまま(=悩むことなく)に自由気ままに生きていきたい。このように思うということは、実生活に制限があり束縛があるということを実感しているからに他ありません。満たされない自身を不憫に思い悲惨な現実から”なんとか”救い出してあげたい。この世で生きるということは”苦”であるという前提で生きているのでしょうか。

 完璧な財力・権力・知力・才能・健康・・を持ってこそ幸せが実現できると思っていたら大変なんことです。実現することはほぼ不可能なことです。

 

 他人と比較しても意味はありません。この生命体は宇宙開闢以来、この身(=生命体)を通して見聞覚知している生命そのものです。

 あらゆる生命体を通して生命が躍動しいます。単なる一個の生命体ではなく生命という全体として観察しているという視点を持つのもいいかもしれません。”私”という生命体という殻を破り、万物斉同であって”私”も”あなた”も”それ・これ”もありません。

 

 認識される対象(=客体)によって”私(=主体)”という感覚があるとします。もし、対象が認識されなければ(=熟睡時・死)”私(=主体)”は無いということになります。意識がないときに”お名前は?”と聞かれても”私”が出てくることはありません。知覚できなければ”私”という思いないということになります。誰もが”私”というものが無くても何も困らずにいきています。対象を認識したとき・ふと振り返った時・”何とかしよう”と思った時・・・”私”という表象を自然に使って処理しているだけのことかもしれません。無理やり”私”を出現させては困った困ったと騒いでいます。自縄自縛の一人芝居をやっているかもしれません。

 対象(=客体)によって”私がある”としているので、対象=”私がある”ということになります。対象によって”私”が形成されるということは、対象がそのまま”私”であると言ってもいいかもしれません。ただ見えている、ただ聞こえている、ただ動いている・・・・。ただ◯◯にはどこにも”私”はいません。

 

 外の存在が世界でしょうか、それとも各生命体で展開されているのが世界でしょうか。鳥が感受している世界ではミミズが好物ですが、我々が展開している世界でもミミズが普通に食べるものでしょうか。ネズミを生で食べたいでしょうか?・・・・まったく異なる世界が展開されています。

 生命体の”鏡(=脳内スクリーン)”に映し出されるモノはそのまま自身の映像です。生命体の外にある映像ではありません。対象であるときめつけていたモノは”私”を”私”たらしめているモノであり、”私”から分離させて取り外すことのできない映像です。外にある存在と思い込んでいるだけで、実際には自身から取り外すことの出来ない一体の映像として分離することの出来ないモノです。

 生命体は動いているように見えますが生命は全体であるとすれば、全体が時間や距離を移動できるでしょうか。

 <実験>

 どちらの手でもかまいませんが、人差し指を立ててみぞおちあたりにくっつけます。指先を見て移動してみると、自分が動いているのではなく周りが自分の方に向かってくるように見えます。自分は移動せずに周りが動いているように見えます。自撮りのカメラで移動すると、自分は動かずに周りの風景だけが変化するのと同じです。

 

 この五感を備えた生命体は見る者であり、”鏡(=脳内スクリーン)”に映し出されている映像は生命によって見られています。生命体と認識するのか、生命体を通して働いている生命(=エネルギー)そのものが我々の本質なのでしょうか。様々な姿・形を持った生命体がありますが、どの生命体であっても生命体を動かしている生命が宿っているということに気づいてみるのもいいかもしれません。生命が生命を互いに見ています。見る者と見られるモノは切り離されておらず一体ということでしょうか。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−45 [老子]

大成若缺、其用不弊。大盈若沖、其用不窮。大直若詘、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。清靜爲天下正。

 

缺:欠ける

弊:すたれる

盈:満ちる

沖:むなしい、うつろ

窮:きわまる、行き詰まる、身動きできない

詘:折れ曲がる、屈服する

功:手柄、はたらき

拙:まずい、つたない

訥:くちべた、口数が少ない、どもる

躁:さわがしい

 

 人として完成した人は、どこか抜けているように見える。その人の働きは尽きることはない。全体と一体となれば何もない空っぽのようだ。その働きが行き詰まることはない。本当に正しいことは屈折しているかのようだ。最高の技はつたないことのようだ。最高の語り手は何も語らない。騒がしく動き回れば寒さをしのげ、静かにしていれば暑さをしのげる。清らかで静か(=無為自然)であればあるがまま(=正しい世界)とともにあることができる。

 

<他の翻訳例>

最も完全なものは何か欠け落ちているようにみえるが、それを用いても破損することはない。最も充満したものは空虚なようにみえるが、それを用いてもいつまでも尽きることはない。最もまっすぐなものは曲がっているようにみえ、最も技量のある人は不器用にみえ、最も雄弁な人は口ごもっているようにみえる。動き回れば寒さに勝てるが、静かにしていれば暑さに勝てる。清らかに静かであるものが、天下の長(かしら)となるのだ。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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<大成若缺、其用不弊>

 完全なままであり続けるには、エントロピーを減少させなければなりません。何もせずに手を加えなければエントロピーは増大し消滅崩壊することになります。現象界で働いている法則ですから例外はありません。壊れたモノが勝手に元通りに戻ることはありません。何もしないで若返ったりシワが無くなって美肌になることないということのようです。

