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老子−41 [老子]

上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以爲道。故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若纇。上徳若谷、廣徳若不足、建徳若偸。質眞若渝、大白若辱、大方無隅。大器晩成、大音希聲、大象無形。道隱無名。夫唯道、善貸且善成。

 

昧:くらい
夷:穏やか

纇:険しい

建:しっかりした

偸:いいかげん

眞:真実

渝:かわる


 秀でた人が”道”のことを聞くと、”道”の生き方を実践しようと務める。普通の人が”道”のことを聞くと、信じる人もいれば信じない人もいる。劣る人が”道”のことを聞くと、大笑いして相手にしない。”道”が笑いものとならなければ、”道”の生き方を実践する意味はない。このことを言い表す言葉がある。

 明るい道は本当は暗い道であり、道を進むことは本当は退く、穏やかな道は本当は険しい。高い徳と言われるのは谷のように低く、広く行き渡るような徳は不足した徳であり、しっかりした徳はいいかげんにみえる。

 モノの真実は不変ではなく変化する。真っ白な物ほどたやすく汚される。遥か彼方には果てが無く、大きな器になるには時間がかかる。大きな音は聞き取れない、大きなモノは形が無い。”道”は目に見ることができずに名がつけられていない道理である。”道”は万物に影響を与え、万物に働きかけている。

 

<他の翻訳例>

 最もすぐれた士は「道」について聞いたとき、力を尽くしてこれおを行う。中等の士は「道」について聞いても、たいして気にもとめない。最も劣った士は「道」について聞いたとき、大声で笑う。笑われないようなものは「道」としての価値がない。それゆえに「建言」に(次のように)ある。「明らかな道ははっきり見えず、前へ進むべき道はあとへもどるように見え、平坦な道は起伏が多いように見える。最上の徳は(深い)谷のようであり、あまりにも白すぎるものは汚されたようで(黒ずんでおり)、広大な徳は欠けたところがあるように見える。健やかでたくましい『徳』は怠けものに見え、質朴で純粋なものは色あせて見える。大きなる方形には四隅がなく、大いなる容器はできあがるのがおそく、大きなる音楽はかすかな響きしかないし、大きなる『象(かたち)』には(これという)形状がない」。「道」はかくれたもので、名がないからである。「道」こそは何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 ”道Tao”は宇宙の道理であって、分離分割できない絶対的な”一”であり見ることも聞くこともできなく言葉では説明できないようです。人間だけが絶対的な”一”から分離して見る主体として独立してあるわけではありません。我々は宇宙の道理とともにダイナミックに動いています。宇宙の動きそのものが我々の動きそのものでなければおかしいことになります。宇宙と切り離されて存在しているものはありません。

 努力しなくても考えても考えなくても全体と一体であり、従いたくなくてもその従わないことがそのまま道理です。どう頑張ってみても”一”でしかありません。分離しているという思い込みが”馬鹿馬鹿しい”と見抜けばいいだけなのですが・・・・。瞑想して一体感を得ようとすることは、分離している前提に立たなければできないことです。海中の魚が海と別であるとにあることを主張する必要はありません。

 道理の中で生きているという当然のことを言われ、素直に聞き入れるか我を張って自身で生きていると思い込んでいるかによって反応が違うということでしょうか。”私=我”という見解が捨てられないと、どうしても”一”なる絶対主観として見ることができません。対象(=客体)と見る主体としての二元的な見解で分別してしまう癖から抜け出すことができません。

 

 全てを自身の思いのままに”going my way”が我が人生として、道理に従った生き方を笑い飛ばすのでしょうか。世界が自身の思いの通りになったら大変なことです。医者も政治家も運送も食料も苦労も何もかも用がなく”神”のような人だらけになります。”邪悪”な人が気に食わない人への思いを叶えたら誰もいなくなってしまいます。誰もが思い通りにできないので生きていられるかもしれません。全員が”善人”でないことが誰もが知っています。

 言語というのは、必ず反対概念が含まれています。”美”には”醜”があり”善”には”悪”が必要とされます。”勝者”がいるということは必ず”敗者”がいなければなりません。

 ”明”には”暗”が含まれていて、どこからという境界を探し出すことはできません。”冬”から”春”になるのではなく前後裁断されており比較対象とされるものではありません。記憶・起点・基準によって時間や移動という概念が作られますが、時間は概念であって存在しているという思い込みではなでしょうか。過去や未来は”たった今”に入り込むすきはありません。”たった今”だけが永遠にあるだけなのですが・・。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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意の働き [気づき]

  私達の自意識は事象が起こった(すでにその事象は消え去っています)後から働き(=自らを顧みる・反省)ます。分別が勝手に白黒をつける癖でしかないのに、”私”が存在してその選択を判断したと思い込でいるかもしれません。見えているのに”私”が見ている。聞こえているのに”私”が聞いている。勝手に笑えているのに”私”が笑っている。勝手に悲しいのに”私”が悲しんでいる。痒いところを無意識に掻いているのに”私”が掻いている。風呂に入って寛いでいるのに”私”が寛ぎを味わっている。・・・どこにも”私”という実体はありません。もし、それぞれに”私”が存在しているというのなら変幻自在で多様な固定されたに”私”を認めることになります。その”私”はどんな姿でどんな心境の”私”なのでしょうか。姿は10代のままで心は童心のままなのでしょうか。”意”の働きの主体は変幻自在で固定したものでないことになります。あるといえばあるし、ないといえばない。見つけることも掴むこともできない”幻”かもしれません。

 

