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正見 [気づき]

「正見」を検索して見ると以下のような見解がありました。(下線部にリンクを貼っています)

 

正見:「見解がない」ことが正見であって、真理なのです。

 (超えるのではなく、誰もが分別以前で生活している「仏」なのですが・・・)

正見:正しく見るとは、正しくものを見ることが難しいと知ること、そして自らの見方を常に改めていくことのできる姿勢を保とうとすることでもあります。

 

正見:「正」とは「正しい」ということです。それはこの世の秩序を守るために 拵(こしら)えられた既成の価値のことではなく、今・ここで起きていることに、利害や打算を抜きにして、「ありのまま」に接するということです。

 

正見:私たちが求めている「正しさ」とは、結局、「大宇宙を創っている根本仏の理法に沿った心のあり方」のことを言っているのです。この正しさのなかには、宗教でなければ近づくことのできない、アプローチすることのできない、信仰心というものが、当然ながら含まれています。

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次に漢字の成り立ちを「漢字/漢和/語源辞典」で調べてみました。

 

漢字/漢和/語源辞典

 

:会意文字です(囗+止)。「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、国にまっすぐ進撃する意味します(「征」の原字)。それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ただしい・まっすぐ」を意味する「正」という漢字が成り立ちました。

 

:会意兼形声文字です(彳+正)。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、「まっすぐ進撃する」を意味する「征」という漢字が成り立ちました。

 

:会意文字です(目+儿)。「人の目・人」の象形から成り立っています。「大きな目の人」を意味する文字から、「見」という漢字が
成り立ちました。ものをはっきり「見る」という意味を持ちます。

 

:会意兼形声文字です(+)。「羊の首」の象形と「ぎざぎざの刃のあるノコギリ」の象形から、羊をいけにえとして刃物で殺す事を意味し、そこから、厳粛な(真剣な)「作法」・「ふるまい」を意味する「義」という漢字が成り立ちました。

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イソップ寓話に「粉屋の息子とロバ」というお話があります。

 「正」は各人が「正しい」としていることが「正」ということです。もし、自己の「正しい」が他人から見て「間違い」であれば、その「正しい」は他人から「偏見」とされます。ある国が「正しい」として行う侵攻や戦争は、相手国も「正しい」のでしょうか。人の命を奪い去る戦争も互いに「正しい」ということになってしまっています。「正しい」はプロパガンダによって容易に変化させられます。子供の頃の「正しい」と大人になっての「正しい」は同じではありません。環境活動家が活動しているという事実は、環境に対して「間違い」を正したいということです。問題・葛藤・混乱があるということは、「正しい」と「間違い」が同居していることに他なりません。「万事塞翁が馬」というお話も、その時の悪い事が後から振り返ってみればそうでもなかったということになります。誰もが真に「正しい」として判断して行動しているのなら争いが起こるわけがないのですが・・・・。争いが起こるということは、個々人の勝手な「正しい」で行動しているからかもしれません。

 法律・条例の施行日の前日までお咎めがないのですが、施行日から罰せられることになります。社会問題として表面化される以前は、選挙応援をしてもらってもよかったのに今では「非難」されることになります。アメリカで以前は犯罪であった薬物使用が、少量であれば合法となっています。「正しい」や「間違い」は行ったり来たりコロコロ変化しています。賭け事(=競馬・競艇・カジノ・・)も国に税金を払えば合法ということです。

 

 漢字の語源から「正」を紐解くと、自分で構築した見方・見解が「正」ということかもしれません。何度も記述してきましたが、「正義」の反対は「他の正義」だということです。「正見」の「正」は見解以前の見えたままということではないでしょうか。  

 包丁は善でも悪でもなにのですが、使った結果に後づけされて評価されます。包丁は見えたままの包丁でしかありません。赤ちゃんには何のレッテルも貼られていませんが、成長して社会の一員としての行動した結果が善悪に分けられてしまいます。

 最近「論破」・「マウントをとる」という言葉を見かけます。「正しい」と主張しているのは、自己の見解や正当性です。自分が「正しい」と主張することは、あなたは「間違い」と言っているのと同じことです。

 日本で「正しい」とされていることでも外国では正しくないことはいくらでもあります。文化・慣習・躾等々として当たり前に行っていて身についているだけのことです。当たり前のこととして苦もなくやっていることが「正しい」となっています。「正しい」からやっているのではなく考えず出来ていることだけかもしれません。合理的・簡便・扱いやすい・道理・・を「正しい」という言葉に置きかえているのではないでしょうか。

 「正しい」と思った瞬間に二項対立としています。「正しい」というのは「間違い」がなければ成り立ちません。「正見」での「正」ということは、二項対立とする以前の状態を「正」ということではないでしょうか。「正見」は分別が起こる以前の”あるがまま”を只見ることかもしれません。

 私達は修行したり教わらなくても、だれもが只見えているし只聞こえています。だれもが「正見」が出来ています。私達は、言葉として思考することで勝手に二項対立になっています。

 「花」が見えると様々な感覚が起こります。感覚の一つを綺麗だと言葉にすると対の概念である汚いが潜んでいます。「綺麗・汚い」という一つのコインの表裏を行ったり来たりしているだけのことかもしれません。「綺麗」な花が枯れてしまえば・・・。

 

・正しく見ようとすることは「正見」ではありません。「正しく」というのは、対極の「間違い」と表裏一体です。宗教はその宗教の「正しさ」を守り通すことに固執しています。他の宗教の「正しさ」を容認することはありません。

・この宇宙での出来事に「正しい」創造・維持・破壊があり、「間違った」創造・維持・破壊があるでしょうか。宇宙に何らかの意図があり、「正しい」と「間違い」を区別して生起しているなんて人間だけができるすばらしい想像力です。起こっていることに後づけしているだけです。使命・意味・価値も後づけであって、混沌とした宇宙の出来事の一つ一つに使命・意味・価値は・・・・。

 陽だまり・川のせせらぎ・蝶の羽ばたき・鳥の鳴き声・桜の開花・舞い落ちる雪・霜柱・ダイヤモンドダスト・鳥の羽ばたき・・・言葉を後から割り振っただけで、意味なく起こっているだけなのですが・・。どうしても意味や価値を見出したいのが人間の衝動かもしれません。 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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