 自分たちの決めごとで規律通りにできることが完成した人間としていれば、規律に縛られた人間ということになります。自然という流動性の中で生きているのですから、自然のままに生きるということが完成されているかもしれません。

 完全・完璧・完成となったということは放物線の頂点に達したことであり、最盛期・絶頂期ということは衰退の始まりです。完璧だということはそれ以上の状態がないので落ちていくばかりということになります。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ。」平家物語

 

 完成とは、これ以上望むことが出来なく並び立つものがないということでしょうか。最高(=これ以上望めない)の経験を望んでばかりいると、日々の何気ないことは大したことではなくなってしまいます。この瞬間も次の瞬間も比べることはできません。あらゆる瞬間は”一期一会”であって望もうが望むまいが体験されます。瞬間は繋がっておらず前後裁断されています。時間が糸のように繋がっていれば糸を遡ってある時間に出会えるのでしょうか。時間は存在しているのではなく”たった今”が生滅して”たった今”だけがあるということでしょうか。

 

 苦々しい・悲しい・辛い・怒りがおさまらない・・・・望まないことが起こったとしてもその時の感情を精一杯味わうのもいいことかもしれません。辛酸を思いっきり味わい尽くす。”飴玉”同様に、その辛酸は消えてなくなるという当たり前の通りに気づくかもしれません。

 味わうことなく避け、一時的にしのいだとしてもまた同じような状況に出くわします。薄っぺらな逃避グセに気づき、辛酸を味わい尽くすことで動じないようになるかもしれません。

 

<大直若詘、大巧若拙>

 真っ直ぐな棒を水の中に入れると曲がって見えます。屈折によって曲がって見えるだけです。誰もが”あるがまま”の実相を見ています。その見えている世界を自身の固定観念で評価分別してしまいます。その結果、異なる世界観で生きてしまいます。思考によって”あるがまま”を変化させることはできないのに、変化できると教えられました。思考は”未来・希望”というものを持ち出して変化させることができるかのように思い込んでいます。思考によれば問題を解決できるという”癖”から脱することは難しいことです。思考しなくてもいいということが問題がないということです。坐禅・ヴィパッサナー瞑想で”思考しない・自分を持ち出さない”ということを実践します。

 

”自我”は”思考しない”でいられません。思考して”なんとかしたい”と頑張り続けます。”何もしない”ということができません。”自我”にとって”自分を持ち出さずに何もしない”ということは負けてしまうということです。どうあがこうが、”たった今”・”あるがまま”を変えることはできないのですが・・・・。一度だけ自身(=社会的な自己)が完全なる敗北(=大死一番)をしてみるのもいいかもしれません。

 

<大辯若訥>

 五十六章にありますが”知者不言 言者不知”(知る者は言わず 言う者は知らず)、禅語で”不立文字”というのもあります。

 私達は言葉にする前に現象・存在を既に認識しています。”言葉”は認識した後であり、現象・存在が先です。寒さを感じて”寒い”と言葉が出てしまいます。”寒い”と言葉として発したところで寒さを感じるのではないのですが、”寒い”とつぶやいて”寒さ”を感じてしまいます。どうしても感覚よりも言葉が主である癖がついてしまっています。

 私達は先にある現象・感覚を音・形(言語)という後づけの表象にしているだけです。言葉で本質を探求する学問がありますが、本質そのものではない言語で本質を捉えられるでしょうか。”水”という文字で”水”の本質を体得できたり喉を潤すことはできません。言語で現実が出現したら大変なことです。”飛べ”と言っても飛べはしません。子供がマントをつけて飛んだ気になっているようなものです。

 言語なしに見えたり聞こえていることが真実であり、言語に変換されたものはダイレクトの直知ではありません。言語で表現されるものは、社会的な同意によって名付けられたものです。言語化するということは一律に扱える便利な代用品かもしれません。感覚は”冷暖自知”であって、言語で教えられたり言語で感じるようなものではありません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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有為の奥山 [気づき]

 様々な悩みから自由になりたいということは、自分の思う通りにしたいということと同じことでしょうか。どうしても”私”という何かがどこかにいて、考えることで”何とかできる”という”癖”から抜け出せないことによるかもしれません。”思考”によって自由になれるでしょうか、”思考”しつづけるかぎり”私”というものを出現させてしまいます。

 ”我思う、故に我あり”というのは、思いが”我”を出現させているということかもしれません。目の前のPCは”私”ではないと知っています。知られるモノ・認識できるモノは”私”ではありません。身体は知られるモノであり”私”ではありません。この”分かろうとしている思い”も知られているので”私”ではなく、わき起こってくるものの一つです。”本来の自己”を知ろうとしているのは、仮想の”私”であって”本来の自己”ではありません。

 対象とされ知覚されるモノ(物質・感覚・感情・思い)は”本来の自己”ではありません。

 知ろうとする限り知るモノ(=対象)であり、”本来の自己”ではありません。探求して見るかるものは、知られるモノであって”本来の自己”ではありません。

 