 ”私”が働いて逐一命令していたら大変なのことです。体を動かすときに伺いを立てて笑ったり悲しんだり、歩いたり走ったり跳ねたりをどのように”私”が指示しているのでしょうか。自身が確固たる意志に委ねられているのなら、各自が硬直した人生を送ることになります。そしてその確固たる意志はいつ完成されて不動のものとなったのでしょうか。書き換えられなければ意志によって振り回されることになります。

 

 実際は五感は勝手に働いていて、見ようという意志とは無関係です。自らの意志からは切り離されて働いています。”たった今”の事象をそのままに映像・音・味・匂い・感覚としてあります。見ている”私”がいるのではなく、見えている働きそのもの。聞いている”私”がいるのではなく、聞こえている働きそのも。”たった今”という世界は消滅し、”たった今”が次から次へ永遠に”たった今”だけが続いていきます。

 

 五感がどのように働いて見えていて、どうして聞こえているのかのプロセスは医学的には解っているかもしれません。しかし、見えているような世界がそのままの世界とは断定できません。人間の識別できる電磁波の範囲だけが見えているだけで、他の動物の各感覚器官の能力では異なって見えています。三次元のように見え、三次元のどこかで音がしていると聞こえています。 五感は自意識と無関係に働いています。五感の働きは自動的であり、五感に介入している”私”のような存在を見出すことはできません。

 ”フルカラーで見えている事実”を”私の自意識”で”モノクロの世界”に変更することなどできません。聞こえている音を”私の自意識で”エコーがかかった音”に変更することもできません。舌で味わった味を”私の自意識”で変更することはできません。塩の”しょっぱい味覚”を砂糖のような”甘い味覚”に変更することなどできません。

 しかし、”意”は”たった今”の事実を想念で作り変えて”妄想”としてでっち上げることができます。イメージと言葉でできた”妄想”を記憶して溜め込むことができます。この世にないものをイメージして作り出すことができます。民主主義・紙幣・電子マネー・音楽・楽器・小説・演劇・漫才・新聞・雑貨・電化製品・・身の回りに有るあらゆるもの。

  ”たった今”の事実はすでに消え去っているのに、”意”は追いかけることができます。見えている映像は変えようがないのですが、見えている映像に対してのイメージを掴んだり得たと勘違いすることができます。 実在していない”妄想”ですから、好き勝手に捻じ曲げて記憶できます。また分別して善悪・美醜・・・など思う存分いじくることができます。この”意”によってありもしない”妄想”で迷うことになるようです。

  物体に当たった光が反射されます。その電磁波の刺激が網膜から視神経を通って脳内に三次元映像を作るのででしょうか。脳内に映し出される世界ですから、外に存在しているのではなく自身が見えている世界そのものです。見えている映像は変更できませんが、見えている映像を”意”によって解釈することは自由自在です。 存在はただの光の反射されている”何か”でしかないのに、形として認識して”名前”がつけられ意味のあるものとして捉える癖ができています。

  ”これは何だ”という思いが瞬時に働くようになっています。”意”によって知ろうとする”心”があります。只見えている、只聞こえている、只味がする、只匂いがしている、只草取りをする、只掃除をする、只料理をする、只◯◯する、只歩いている・・・。でしかないのに、”意”が何かを掴んだり捉えたり得たりできるように感じています。”意”によって自意識である主観という働きが生じ、対象(=実際には頭の中の妄想)を”なんとかしよう”と騒ぎ立てる(=迷い)という迷いが生じます。”意”の働きに翻弄されているのに”意”を働かせて”なんとかしよう”と問題にしてます。

 ”意”は止められません。”意”はすでに消え去っている事象を相手に分別しているということに気づかなければなりません。 ”意”は事実である”あるがまま”よりも、”意”で思っているような”理想の世界”であってほしい。  

 つまり事実・現実よりも、何でも願い事が叶えられる世界を願っています。自我(=なんとかしようという思考)は理想主義者であって、何かをし続けていたい。本気で”引き寄せ”を実現させたいと願っています。

 自我の理想世界のために、事象の起こるたびに識別して”なんとかしたい”ともがいています。痛いは痛いでいいし、苦しいは苦しいでいいし、病気は病気なのですからそれでいいはずなのですが・・・。現象として起こっていることを”意”に反するとして正そうとしている自我はどんな存在なのでしょうか。

 生・老・病・死は当たり前の自然現象です。当たり前を当たり前と受け取れば何も問題はないのですが・・・。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−40 [老子]

反者道之動。弱者道之用。天下萬物生於有、有生於無。

 

反は道の動きである。弱は道の働きである。天下の万物は”有”によって生じる(=認識される)が、"有"は"無"によって生じている。

 

反:かえる。かえす。逆らう。

者:行為の主体

用:働き

 

<他の翻訳例>

あともどりするのが「道」の動き方である。弱さが「道」のはたらきである。天下のあらゆるものは「有」から生まれる。「有」そのものは「無」から生まれる。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 ”道Tao”は天地が生まれる前から存在していた”一”なるものであり宇宙の道理。あらゆる存在の根源は”道Tao”。”道Tao”という絶対一があり、陰陽(=有無)が合体しているとの認識です。陰陽のどちらかを定義すれば他方が自動的に定義されます。万物を”有”とすれば、存在と認識されない”無”という概念がないといけません。コインのどちらかを”表”とすれば反対側は”裏”となります。表だけのコインもないし裏だけのコインもありません。反する一方を認識する動きが”一”なる”道Tao”だということなのでしょうか。(反者道之動)

