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非風非旗 [公案]

 二人の僧が、風になびいている旗を見て議論しています。事実は見えたままの一つですが、「旗が動いている」「風が吹いている」と意見が割れてしまいます。そこに慧能大師が「心が動いている」と指摘したというお話です。

 何の問題も無い見えたままなのに、二項対立によって分けてしまい混乱・苦悩を自らが作り出しています。私達の頭の中で勝手に行われている問答を指摘しています。

 痛い・痒い・苦い・老いている・病気である・・・という二分する必要のない事実そのものでしかありません。痛いを考えても痛いはどこかへ飛んでいくことなどありません。歯が痛くてしょうがなければ、歯科医院に行って治療してもらう他ありません。痛いを考えて、考えで”何とかしようと”と考え続けるても考えを巡らせて続けているだけのことです。

 旗が動かなくなったら、「旗が止めた」「風が止んだ」と議論するのでしょうか。自分ではない他の力によってこの状態になったと言って他人や他の存在に責任転嫁するのでしょうか。

 

 見られるモノ(=客体)と見る者(=主体)として分けてしまう癖があります。認識されるモノと認識する者の二つに分けてしまうと混乱・葛藤・苦悩が生じることになります。起こった事実があったということが永遠に続いています。事実に対して、比較・評価・意味づけ・価値づけ・・・を行うと良いとか悪いとかの二項対立となり混乱・迷いとなります。

 私達は、見られるモノは自分以外の存在であると学習されて思い込まされています。多分、赤ん坊のときは自分(=我)という観念がないので、自分以外というモノが存在していなかったかもしれません。見えたまま・聞こえたままだけの事実で生きていた。自分(=我)が生成されると、見ている自分(=我)と見られるモノという二元対立としての見方によって見るようになってしまっています。普段の生活で見ている自分が、どこかにいるでしょうか。私が見ているというのは、後づけであって私に関係なく見えているだけです。私がセピア色で見ようとしてもセピア色で見ることなどできません。見ること以前に私を働かせて私が関与することなどできません。そこに私などどこにもいないということになります。

 「バーヒヤ経」を参照してみてください。

 

 赤ちゃんの頃は、見ている何者(=自分・我)として見ているのではなく、見ているという意識もありません。見たまま・聞こえたまま・・・・そのままがあるだけ。

 成長するに従い、見られるモノという存在と見る者という自分という分離が起こります。考えている時だけ自分(=我)がいることになります。見たとか聞こえた何かを振り返って評価すると、見た自分・聞こえた自分がいなければなりません。ただスポーツやTVを見て聞いているときには、自分(=我)などどこにもいません。評価・意味づけしなければ、見えているまま・聞こえているままです。普段は、本来の自己(=意識)が働くままです。対象(=客体)を評価するときに、どうしても自分(=我)を使わなければなりません。あるがままに起こっているだけなのに、こちら側に自分(=我)がありあちら側に対象がある。その対象を議論の対象としていじくり回して遊んでいるということです。

 

 考える対象がある限り、混乱・悩みが静まることはありません。

無門慧開和尚は、「風動くに非ず、幡動くに非ず」更に「是れ心動くに非ず」と言っています。「心」を対象として探したら悩みの種をまいていることになります。何でもかんでも思考の対象とするこぎりは混乱・悩みは尽きません。見えたまま・聞こえたまま・考えたままです。評価して、自分の評価を正当化して自分(=我)の思い通りにしようとするから苦しむことになるのではないでしょうか。評価・意味づけ・価値づけの癖があります。

 真理はどこかにあって、掴んだり得たりすることができるのでしょうか。修行した誰かや聖なる書を読んだ人が真理をが掴んだり得たりするのでしょうか。いつでもどこでも真理そのものです。いつでもどこでも真理でなかったら、宇宙のどこに真理と不真理が存在しているのでしょうか。

 迷っている・苦しんでいる自己を認めると、迷っていない・苦しんでいない自分を見出さなければならなくなります。迷ったなら迷ったまま・苦しいなら苦しいままである。諸行無常ですから同じ状況がいつまでも続くことはありません。泣き続けることもできなければ笑い続けることもできません。分離を作れない赤ちゃんは迷うことはできません。分からない自分を仕立てるので、分かる自分を求めてしまいます。歌が上手くなろうと思わなければ、歌についての悩みは生じません。老いを受け入れて若くなろうとしなければ、老いの悩みはありません。悩みは二項対立を持ち込んでいる自作自演かもしれません。負けた自分が許せないと、自分を負かした相手か自分の不甲斐なさを責めることになります。過ぎ去った負けを受け入れて次に進むしかありません。

 

 公案には必ず二項対立があり、その二項対立を解こうとします。二項対立を持ち込むと混乱・葛藤が生じることに気づきます。二項対立を解決するには二項対立にしないことだと気づかなければなりません。出来もしないことに頭を悩ませていた愚かさに気づかされます。「隻手の音声」片手の音を頭で考えて、頭で作り出すことも見出すこともできません。

 問題としなければ問題とならないことに気づきます。「倶胝竪指」という公案があります。何を問われても、問うた人に指を見せたそうです。指に意味や価値や評価はありません。見えたままそのままでしかありません。見えている指には何の問題はないということになります。何の問題もなければ自己(=本来の自己)のままでいることに気づきます。いついかなるときも本来の自己から離れることはできません。あえて自分(=我)を立てて悩み、自分(=我)で解決しようとしている自作自演劇を演じているのではないでしょうか。

 「香厳撃竹大悟」竹に石がぶつかった音には何の意味もありません。悟っていない自分を立てて修行していたから、問題にならない音がただの音のまま聞こえました。疑団が大きければ大きな気づきがあったということでしょうか。私が悟ったと言っている私が偽物です。本来の自己(=意識)で無い人はいません。迷っている自分だと分かっているのが本来の自己(=意識)であり、迷っている自分は迷っているという思いそのものです。苦しんでいる自分は苦しんでいるという思いそのものです。落ち込んでいる・苦しんでいる・悲しんでいる・・・・その感情に気づいているその気づきが本来の自己。

 

 修行をしたり聖なる書物を読むことで、気づいている意識を得たり掴んだり目覚めさせたりするのでしょうか。意識はいつ生まれたかわからないので不生です。消えたこと確かめられないので不滅です。見つけたいモノを見つけようとしていることに気づいてる「それ」が「それ」です。探している者が探される者です。見ている者こそが見られる(=探される)者だということです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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