 熟睡している時に熟睡していると知ることはできません。目が覚めてから熟睡していたと感じるだけです。”私”という思いが幼少期から教え込まれて想起する習慣づけ(=癖)されたものだということです。社会生活を送るためにどうしても”私”という自意識がなければなりません。社会全体で作り上げた”私”という自意識によって悩み続けたり妄想したりしています。”私”がいて”思考”して生活しているのが”当たり前”となっています。なにかを掴んだり何かを捉えたり何者かになれるという”有為の奥山”にいる限り”私”という呪縛から自由になるのは難しいということでしょうか。

 

 

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老子−44 [老子]

名與身孰親。身與貨孰多。得與亡孰病。是故甚必大費。多藏必厚亡。知足不辱、知止不殆、可以長久。

 

孰:いずれか

親:身近、大事、中心

多:ありがたい

病:悪い

愛:めでる、おしむ

厚:ゆたかさ

辱:はずかしめ

 

 名誉・権力と身体のどちらが大事なのか。身体と財貨のどちらがありがたいのか。獲得するのと失うのどちらが悪いことだろうか。名誉・権力を追いかけ回せば、必ず大きな出費(=痛手)を受けることになります。財貨を蓄えようとすれば心身の豊かさを失うことになる。名誉・財貨の獲得に邁進することなく足ることを知れば辱めを受けることはない。行き過ぎることがなければ危険な目に合うこともない。名誉・財貨にこだわらすに安らかに暮らせるほうがいい。

 

<他の翻訳例>

 名誉と身体、どちらが(人にとって)より切実であるか。身体と財貨、どちらにより多くの価値があるか。獲得と損失、どちらがより大きな害悪であるか。それゆえに、(物を)あまりにも愛惜することは必ず過度の浪費につながり、(あまりにも)多く貯蔵することは必ず巨大な損失に導かれる。(どの程度で)満足すべきかを知れば、屈辱を免れ、(どこで)とどまるべきかを知れば、危険に出会わない。(そうすれば)いつでももちこたえられる。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 私達の身体(=老・病・死)が思い通りにならないことを誰もが分かっています。それでも社会的な自己(=自我)は思考によれば”なんとかなる”と諦めることができないようです。”自分かわいい”が最優先の課題として重くのしかかっています。

 名誉・権力に執着するのは、配下にある人に命令して自身の思いが実現できます。”私(=自我)”が社会に対して”自分で考えたことを自分で実現”できるような気になることができます。”私”の思い(=思考したこと)が実現できるということは社会的な自己(=自我)にとって最高のことです。

 コミュニケーションの道具であった”言葉(=音)”が他人を思い通りに動かせるのです。他の動物であれば危険を知らせるとか威嚇するとかですが・・・・。

 ただの”言葉(=音)”が人を動かすことができます。驚くべきことです。集団が”言葉(=音)”に概念・観念・意味があるということを受け入れていることで成り立ちます。

 我々は常に”言葉(=音)”を使っているので、”言葉(=音)”が万能のようになってしまったかもしれません。現実を”言葉(=音)”に変換しているのに、”言葉(=音)”が現実を解き明かしたり現実となるかのように思い込んでしまったようです。

 ”若いままでいたい”・”健康のままで長生きする”・”平安で過ごす”・・・何億回唱えようが無常に逆らうことできません。私達が生かされている現象世界のエントロピーは増大し続け、一切は分解し消失します。

 財貨の”力”で他人を動かすことができます。多くの財貨を所有することは自我の欲求(=なんとかしたい)を満たしてくれます。

 

 私達は何が起ころうが”平安”でいられることが一番の幸せかもしれません。名誉・権力・財貨がなければ”平安”でいられないのでしょうか。あらゆる条件が揃わないと”平安”が実現できないのか、それとも自ら色々考え過ぎて”平安”を撹乱しているのでしょうか。

 

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分別する癖 [気づき]

 QC(=品質管理)で問題(=困っていること)とは、”現状”と”あるべき姿”とのギャップです。将来の希望(=こうあるべき)という望まれる姿と現実との乖離を”なんとかして”解決したいということです。QC7つ道具という手法を使って問題を解決(=あるべき姿に近づける)していきます。ブレーンストーミング(=結論厳禁・自由奔放・質より量・便乗歓迎)によってアイディアを付箋に書き出していきます。出てきたアイディアを大きな紙に書いて誰もが目にでき、実行可能なものを選択して実施します。

 私達自身の問題(=困っていること)は、過去のわだかまりを消し去りたいとか未来の希望を叶えたいということかもしれません。”たった今”を変更することはできません。過去は既に消え去っているし、未来も全く分かりません。会社であれば誰かが抜けても補充されますから、会社自体は残っており未来を考えてもあまり支障はないかもしれません。大事なことは、問題は無くならないということです。何故ならこの世は無常であって常に変化変容していて同じままであることができません。

 