 ”道Tao”は混沌としていて、理路整然としている儒教に反するものだと言いたいのでしょうか。”道Tao”は人為によって強権をふるって従わせようとする儒教の教えではなく、柔軟で無為であるので弱いと表現しているのでしょうか。(弱者道之用)

 万物の根源は”一”であって、はじめから別々の存在ではなかった。存在を個々に認識することで別々の存在となる。存在が”一”なる全体から接点もなく、空気中に浮いているような存在があるでしょうか。どれもこれも接点をもっていてつながっています、境界もありません。

 物質に光が当たり特定の光を反射し他の光が吸収されますので特定の色と認識できます。反射した光の電磁波が眼の網膜を経由して、脳の視覚野で色や形となっているようです。電磁波そのものは色でも形でもなく光の波長です。色の識別ができない生命体にとってはただの濃淡があるだけかもしれません。個々の存在ではなく全体に濃淡があるという世界です。音も振動であって振動に最初から意味はついていません。

 波・振動そのものが着色されたり形がついているでしょうか?何かを叩いたり見たりして、色や形が向かってくるわけではありません。電磁波自体に色がついてるのなら空気中も色が見えてもいいのですが・・・。勝手に色や形として認識されていて、”私”が”私”の意志で色や形を現出させているわけでもありません。私達の生きている世界には様々な波・振動が飛び交っています。無色透明な波・電磁波はアンテナを経由して携帯電話・TV・ラジオに同調すれば再生されます。  

 世界は見ることも聞くこともできない無色透明な波・振動に満ちています。目のない生き物には色や形が認識できないので個別の存在はなく、温度・湿度などのモノの性質の違いを感じ取っているのでしょうか。

 世界は”一”なる全体であるのですが、各生命体が生きるために個々の存在として認識しています。

 

 哲学では”なぜ世界があるのか?”ということが問いのようです。自意識が自らが主体として勝手に対象を生み出すように働いてしまっているかもしれません。自分の存在を疑うことなく、眼前の”世界”が何かを問うて勝手に迷っています。世界は”知るべき対象”であると決めつけています。思考によってすべてが解決できるという古典的な手法から脱することができません。

 眼前に”世界”があるのではなく、様々な振動を感受して自身の中で勝手に構築された三次元世界を見ているのですが・・・。”世界”は自身と別にあるのではなく、自身そのものの内に展開されている世界をそのまま見たり聞いたり味わったり臭ったり感じたりしています。自身の外にある”世界”というのがただの観念だということを疑いません。

 五感の活動で構築されているそれぞれの世界として認識されています。内的な感覚を感情として変換しています。”一”なる全体を個々の世界として感受していて、自身の感受した”世界”を理解したとしても自身の見た世界でしかありません。哲学者の理解している”世界”を説明されてもなんの共感もありません。人の見ている世界と同じに見えたら大変なことです。小説を読んで小説の世界が自分の世界になったり、映画を見て映画の世界が自分の世界になったり、戦争映画を見て戦争が自分の世界になったら・・・・・。誰もが誰かの世界と同じになったとしたら・・・。世界征服を考えているような人と同じ世界、自然環境よりも自分だけが経済的に恵まれたい世界、どうでもいいことを考え続け他人に自分の理論を押し付けたい世界、あの世を信じて同じように信じて欲しいと願っている世界、筋力を鍛え上げたい世界・・・。自身の趣味趣向はお好きにどうぞですが、同じような世界を強要されることは遠慮したいものです。

 他は他の世界であり、自らは自らの世界です。同じ雑貨を見ても欲しいと感じる人もいれば何も感じない人がいるのが当たり前です。全員が同じ反応をするのは本能的な部分であって、それ以外は別々の世界が構築されているということでしょうか。性格の不一致と言われますが、一致していたら大変です。忌み嫌うようになったら大喧嘩になってしまいます。それぞれが異なっていて、それぞれの世界で生きていけば何も問題がありません。

 

 思考で”一”なる全体世界を解明することが可能でしょうか。自身の内で映し出された映像(=世界)を云々するのは、自身を見て自身について云々することです。思考の中の存在を触れたり掴んだり得たりできないのに分析して解明したかのように勘違いしているのでしょうか。

 

 存在は”命名”によって意味のある”有”という存在とされています。”有”という概念はいつか消え去って消滅して”無”となるという概念があるからでしょうか。”無”から何かが前触れもなく”ポッ”と出現することがあるでしょうか。すでに物質がり、何らかの条件が揃うことで変化変容して感受できる(波・振動)ようになる。認識できない状態を”無”とすれば、”無”から生まれるという解釈でもいいかもしれません。しかし、全くの”無”から何かが突然に出現したら大変なことになります。

 眼の前に予期せずに様々なものが出現していたら困ってしまいます。怖くて歩いていられません。映画のようなファンタジーの世界になってしまいます。”無”から”有”が生まれるのではなく、”無”という対立概念によって”有”と表現しているだけのことでしょうか。(有生於無)

 

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迷い [気づき]

 ヒトの迷い(思考)について。

  ヒトは物心(世界があって自分がいるという感覚)がついてから、辞書に出てくるような観念(思い込み)である”私”を日常生活で自然と教え込まれてしまいます。身体(物体・肉体)に名前がつけられて呼ばれ、無意識に返事をするようになります。ただの身体ではなく識別名がつけられた特別な何かであると感じるようになるのでしょうか。自身も全てに名前がつけられていることに気づき自然と名前を覚えるようになります。世界は知るべき対象であり、自らは知る主体であると自然と勘違いするようになります。

