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無記 [気づき]

 我々は何でもかんでも知ろうとします。知ることで危険を回避したり、問題を解決する手助けになります。「知ること[→]解決」という図式が出来上がっています。人間が作り出した「社会」という仕組みの中でより良く生きていくためには、仕組みを熟知している方がいいようです。知らないよりも知っっていることで機会損失を少しでも減らすことができます。社会での仕組みが細分化されていくと、それだけ専門的な知識が要求されます。

 公的な機関が試験によって最低限の能力を認めて与えるのが「資格・免許」です。ある業務には免許がないと罰則があります。我々が接触する対象人数によって「エチケット・マナー・ルール・法律」と強制力が強くなります。法律では罰則で強制的に従わせ、社会秩序を守るようにしています。各々が好き勝手に行動することがないように、統制しなければなりません。

 動物は誰に教わることなく身についている本能によって行動しています。人間は人間が作り出した仕組みを学ばせる必要があるようです。

 自分は何者であり、何のために生きているのかという問があるのは当然のことです。仏教では、これらの問に言及していないということを「無記」と言われています。「毒矢のたとえ」のお話で、手当(=苦の解消)しようとしているのに毒矢がどこから飛んできたかを知ろうとします。知ろうとしていることは苦の解消には何の助けにもならないようです。

 禅の公案に「祖師西来意」やどのよう修行すれば何かを得られるかのような問があります。私達はすでに「それ」であることにくづけばいいだけなのですが・・・。ある事象がどんな意味や価値があるのかを知ることと、今生きていることと関連づけてしまいます。  

 意味や価値のあることが「それ」だと勘違いしています。意味とか価値は人間が勝手に意味や価値をつけたものであり、あと付けです。石油としての有用性が分かる以前は異臭のするやっかいなモノでした。レアメタルもただの鉱物であって見向きもされませんでした。時代によって意味や価値は変化します。寿司がメジャーになる以前は、生の魚の切り身やタコを食べるなんてと思われていたかもしれません。

 個人によっても意味や価値は異なります。自分にとって価値があるのかないのかで判断するのが人の常です。人間だけが意味や価値を追い求めています。猫にとってダイヤモンドには何の価値もありません、ダイヤモンドよりも猫じゃらしの方に飛びついていきます。ある宗教団体の聖典が3,000万円という価値があるというのは驚きかもしれません。

 ある国のリーダーが他国を侵攻することに意味があるとしています。侵攻する方は人を殺傷することに意味があるすれば、侵攻されている国の人はたまったものではありません。人生の意味や価値は人間が勝手に思い込んでいるだけで、他人にはかえって迷惑なこともあるかもしれません。

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 人間的な知識欲を満たすことと混乱・混迷という苦悩の消滅と相関関係は無いようです。お釈迦様が何を体得したのか知りたい、その体得内容を知ったらかどうなるわけでもありません。体得したのではなく、阻害していたことから解き放たれたら「それ」であったことに気づいただけかもしれません。「何とかしよう」という思いに一々付き合わなければいいだけかもしれません。「何とかしよう」という思いが不安の元凶だなと気づいているだけにして放っておく。不安は不安のままにしておけばいつかは消え去ってしまいます。子供の頃の不安が続いているでしょうか。痛いは痛いだけのことであって、知らぬ間に消え去ってしまいます。諸行無常でありエントリピーは増大します。何もかもが消え去るということは誰もが経験しているのではないでしょうか。消えるということで救われているかもしれません。

 

<何が「それ」> 

・知ろうと思っていることに気づいているのは何でしょう。

・不安だと知っているのは何でしょう。

・意味や価値がなくてはならないと思っていることに気づいているのは何。

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<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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