 何かを掴んだり得たり成ったとしても一時的であり、その状態は必ず消え去り別の状態へと変わる(=無常)ということです。登頂(=掴む・得る)できたなら必ず下山することになります。旅行の目的地へ行った(=掴む・得る)としても必ず戻ってきます。人間社会での本人のアイデンティティ一切合切は、”死”によってゼロとなります。もし、”悟り”が何かを掴んだり得たり成ったりする状態(=心境)であれば一時的なものを望んでいることになります。それも”悟り”が何だか分かっていれば望む必要はないのですが、分からないで掴もうとしているのですから馬鹿げた探求をしていることになります。探求者は覚者の言葉を自分なりに解釈していることになります。鉱物は見本があるので求めている鉱物だと確認できます。重さ・距離・時間・色・音の大きさ・・・に基準となるものがあり、その基準のコピーを使うことで正確性が担保されます。ただの言葉と心境をすり合わせて正確性を担保することができるでしょうか。”解る”ということは一切の疑問が無くなったことかもしれます。ある問題の疑問が霧散し消え去ります。解ったということは、掴む得る成るのではなく霧散するものでなければなりません。

 

 私達は一体いつになったら考えることから解放されるのでしょうか。学校教育で考えて解決するということを何度も何度も教え込まれ、考えるという事に疑問を呈することはありませんでした。どんなに考えても悩みが消えることはありません。何故ならこのは世の中が無常であって”思いの通り”にはならないという”当たり前”のことだからです。人類が思考してきた膨大な時間があるにもかかわらず、考えることが止まないということは思考で解決されることがないという明らかな証拠です。

 

 私達は気になることを問題として考える”癖”があります。自分の身体があるかどうかも気にならないくらいであれば、健康について気にすることはありません。健康すぎて”気にする”ことがあるでしょうか。思考していないということは気にしてなんとかしようということがないということです。問題がないということは、既に平安だということかもしれません。

 思考で人間関係を改善させたり老いなくしたり病気にならないようにしたりする事は物理的に無理なことです。この無常な世界で老・病・死を滅することなどできません。

 問題が滅することはなく、問題とすることがなければそれで問題はありません。”なんとかならないこと(=老・病・死)”を”なんとかしよう”と考えてもどうしょうもありません。

 私達の誰もが既に悟っていなかったら、悟るということは不可能なことではないでしょうか。分かっていないことをどこをどうやって探求するのでしょうか。分別して問題を作っているということが問題だということです。私達は思考で別人になることはできません。思考する以前の見えたまま聞こえたままの自身が本来の我々であって、分別によって多様な人として社会的な自己として振る舞っているかもしれません。

 

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老子−43 [老子]

天下之至柔、馳騁天下之至堅。無有入無間、吾是以知無爲之有益。不言之教、無爲之益、天下希及之。

 

至柔:最も柔軟なもの

至堅:最も堅いもの

馳騁:思い通りに支配すること、自由に展開すること。自由に動き回る。

無有:形の無いもの


 この世で最も柔らかな物が最も堅い物の中を自由自在に動き回るとか思い通りにコントロールできる。形のないものは隙間の無いようなところにも入ることができる。私は無為が有益であることを知っている。言葉のない教えと、無為である行いの有益さに並び立つものはこの世に無い。

 

<他の翻訳例>

あらゆる物のなかで最もしなやかなもの(水)が、あらゆる物のなかで最も堅いものを(無視して)突進する。実体がないから、それは何のすきまもないところにはいりこむ。そのことから私は知る、行動のない行動に価値があると。だが、ことばのない教え、行動のない行動に価値があることに比べられるものは、天下にまれである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 空気(=風)や水によって岩や山も削り取られたり粉々にされてしまいます。エントロピー増大によってどんなに強固に結ぶついた分子構造であってもことごとく無秩序へとなります。法則ですから贖うことはできません。あらゆるモノは放っておけば分離分解されて消滅していきます。

 機械・ロボット(ハードウェア)にソフトウェアが組み込まれエネルギー(=力=電力・空圧・油圧)によって動くことができます。ソフトウェアもエネルギー(=力)も目に見える実体として存在しているわけではありません。私達の身体(=物体)も意識とエネルギーによって営まれています。

 よく知られた”我思う故に我あり”という言葉があります。”我思う”から”我”があるとしています。”思わない”時は”私”はどこにもいません。入浴中に寛いでいるときには”私”はどこにもいません。無我夢中であれば”私”が入り込むすきはありません。”私”は振り返ったとき(=思った時)にだけ”私”が出てくる癖があります

 

 「達磨安心」という話があります。弟子の慧可(えか)が「私の心は不安で仕方ありません。安心させて下さい。」と問いかけると、達磨は「その不安で仕方ない心を私の前に出しなさい、安心させてあげるから」との答えました。 不安な心とは、実態の無いもので、移り変わり定まったものではありません。捉えたり掴んだりできない幻想(=心)をどうすることもできません。何かを動かす力をエネルギーという言葉で表しただけで、エネルギーそのものを見ることはできません。エネルギーが働いた結果を目にすることができます。心そのものを見ることはできませんが、心が働いた結果を感じることができます。

 