 名前を覚えると褒められるので、記憶することはいいことだと身につく(癖)になってしまいます。 名前がついている対象は、好ましい(執着)・避けるべき(忌避)・認識しなくてもいい(無関心)というものからできている自分の世界が構築されます。モノを見ると瞬時に識別作用が働くようになります。(ここが迷いの始まり)

 モノ自体に善悪はないのに自身の色付けされた世界に生きるようになります。 認識するやいなや分別してしまうプログラムが出来上がります。なんでもない安住の世界(ただ見えている、ただ聞こえている・・)から迷いの世界(分別の世界)へ切り替わる間が無く(間抜け者)なります。 人間社会で生き抜いていくために、行為にも善悪があると教え込まれます。周りの大人や学校教育で、取捨選択すべき行為が教え込まれます。社会に従うロボットのようなプログラムがインストールされることになります。記憶力と思考力が生きていく術であるかのように徹底的に洗脳(染脳)されます。知らず知らずの内に思考最優先の生き方となり、常に思考を追いかける脳の癖ができあがります。努力して思考すれば何かを掴んだり得たりできるという間違った観念が植え付けられた脳の習性となるようです。サトリも掴むとか得るとか勘違いしているのではないでしょうか。

 

  思考が問題を解決するツールだと信じ込んでいますから、自ら(なんとかしようという思考)を疑うことが無くなります。思考が問題を作っていると言われても、脳の癖によって思考で何とかできるという呪縛があるので抜け出ることができません。 鈴木大拙のお話の中に、ムカデに”ムカデさん、ムカデさん、どの足からあなたは歩くのを始めるんですか?”と聞いたら”動かなくなった”という話があります。”考えるようになったらうまく歩けなくなる”ということです。

 人間は問題があるから考えて解決すると思い込んでいますが、考えることで問題にしているということです。 健康体であるということは、自分の体があるのかないのか気にならない状態かもしれません。あちこち気になり”なんとかしよう”というのは不健康な証拠です。思考しているのは不健康だということです。健全・平安であるのはあちこち気にならない(思考しなくてもいい)状態ということかもしれません。自分が思いに振り回されていないということであり、何も考えなくてもいいというのが最高。

  起こってしまったこと(過去であり消滅していること)を考えている間に、”今という事実”を見逃し続けています。つまり、考えているということは今という事実の他に妄想しているということになります。考えなくても生きているということを体験(坐禅)しなければならないということをでしょうか。 ”なんとかしよう”というのが自我(記憶と思考の使い手)ですが、自己の思考が間違ってはいない(自己正当化)というのが人間です。自らを疑うことは至難の技です。思考しないほうが安楽であるという体験(坐禅)がどうしても必要になるのということでしょうか。

 

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老子−39 [老子]

昔之得一者、天得一以清、地得一以寧、神得一以靈、谷得一以盈、萬物得一以生、侯王得一以爲天下貞。其致之一也。天無以清、將恐裂。地無以寧、將恐廢。神無以靈、將恐歇。谷無以盈、將恐竭。萬物無以生、將恐滅。侯王無以貞、將恐蹷。故貴以賤爲本、髙以下爲基。是以侯王自謂孤寡不轂、此非以賤爲本耶、非乎。故致數譽無譽。不欲琭琭如玉、珞珞如石。


現代語訳
 一なるものを感得できる者からすれば、天は天のまま一であれば清く、地は地のまま一であれば安らかで安定し、神は神のまま一であれば霊妙であり、谷は谷のまま一であれば満ちることができ、万物は生じているが一としてあり、諸侯の王は天下を真なるものとすれば一となる。本質に立ち帰ればすべては分離される以前の一のままである。

 天が清くなければ裂けることは避けられない。地が安定していなければ崩れるだろう。神が霊妙でなければ休まることはない。谷が満たされていなければ枯れ果ててしまう。万物が生じることがなければ滅びてしまう。諸侯の王が真の者でなければ治世は覆ってしまう。

 故に貴いということは賤しいということが根本にあり、高いと認識されるのは下に基があるからです。つまり、身分が貴いというのはもとは賤しかったということで、地位が高いというのは最初は低かったということだ。

 だから、諸侯の王は疎遠とか徳が少ないとか不善と自らを呼ぶ。これは賤しいというのが根本にあるということです。

 名誉であるということは褒められることではない。貴重な宝石を欲するのではなく、ただの石が散らばって数多くあるようなものだということです。

 

寧:安らかにする、しずめる。
盈:みちる、みたす、あまりある。
貞:まこと、まごころ、真のもの。言行が一致する。
歇:止まって休む。
竭:かれる。つきる、なくなる。
蹶:つまずく、つまずかせる。たおれる、くつがえる。
孤:遠ざかる。疎遠
寡:少ない。
不穀:不善
琭:数少なく貴重な様。
珞珞:数多い様

 

<他の翻訳例>

その昔の「一」(の原理)を獲得したもののなかでは、(たとえばまず)天はこの「一」を得たゆえに清らかで軽く、地は「一」を得たゆえに重くおちつき、神々は「一」を得たゆえに霊妙であり、谷は「一」を得たゆえに充満している。あらゆる生物は「一」を得たゆえに生みふやす。諸侯や王たちは「一」を得たゆえに天下の長(かしら)となった。それらをこのようにさせたのは、「一」である。天は清くさせるものがなかったから、おそらくは裂かれるであろうし、地はおちつかせるものがなかったら、おそらくはくずれ傾くであろう。神々はその霊妙さを与えるものがなければ、(その力は)発散し、尽きはててしまい、他には満たしてくれるものがなければ、干上がってしまうであろう。すべての西部は生みふやせるものがなければ、絶滅するであろうし、諸侯や王たちは長であることができず、つまずきたおれるであろう。まことに「貴いものは賤しいものを根本にして立ち、高いものは低いものをその基礎とする」。それゆえに諸侯や王たちは、自分のことを「孤(みなしご)」とか「寡(ひとりもの)」とか「不穀」(不幸なもの)などと称するのである。これは賤しいものを根本とするからはないであろうか。そうではないのか。それゆえに、最高の名誉はほめられないことであり、琭琭(ろくろく)たる(平凡なもののなかで)玉のように(光り輝いたり)、珞珞(らくらく)たる(堅いだけの)石のように(人から見はなされて)あることを望まないのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 第二十五章にあるように天地に先立って、混沌とした一なるものがあった。天地が生まれる前から存在していた一なるものであり、名前がないので「道Tao」と名をつけたということでした。宇宙の道理(道)があって天・地・人に分かれ、天は道に従い、地は天に従い、人は地に従う。

 本来一であったものが有無・陰陽・天地・白黒・善悪・・・として分別する癖によって二元対立的に感じてしまうようです。眼前の世界は一様であり善悪のレッテルは貼られていません。人間の都合で後から決められます。

 ”一”であるものから何かを認識して逐一命名すると、存在は無限に分割されてしまいます。雲でさえ意味のある形としてとらえられると”命名”されてしまいます。

 ”一”であるときは混乱はありませんが、無限のものを逐一理解しようとすると混乱は増すばかりです。ヒトは知れば解決するという観念に囚われているようです。知られる対象は限りなくあるので飽きることはありませんが”一”から離れていくばかりです。

 

 天という空間に汚れをつけることはできないので清いということでしょうか。地を動かすことはできないので安定しているということでしょうか。老子の時代に、ヒトの願いを聞き入れてくれる”神”という都合のいい概念があったのかどうかはわかりませんが、概念で作った想像上のものだから霊妙ということでしょうか。人間は見たこともないモノを作り出す天才です。仏も神もただの概念かもしれません。

 自分たちが信じている”神”がいて願い事を実現してくれるなら大変なことです。私達が信じている”神”ではないので”やっつけてほしい”とか、約束された地であり”われわれが専有できるように”とか、虐殺しても神のご意思だとか・・・。いいように免罪符のように”神”にすべてを押し付けます。

 ”神”がどのように振る舞うのかは、”神”を定義している人に委ねられているかもしれません。思いが聞き入れられなければ気にもかけられない使い捨ての名ばかりの”神”なのでしょうか。日本人が中国・英国・中東の”神”を崇拝してもいいし、他国の人が日本の”神”を崇拝しても何も問題がないはずですが・・・。その国の”神”はどうしても自国の人に似ているのはどうしてなのでしょうか。

 形(=文字)や音(=言葉)で願い事が叶えようとしていることは”神”を信じているのと同じことかもしれません。”病疫終息・病疫退散”と文字にしたり言葉で言うことでウィルスに効果があれば”科学”を否定することになります。形(=文字)や音(=言葉)で叶うならば、”科学”は必要なくこんな楽なことはありませんが・・・。揮毫したとしてもウィルスには何の効果もないのと分かっているはずなのですが・・・。ただのパフォーマンスであればいいのですが、真剣にやっているところを見ると・・・。TVで未開の地に行って”祈祷師”のやっていることを取り上げることがありますが、”インチキ祈祷師”と同じレベルのことをやっているかもしれません。

 机の上にあるボールペンに向かって”浮き上がれ”と信じて唱えるでしょうか。もし”浮き上がれ”と真剣に書いたり唱えたりしている人を見たら”頑張れ”と言ってあげるか”おやめなさい”と止めさせたほうがいいのか誰でも迷いません。非科学的なことを真剣にやっているということが多く見受けられますが、ギャクでもなさそうです。

 動物が人間を観察すると、四六時中口をパクパクしていることに驚かされると思われます。人間の頭の中で行われている”おしゃべり=勝手にわき起こる思い”を聞くことができたら、人間を辞退するかもしれません。

 

 肥沃な谷であれば多くの作物を生み出してくれます。分離分割のない”一”から、名によって分離分割されて万のモノとなり万物と言われるようになったのでしょうか。見えているこの有様が自分であるということは、見えているモノ(=映像)は見られているということです。存在を見ている”私”という存在があるというのは観念(=思い込み)であって、見えているだけがあります。壁の向こうに何かがあるというのは記憶と予測です。遠くに住んでいる親が健康であるというのも期待であり想像であり観念(=思い込み)かもしれません。

 記憶と予測によって存在があるだろうと思いこんでいます。熟睡しているときに存在は認識できません。たった今のことだけしか知らなくても何も困ることはなにのですが・・・。たった今の実在より、記憶と予測(=あやふやな思い込み)を信じて混乱しているだけかもしれません。

 

 

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脳神経の外観像−2 [TED]

TED 「A neural portrait of the human mind」

<15:35>

 どうして3カ所も顔認知や位置認知に必要なのでしょうか?これらの働きの分担はどうなっているのでしょうか?