 ”私”が身体そのものだったら大変なことです。子供の頃の身体(=私)はもうどこにも存在していません。子供の時の”私(=身体)”は今(=大人)の”私(=身体)”にどのタイミングで入れ替わったのでしょうか。”私”(=身体=体重)は増えたり減ったりしているということでしょうか。身体も心も”私”であると教え込まれたもので、社会で普通に使われているただの観念(=思い込み)かもしれません。実体としての”私”はどこを探しても”これだ”と確定できません。ただの便利な表象だということではないでしょうか。

 何人かの人に”私”を指さして下さいと言うと、誰もが様々なところを指さします。その指も”私”ではなないのでしょうか。”私”が”私”を掴んだり指さしたり知ったりすることはできません。できるとしたら対象(=客体)とされたモノですから、掴んだり知られたものは客体であり主体そのものではありません。目(=主体)がその目(=主体)を見ることはできません。歯がその歯を噛むことはできません。刃がその刃を斬ることはできません。指がその指に触れることはできません。髪がその髪に触れることはできません。

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<いろは歌>涅槃経 雪山偈

色は匂へど 散りぬるを:諸行無常
我が世誰そ 常ならむ:是生滅法
有為の奥山 今日越えて:生滅滅己 
浅き夢見じ 酔ひもせず:寂滅為楽
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 存在から光・音・匂い・味・圧力などの情報が五感で感受されてから、何らかの感覚・反応があって様々な思いが沸き起こります。その中で印象が強い”思い”が選択されます。この思いに気づくと、後づけで”私”が思っているというふうに解釈されます。思いに気づいている”私”がいるということになります。選択された”思い”ですから”なんとかしよう”が働き、自動的に分別(=有為)することになります。

 無為とは”なんとかしよう”を追いかけずに放っておきます。何故なら気づいたときには気づいたことは消え去っています。また、身体的な気づきはすでに終わっています。寒いということは既に感覚として感受された後から”思い”が”寒い”という言葉が頭に浮かんだということです。

 思いや言葉は後づけであって、現象があって感覚があって最後にいくつかの思いの中で”寒い”というのが選択されたということになります。

 有為の奥山:有為(=自意識・分別)で”なんとかできる”という”迷い”から抜け出せないほどの奥山にいます。

 今日越えて:”たった今”だけしかないと気づき、”迷い”の奥山を越えてみる。何もしない(=”なんとかしよう”につき合わない)ただの今(=ただいま)に何が起こっているかを観察する。痛いは痛い老いは老い生は生という当たり前の現実があります。何も間違っていない現実にどっぷり浸かればいいだけのことです。老いたくないとか死にたくないとか苦しみたくないと全精力を使わなくても為されるままでいいではないでしょうか。

 ”思い”が頑張っていて、その”思い”に付き合っていたら大変だということです。こうあるべきだという”思い(=固定観念)”をスルーしても何ら支障がないことを日々実感していくことでしょうか。

 

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無垢な赤子 [気づき]

 無垢な赤子から幼児・子供・年少者・青年・中年・壮年・高齢者へとどのような変化があるのでしょうか。目覚めたと言われる人と我々凡人とどこがどのように違うのでしょうか。

 赤子の時は自身の心身がどうなっているかよく分かっておらず、目の前に突然誰かの顔が現れたり、様々な音が勝手に聞こえてきたり空腹になると大きな声が勝手に出て飲み物が口から注がれる。声が出たり伸びたり縮んだり勝手に排出したりと大騒ぎのまま日々が過ぎていきます。

 幼児に成長していくと、自身に名前がついていていつも近くに自分を世話してくれる大きな身体の”親”と言われている人がいる。自分には識別名(=名前)がある。他(=大人)が存在し自身は小さな(=幼児)身体であると認識します。

 物は所有されていて、誰かの物だとか昨日とか明日という時間の概念が芽生えてきます。親に褒められたり叱られたりすることで良いことと悪いことがあると気づくようになります。

 長くなるので省略しますが、服装・髪型・遊び等の違いを察知して男女という違いを自ら認識するようになります。遠くに連れて行ってもらうことで様々な体験や景色(海・山・温泉・遊園地・スキー場)を見ることができます。世界は広いということに気づきます。

 学校に入ると”成績”というものによって優劣がつけられると感じさせられます。遠くの見知らぬ人と出会うことで、自身は◯◯市の住民であったり、◯◯県の人であると認識するようになります。異なった言語・文化・歴史・宗教・髪の色・目の色の違いを間近に見ることで自身が日本人であることを認識します。

 自らを主体として様々な対象(=客体)を見ることによって、自らがどんな人間であると勝手に決めつけてしまいます。

 

 人間社会で社会人として様々なことを覚えさせられ、自身が何者かということが自然と認識されるようになります。それはあくまでも人間社会の自身が何者かであって、カラス・犬・猫・・からすれば日本人でも◯◯県に住んでいる人でもなく性別も関係ありません。動物にとっては人間がどんな仕事をしているかを知る意味もありません。人間は社会で自己の立ち位置を確立するために、自らをアイデンティティによって定義します。人間社会で”私は誰か”を自問自答すれば自らのアイデンティティこそが自分自身であり、判断基準(=固定観念)こそ自分であるとしているのでしょうか。”私”だと思っているのは勝手に自身で定義している単なる思い込みに過ぎません。