 第二に脳内部のそれぞれの領域はどう関連し合っているのでしょうか?拡散画像で脳のあらゆる部分を繋ぐニューロンの束を辿ったり、ここで示した方法で脳のニューロン個別の繫がりを辿る事が出来こうしていつか脳全体の配線図が分かる事となるでしょう。

 第三にこの様な体系的な構造がどうやってヒトの成長期や人類の進化上出来上がったのかです。この様な疑問に取り組むため科学者達は他の動物達の脳をスキャンしてまた幼児の脳もスキャンして調べています。

<16:40>

 ヒトの思考と脳を理解する努力は、病気を1つも治せないとしても価値のある事です。我々が本質的に誰なのかを理解する為に、ヒトの経験の根底となる根本的機能を理解する事程興奮させられる事はあるでしょうか。これは科学に於ける時代を超えた最大の探求なのです。

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 生命体は電磁波の周波数・音の振動・味・匂い・圧力などの刺激(=情報)が自動的に感覚器官を経由することで何かが在るという感覚に気づいています。ヒトは感覚を言語で解釈する癖がついていて、意味や価値があるのかを判断してしまいます。目が見ていたり耳が聞いていたり・・しているのではなく、五感を通して刺激(=情報)が受け取られ脳が三次元の映像や音響として脳内に展開しているようです。存在は外のどこかにあるのではなく、自身の内に展開されている映像や音響として在るものを見たり聞いたりしています。実際に存在していなくても眠りの中での夢では、モノを見たり言葉でその見えたモノが何かを知っています。

 知らない(=知らされない)対象であっても、存在していると疑うことがないのはどうしてでしょうか。記憶やイメージによって存在していると思いこんで(=観念)います。自身の首から上や背面を直視することは絶対にできません。鏡に向かって映し出されている顔があって自身の存在が見ていると断定しています。自身が鏡を覗き込んでいると確信しているだけで、事実は鏡の像に気づいているということが真実のことです。ただ像に気づいている気づきがある。

 性別は◯、年齢は◯、名前は◯、住所は◯という属性(=アイデンティティ)で特定された何かであるというのは、知識を拠り所としているだけかもしれません。私たちは、直視して確かめることができないモノであっても、誰かが確かめた知識であれば鵜呑みにして信じ込んでいるのかもしれません。

 我々の本性は本当は無色透明であって、性別もなく年齢もなく名前もなく特定の場所に住んでいるということがないものであり、身体を通していつも観察して気づいている「何か」かもしれません。旅行先やどこかに出かけても無色透明な「それ」そのものであれば、どこかに住んでいるということができるでしょうか。物理的な肉体であり社会的な”私”であれば、◯◯に住んでいるということになりますが・・・。

 性別について、社会によって定義された性別があります。様々な属性(=身体の特質・髭・骨格・振る舞い・らしさ・音程等)を教わり男女どちらかの性別として決めつけられているだけかもしれません。幼少期は男女の意識もなく生きていたはずですが・・・。意識は常に生滅して新しく性・年齢・名前・住所もなくただ今起こることに気づいているだけで、前後のつながりはただ記憶によって作り出されているだけかもしれません。瞬間瞬間に新しい気づきがあるので、意識は老けることがないかもしれません。

 存在はどこに在るかと言えば、我々の脳が自然に像として認識されているものを存在としているかもしれません。歯肉に麻酔注射されれば歯や唇の存在は確かめられません、五感で感受されたとしても脳が認識出来ていなければ存在として気づかなければ存在はあるといえるのでしょうか。存在を勝手に歪めているのも記憶や固定観念を通して解釈しているからです。

 脳の物理的な発火地図を作って気づきがどこから来るのか分かればいいのですが・・。

 物理的に我々の脳をくまなく調べても、進化の過程を経て獲得した能力を備えた物質だけかもしれません。無色透明な「それ」が働きかけて意志となり、意志によって身体が動いている。そこに”私”という何かが歯車のように存在しているのでしょうか。それとも後付で”私”が全てのことを成し遂げているのでしょうか。全てが”私”によって為されているのであれば、”私”を責めているのは一体誰なのでしょうか。分裂した二人の”私”がいるということは・・・・。

 ある思いに加担して都合よく”私”をくっつけているのでしょうか。思いはどこから湧き出してくるのか探ってみるてもいいかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−38 [老子]

上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無爲、而無以爲。下徳爲之、而有以爲。上仁爲之、而無以爲。上義爲之、而有以爲。上禮爲之、而莫之應、則攘臂而扔之。故失道而後徳。失徳而後仁。失仁而後義。失義而後禮。夫禮者、忠信之薄、而亂之首。前識者、道之華、而愚之始。是以大丈夫、處其厚、不居其薄。處其實、不居其華。故去彼取此。

 

處:いる。とどまる。住む。落ち着く。

不居:腰を落ち着けることがない。

大丈夫 :立派な人

 

現代語訳
 最上の徳の実践者である”道Tao”の人は徳かどうのこうのなど気にしないので、徳のある人です。最低の徳の実践者である”儒教”の人は徳を失いたくないので、徳のない人です。最上の徳は無為であって、意図的にすることはない。最低の徳は作為的であって、意図をもって行っています。最上の仁とされても、作為でなされるので仁ではない。最上の義とされても、作為でなされるので義ではない。最上の礼とされても、礼として儀礼を行うときに相手が礼に応じなければ、腕まくりをして力ずくで強制させる。

 「道」の状態が失われ、分別がはじまるので徳が必要とされる。徳が失われると仁が必要とされる。仁が失われると義が必要とされる。義が失われると礼が必要とされる。最後の礼を重んじざるを得ない者は、忠信が希薄であり社会が乱れる発端となる。仁義礼を前もって知識(=仁義礼の意味・こうあるべき)として教わる者(=儒教者)は、道端に咲く花(=ちょっと目に止まるだけ)のようであり愚の始まりである。立派な人であれば、薄っぺらな知識を選択せずに実のある「道」にとどまる。