 

 人間の身体的な働きでは、彼等(釈迦・達磨・道元・親鸞・・)と我々はが異なるということはありません。痛い・痒い・苦しい・悲しい・うれしい・楽しい・驚き・気づき・・・五感での感受・身体的反応が異なるということはありえません。

 赤子の時の彼等(釈迦・達磨・道元・親鸞・・)と我々が赤子であった時と異なっているはずがありません。異なっているとしたら人間ではなかったことになります。物心がつくようになり、彼等(釈迦・達磨・道元・親鸞・)が成長して獲得した経験・知見・知識・・・・・によって作り上げられた何か(=心境)が全く一致するということがあるでしょうか。

 例えば、ほとんど同じ材質のレゴブロックを説明書通りに組み立てればそっくりな完成品ができます。料理で例えるなら、似たような食材と調理器具でレシピ通りに作れば似たような料理ができあがります。体格・性別・運動神経が多少異なっていても練習すれば似たような動作ができるようになります。スポーツにおいては身体的な個人差がある場合は大きな差異があることは否定できません。オリンピアンと普通の我々とは雲泥の差があります。

 

 精神面の話になりますが、異なる国・文化・教育・社会体制・言語で同じように成長しても同じような考え方を持つわけではありません。成長段階で思考してきた積み重ねによって、ある境地がまったく一致することなどありえません。例えば、ある液体(生まれた時代・国・環境がことなる人)に様々な物質(経験・知見・知識・・)を混ぜ合わせて、その液体がまったく同質の液体になることがあるでしょうか。

 

 ベースが異なる人が、思い思いに思考することで何かを掴んだり得たりするとします。その掴んだ何かや得た何かがどうやって一致するのでしょうか。知識や思考で何かを掴んだり得たりするかもしれませんが、勝手な自分の妄想で終わることになります。

 見抜くべきことは、様々な物質(経験・知見・知識・・)が混ぜ合わさった液体を通して見えているものがあります。その見えているものは、自身が作り上げた妄想(=偽物)であると気づくことです。”混ざった液体(=固定観念)を通して分別する”という癖がついています。この癖になかなか気づきません。気づかないということは疑うこともありません。この癖から脱しようとすることもありません。癖によって白黒を決めつけて自らを縛っているかもしれません。同じ事象を見ているのに意見が別れてしまいます。固定観念というフィルターを通して分別しています。

 彼等(釈迦・達磨・道元・親鸞・)は、混ぜ合わさった液体(=固定観念)が入っていない空の透明なガラス容器を通して世界を見ることができていたかもしれません。

 

 見えているものに善悪はありません。聞こえた音に善悪はありません。浮かび上がってくる思いに善悪はありませんが、自分の”思い”だとすれば自分(=我)が善悪の責任をとることになります。こんな”思い”の自分ではいけないとして自己否定することになります。

 どんな”思い”が浮かんでくるかなどサッパリ分かりません。脳はイベント駆動であり予測によって様々な”思い”が浮かんできて、脳が最善だとした思いが強くなりその”思い”が自分が下した決断だとあとづけしているだけかもしれません。階段を降りているときに濡れている箇所が見えたら避けて降りるように脳が決断していて、後から自分が避けたとしている。自分が見ているのではなく見えている現象に”私”は存在していません。

 

 自分というものが実在していると思っていますが、ただの概念だということです。思ったときだけ”私”があって、その私をなんとかしようと思うから”私”という思いがいつまでも消えません。実在していない”私”、どこに居座っているのかわからない浮雲・水と同じく変化変容していてとらえどころのない幻想の”私”に振り回されています。

 本来の自己には、性別・年齢・国籍・・・はなくただの観察そのもの。思ったら思ってしまし思ったことはすでに消えています。消えたことを扱ってもどうにもなりません。過去と格闘したり、未知の未来を相手にしていては”たった今”をないがしろにして”たった今”を浪費することになります。何を考えているかを黙ってやり過ごすことを積み重ね、分別以前の赤子のように世界が見えるようになるかもしれません。

 

 

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老子ー42 [老子]


道生一、一生二、二生三、三生萬物。萬物負陰而抱陽、沖氣以爲和。人之所惡、唯孤寡不轂。而王公以爲稱。故物或損之而益、或益之而損。人之所教、我亦教之。強梁者不得其死。吾將以爲教父。

 

沖氣:和なり、深なり

強梁:強者

不得其死:普通の死とならない

教父:師匠

 

「道Tao」から一が生み出され、一から二つ(有無)が生み出され、二つ(有無)から三つめの万物が生み出された。万物は陰(=無)の気を背負い、陽(=有)の気を胸に抱いて、これらを媒介する沖気(=同出)によって調和(=陰陽図)している。人々は「孤(みなしご)」「寡(ひとりもの)」「不穀(ろくでなし)」などと呼ばれる事を嫌うが、諸国の王達はこれらを命名し、自らの高い身分を保っている。つまり物事は損して得したり、得して損をする事もある。人が教えてくれることを教えとしよう。強者として生きる者は、普通の死とはならない。私も師の教えとして肝に銘じよう。

 

<他の翻訳例>

「道」は「一」を生み出す。「一」から二つ(のもの)が生まれ、二つ(のもの)から三つ(のもの)が生まれ、三つ(のもの)から万物がうまれる。すべての生物は背を陰(ひかげ)にして陽(ひかり)をかかえるようにする。そして(陰と陽の2つの気〔生成の力〕の)まじりあった深い気によって(万物の)調和(平衡)ができる。人びとが何よりも憎悪することは、それこそ孤(みなしご)や寡(ひとりもの)や不轂(不幸なもの)などである。ところが王や公たちは、それら(のことば)を自称とするのだ。まことに「ものはそれを減らすことによって、かえってふえることがあり、それをふやすことによって、かえって減ることがあるものだ」人びとが教えに用いることを、私もまた教えとしよう。「凶暴なものはよい死に方をしない」。このことを私は教えの父とするであろう。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 混沌とした「道Tao」(=道理・働き)という源泉が何らかの意図をもって”一(=全宇宙)”を生み出したのでしょうか。”一”なる全体は「道Tao」によって”一”としてある。全体として不可分の”一”は、陰陽一体の”二(有無)”となる。”有”は命名によって万物となる。人が”一”なる存在を形・色・大きさ・・などによって人為的に分離・区別・差別して命名することで万物となります。ある”モノ”を有るとすれば無いということがあり陰陽図のような図で表されます。

 人としての本質に差異があるでしょうか。何らかの目的を持って生まれてくれば意味や価値があるように感じられます。でもそれはあと付けであって、生まれた瞬間に目的を認識している人がいるでしょうか。生まれた瞬間に、戦争を主導し大量殺戮が目的なら大変なことです。ヒトは生態系や地球環境に有益な存在でしょうか。動物を虐げているので愛護団体が必要とされます。苦しいと感じるので救ってくれるなにかにすがりたい。ストレスを抱いているから、発散のために様々な仕掛けを提供してくれます。欠乏感が欲望を生み出しているかもしれません。人と比べて(=通常は羨む人)自身がもっと恵まれたいと思い葛藤することになります。人と比べるよりも今ここで与えられている自身の生活を味わうほうがいいに決まっています。

 何とか苦しみから逃れられるようにと宗教・哲学・科学が自然に起こったのでしょうか。仏教では苦を滅すると言っていますが、苦をそのままありのままに受け入れるというのが苦を滅するということかもしれません。老・病・死がどうして滅することができるでしょうか。何か修行をして、老いない・病気にならない・死なない人がいたら大変なことです。四生諦は十二縁起を真に納得するということではないでしょうか。無明とは、何とかできる何とかしようと考え続けて何とかなると思い込んでいることが無明(=迷い)。無明(=迷い)によって、”何とかしよう”と煩悩が起こります。無常であるを常とし、苦であるを楽としたい、無我であるを我とし、不浄であるを浄としたい。諦めきれず(=迷い)にあがき続けてしまうようです。思考によって老・病・死がどうかなったら「道Tao」(=道理・働き)に反することになります。何ともできないことを何とも出来ないと真に納得する、何とかできるという思っていることが幻想であったと笑えればいいかもしれません。

 哲学や思想によって、人間(=独裁者)の支配から人民の代表が法を作って、法によって統治ていこうということでしょうか。

 科学技術やモノ(=家電等)によって物理的な利便性や安心・安全を提供してもらい労働時間や苦痛を和らげてもらうことでしょうか。ヒトは本当に苦が嫌でしょうがなく、どこまでもいつまでも楽をしていきたい”自分かわいい”ということでしょうか。

 宇宙に何らかの目的があるでしょうか。宇宙には意味も目的もなくただ生滅を繰り返しているだけかもしれません・・・・。当然宇宙と一体となって存在している我々に目的というものは・・・・

 

 命名権を持った王族によって”孤・寡・不穀”などの差別的な名がつけられたのでしょうか。貧しいとか卑しい人がいるということは、対立概念として富んでいて高貴な人がいることになります。自らを優秀だと主張できるには劣った人の存在が必要であり、勝利者となるには敗者が必要です。

 損をするということは得をする人がいるし、得をするということは損をする人がいるということです。

 強者は自身と同じようなレベルの人と戦うことになり、段々と戦いがエスカレートして壮絶な戦いとなる。弱いもの同士の争いはたかが知れていますが、お互いに強いもの同士の戦いは悲惨な結果をもたらします。

 大木は大風や大雪で耐える限界を超えると真っ二つに折れることがありますが、小さな草木は風に身を任せ折れることはありません。人間も強情を張りすぎると自ら変調を招きます。どうでもいいことにいちいち関わっているとろくなことがありません。知らなくても良いことは知らないままでいるのが幸せかもしれません。何でもかんでも知ることで幸となるなら学者は幸せということでしょうか。何でもかんでも問題として思考し続けることが幸せなのでしょうか。何も考えずに何も問題とせず、知らなくてもこまらない人は苦しみの中で生きているのでしょうか。無心で草取りや掃除やスポーツ観戦をしていて悲しんだり苦しんだりするでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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知る [気づき]