 実のある「道」を選択し、ただ見栄えのいいところ(=儒教)にとどまらない。仁義礼(=知識・意図的)という見栄えにとどまらず「道」に従うべきである。

 

<他の翻訳例>

 高い「徳」のある人は、「徳」を自慢することがない。だから、「徳」を保持するのである。低い「徳」のある人は、「徳」のみせかけをはらいのけることができない。だから、(ほんとうは)「徳」がないのである。高い「徳」のある人は、何の行動もしないでしかも何事のなされないということはない。低い「徳」の人は何か行動しても、しかもなされないことがある。高い仁愛の人は行動をしても、動機があってするのではない。高い道義の人は行動するが、動機があってするのである。最もよく礼儀に習熟した人は行動するが、これにこたえるものがないとき、袖をまくりあげて相手を引っぱろうとする。それゆえに「『道』が失われたのちに『徳』がそこにあり、『徳』が失われたのちに仁愛がそこにくる。仁愛が失われたのちに礼儀がくる。およそ礼儀は忠誠と信義のうわべであり、争乱の第一歩である」といわれるのだ。予見することは道の華かしさであるかもしれない。だが、愚行のはじめでもある。だから、大丈夫たるもわが身をおくのは、しっかりした厚みの上であって、薄っぺら(な外郭)にではない。

果実(実りあるもの)に身をおくものであって、花びら(飾りたてたはなやかさ)にではない。まことに、あのこと(外見や予見に従うこと)を斥けて、このこと(道のはたらきに従うこと)をとるべきである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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仁:優しい心、己の欲望を抑えて慈悲の心で万人を愛す

義:強い心、私利私欲にとらわれず、人として正しい行いをし、自分のなすべきことをする、正しい生き方。
礼:感謝する心、社会秩序を円滑に維持するために必要な礼儀作法。

智:正しい心、学問に励み、知識を得て、正しい判断が下せるような能力。

信:正直な心、約束を守り、常に誠実であること。

 

 教養がなく荒くれ者の君主が横行していた時代において、教養をつけ自らの行動を律し人格のある君主が求められていたかもしれません。ヒトは教わることで一人前のヒトとなるということに疑いをもっていません。知識は得ることができ知識の過多で容易に判断されます。詰め込んだもの(=知識)を素早く吐き出せることが学のある人とされているのでしょうか。「学んだことの唯一の証は変わること」

 知るということと思考するということは、生命体にとって安心・安全であるために必要不可欠であるとしてきたようです。知っていることが多ければ危険を回避する可能性が大きくなります。思考することで問題解決する能力も向上するということのようです。脳の仕組みを知って脳を最大限に活用したいというのが望みなのでしょうか。問題を解くはずの思考が問題を作り出している元凶だと解ったらどうするでしょう。(パラドックス)

 

 孔子は力で治め非道が繰り返され荒廃した国を憂え、教養があり人格の優れた徳のある君主の治世を望み教えを説いたのでしょうか。力では君主には太刀打ちできませんが、口(=言葉)で言いくるめることができるので言葉の方が力より上位であると信じていたかも知れません。

 老子は、言葉で表現する以前の見えたまま聞こえたままの即今のままを主張していたのでしょうか。作為の入る余地のないたった今。即今の事実の世界はそのままのたった一つでしかありません。その迷うことのないたった一つであるものを、言葉で認識すると瞬時に分別が働きます。分別するとは二元対立のどちらかを自然と選択してしまうことになります。誰かの発言が女性を蔑視しているとすぐに反応してしまっている自分に気づきません。只の音(=言葉)や形(=文字)なのに感情を揺さぶり怒りを誘発するということは、それだけ言語に振り回されているということかもしれません。言語に振り回され続けて生きていくことを良しとするかは個人的な問題です。

 ヒトが言語に振り回される特性を脱して生きていくか(=老子)、振り回される特性を利用して教育するか(=孔子)に分かれるところです。

 儒教では所詮人間は人間社会の中で生きているのであって、人間社会で必要な教養を身につけ、人間として自らを律することを修練すれば高徳な人格形成ができるという主張なのでしょうか。初めは作為的にやることも何度も修練するうちに身につき、慇懃な人となり尊敬を集めるに違いない。所詮は言葉に使われているのですから、教養を身につけていけば仁愛も溢れ出してくるはずだということでしょうか。教養も一歩間違えば高慢ちきな人間となるかもしれません。

 

 老子は知識や強制で身につけたものは飾り物であり上辺だけのことでしかない。裏腹な人間を助長し、言っていることとやっていることが異なる薄っぺらな人間ではないか。人間の本性は何者にも汚されていない分別以前の直知にある。言葉にならない以前の見えたまま、聞こえたまま、味わったままのダイレクトな経験に善悪もなにもない。分別を持ち出し”作為”でやっていることは人を欺く欺瞞だと痛烈に批判しているのでしょうか。本性のままでない偽りの礼・義・仁を身につけてどうする。嘘に嘘を塗り固めた人格などまがい物ではないか。

 

 教えるという行為から強制的な側面を排除することは難しいことです。校則・行動訓練・挨拶・礼儀を持ち出して強制して、指示に従わない人を強制的に虐げているというのは昔からあり無くなることがないかもしれません。社会制度の中で生活するには作為的なことが日常的に行われています。作為で作られた人格者と呼ばれることにどれほどの重きがあるのかよくわかりません。