当たり前のことですが、存在・現象が先で何かを伝えたいということから言語が生まれました。存在・現象を表象する音(=言葉)と形(=文字)が言語です。絶対的な”一”である存在を適当に分割して概念化しました。”一”であった全体を”多”に分離分割して見るようになったということ。生命体は”自分かわいい”という本能によって、自身にとって意味や価値があるかを常に分別しなければなりません。動物はその種特有の器官を発達させることで事前に危険を察知することで危険を回避しています。

 繁殖や食料調達のために器官を変化変容して環境の中で存続することで今日まで生命を繋いでいます。

 

 言語で存在・現象を起こすことはできません。もし、言語で何かが出現したり現象が起こったら大変なことです。誰かが言葉で現象(竜巻・大雪・津波・嵐・地震・大雨・・・)を起こしたり、青龍・朱雀・白虎・玄武が出現するのはアニメや映画の中だけのことにしてもらいたいとお願いすることになります。現実に言葉や文字で何かが現実に出現したことなどありません。妄想は小説・絵本・アニメ・映画・絵画・・・だけにしてもらいたものです。神秘的なことはほとんど妄想であって、そんな神秘的なことを期待することから目覚めて現実を生きなければ・・・。大変な時は大変でいいし、辛い時は辛いままでいい。そのときに味わえなかったらいつ味わえるのでしょうか。

 何を勘違いしているのか真言(=マントラ)を唱えて何かを掴んだり得たり変化変容させることができるかのように信じている人がいるようです。願いを言葉に託して”何かを引き寄せる”とか・・・。

 言語の力ではなく、真言(=マントラ)だけを集中して唱えることで雑念や妄想から解放され、潜在意識に働きかけ自らを自動的に一つの思いへと駆り立てることが出来たということかもしれません。

 真言(=マントラ)は何でもよく外国人に”ねこふんじゃった”と唱えさせても効果があるかもしれません。外個人の着ているTシャツに”幕府”・”婚活”・”若造”などプリントされていますが、本人は分かって着ているのでしょうか・・・。

 

 知ったことを自らが”知った”と認識できるのは、対象が私達が記憶している物の名前と一致した瞬間かもしれません。初めて見るものは”名前”が出てこないので何が何だかサッパリ分かりません。しかし見えているのですから何らかの存在であると覚知しています。”知らない”ということを”知っている”ということは確かに見えている証拠です。

 我が国の官僚が国会答弁で”会話の内容は覚えていません”と言い切るということは、彼ら(=官僚)と大事な話をしても覚えてくれないということなのでしょうか。国の仕事を任せるには心もとないと揶揄する人もいます。

 専門家でなければ専門用語を言われても何を言いたいのか全く通じません。それほど様々な分野で日々多くの言葉が作り出されています。高齢者にはBtoBやIoTと言われてもついて行けません。”知る”というは、存在・現象・概念と言語が一致するということなのでしょうか。

 人間も動物の一種にすぎません。動物と同じように五感で感受した瞬間に”知った”ということです。動物が言語を使えないということで”知っていない”ということがあるでしょうか?人間は動物と同じように”知っています”が言語に変換された時点で”知った”ことにしているようです。

 

 ”知った”ことを言語で表現できなければ”知った”と認めないのが人間の通念になっていないでしょうか。あの人は”物知り”だというのは、言語で表現できてこそ認められます。子供や専門知識のない人は適切な語彙を持っていないので”知らない”とされていますが、大人や専門家と同じように見えているし聞こえているし味わってもいます。

 ”知った”ことを記憶してすぐに使えるようになっているのが”知識”ということになります。”知った”知識で物を見ると、ありのままの存在・現象として見ることが難しくなります。自身のイメージが”真”であり現実の存在・現象が自身の”真”と違うかという視点で観察していないでしょうか。私の抱いているいつもの”イメージ”とありのままの現実が異なるとして、現実をおかしいと見てしまう。眼前の”たった今”が”真”であり頭の中にある”イメージ”のほうが偽りです。現在の”体調が悪い”というのが真実なのに、いつもの元気な自分が”真”であり、現在の”体調が悪い”となります。”体調が悪い”という事実は歪められません。”痛い”時は”痛い”が正解です。”元の自分”はただのイメージでありどこにも存在しません。自身のイメージと現実に齟齬がある場合。現実にケチをつけて”なんとかしよう”と慌てふためいているのは一体何でしょうか。変えられない現実をそのまま受け取っていま対処すべきことを黙々とやる。

 

<例題>

 夫婦でピクニックに行って、目を離している間に子供と奥さんが湖で溺れていることに気づきました。子供と奥さんのどちらかしか助けられないとしたらどちらを先に助ければいいのでしょうか。

 

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 どうしようかと思考して悩まずに、近い方を先に助けるそうです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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