 人格者面して生きていくよりも、おバカのままで生きていく方が気楽かもしれません。幸せに教養は必ずしも必要ないのではと・・・・。

 

参考:西田哲学で「純粋経験」の説明で”反省を含まず主観・客観が区別される以前の直接経験”とあります。

 経験を振り返って反省したときに”我”が現れ(=生じる)て、思考している主体があってそれが”わたし”であるという認識の癖がついているのでしょうか。”我思う、故に我あり”ではなく”我思う、故に我生ず”。”わたし”という表象を自動的に使ってしまっているだけのことかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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脳神経の外観像ー1 [TED]

TED 「A neural portrait of the human mind」

<00:03>

ヒトの思考と脳は汎用な単一目的のプロセッサーなのではなく、高度に特殊化された各部の複合体であり、その1つ1つが各々固有の問題を解決しながらも総合的に思考する我々を作っているという事です。

<01:14>

このように急に顔を認識できなくなることが実際起きるのです。それは相貌失認と呼ばれ、脳のある特定の場所に障害が起きた結果起きます。これに驚かされる事は顔認知だけに障害があり、その他は問題がない事です。

<05:41>

この領域が顔の認知に特化して機能する事をはっきり確かめる唯一の方法は仮説を全て除外していく事です。

<08:31>

この実験でついに確定したことは、この脳の領域は顔だけに反応するのでなく顔を認識する為に無くてはならないものだという事です。

<10:24>

特定の視覚に関係しています。また特定の機能聴覚とか他の感覚を専門とする領域があるでしょうか?あります。

<11:27>

これまでお見せした全ては聴覚視覚などの様々な認知機能を司る領域でした。では素晴らしく精巧で複雑な思考活動のための特別な領域もあるのでしょうか。はいあります。このピンクの色が私の言語領域です。

<12:13>

未だに分かっていない事で、最も驚くべき領域は青緑色のこれです。この領域は他の人が考えている事を推測している時に反応します。

<12:49>

重要な事は、脳には全ての思考機能それぞれに致命的なものも含めて特殊に特化した機能が備わっているというのでは無いと思っています。

<13:11>

色と形に反応するだけの領域だったのです。

<14:56>

我々の脳には、特殊に分化した思考機能の構成分野が初めからあったというシンプルな事実です。

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エントロピー増大:どんな物質も放っておけば(閉鎖系のシステムならば)無秩序な状態に向かい、周囲の環境と区別がつかなくなっていく。(例:熱いコーヒーも放っておけば室温と同じ温度になってしまう。)生命は活動して(開放系)熱を発生させています。活動によってエントロピーの増大を減らしながら生きながらえていますがいつかは死んでしまいます。生命体の存続のためには子孫を残していくしかありません。

 

 生命とは、①体が膜で仕切られている②代謝を行う③DNAを持ち自己を複製するという3つをもって生命と定義されているようです。ウィルスはエネルギーの生産も代謝もできず、どこかに居候させてもらえないと生きていけないので「非生物」とされています。

 生命は様々な環境の中で仕切られた細胞の内部にDNAを持ち、エネルギーを外部から取り入れエントロピーを捨てる仕組み(無秩序[→]秩序)によって生きています。

 生命は様々な環境刺激(=変数)を感受して「進む・逃げる・とどまる」かの行動により安心・安全を確保してきました。

 個体の内部にエネルギーを取り入れる口と排泄口があるだけの単純な構造から進化したようです。少しでも永く生きるためには多くのエネルギーを摂取して巨大化していくという選択をしたようです。消化器官を作り多様な食物から効率的にエネルギーを摂取しなければなりません。効率的なエネルギー摂取のために分業化したり分泌物を出すようにしたりしてきたのでしょうか。次に内部環境の情報を得るのに神経系が発達し、神経系を集中管理する脳が発達することになったのでしょうか。脳は後発の臓器であって身体の下僕のようなものなのですが、自らが司令塔のように振る舞っているかもしれません。身体の臓器で主従関係があるとしているのは意の働きかもしれません。身体の部品は必要だからあるわけで比べる必要はないのですが・・・。

 生命種によって神経細胞の数に違いがあります。生命体が生存(=依存)している環境に従い認識能力も異なります。明暗だけ分かれば生きていける環境から、精細な色と形を認識しなければならない環境にいる生命種も存在します。広域の電磁波(=紫外線までも)を感受し識別できる能力を身につけるようになった生命体もいます。視覚細胞・聴覚細胞・臭覚細胞・味覚細胞・感覚細胞の多寡も異なり、処理する脳神経細胞の数も異なります。臭覚に優れた種、聴覚に優れた種・・・。

 

 環境によって目の色や肌の色や鼻の高さや体型が異なる程度です。ヒトであれば脳の構造ほぼ同じです。脳の研究から、MRI と電気刺激によって脳内でのある領域が顔を認識する為に無くてはならない領域であることが発見されたようです。言語領域とか他の人が考えている事を推測している時に反応する領域もあるようです。思いが浮かんでいるときに、ニューロンが発火しているということのようです。

 将来、脳のマッピングが完成し繋がりを解明し配線を全て調べ上げるのでしょうか。脳に似せたコンピューターを作り出して意識の在り処を見つけ出そうというのでしょうか。脳の障害を取り除くシュミレーターとして使うのでしょうか。

 ”幸福”という定義を入力すると”脳シュミレーター”が働いて、人間社会でどう立ち回るかを教えてくれるのでしょうか。”脳シュミレーター”に従属してほんとうに”幸福”と言えるのかが社会問題になるかもしれません。

 

 

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