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誰もが既に「それ」 [気づき]

 猿は人間にはなれません。犬は人間にはなれません。タコは人間にはなれません。猿が猿を逸脱・超越した猿以外の何かになれません。猿は猿にはなれません。犬は犬にはなれません。タコはタコにはなれません。猿から遺伝子を受け継いで猿として生まれたのに他の何かになったら猿としての存在は絶えています。遺伝子の交配によって徐々に変異があるということは周知のことです。

 釈迦はヒトから生まれヒトとしての生命体を全うしました。”仏”という概念になったわけではありません。肉体はあとかたもなく消え去り、この世に存在していません。

 苦行したり坐り続けたり思考したり・・・ヒトを超越した何かになったら大変なことです。単に「我」による妄想が妄想でしかなかったということを見抜いただけのことかもしれません。思考することで”何かできる”という呪縛から解放され自由になり赤子のようにありのままの世界で生きれるようになったということでしょうか。

 

<殺仏殺祖>

 逢仏殺仏。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脱。(臨済録)

 

 仏に逢うては仏を殺せ。・・親族に逢うては親族を殺せ。何とも過激な言葉が使われています。言葉通り真に受ける人はいないと思います。仏・祖・羅漢・父母・親眷は人間が作り出した概念であって、逢うということは誰かをその概念で見てしまうということかもしれません。この錯覚・妄想を消し去りなさい。いつまでも概念の世界(=有為の奥山)に留まっていては無為で生きていくことはできないということでしょうか。

 何か(=苦行・思考・・・)で何かに到達するという思い込み(=観念)に囚われては行けない。何者かになるわけではなく、しつこい脳の癖(=我を張る)から抜け出すことがいかに難しいかということです。言葉で迷ったことを、言葉で目覚めさせるには過激な言葉を使うのが一番です。脳の癖(=眠りこけている)から目覚めるには概念を取り去ることです。

 

 私達は概念(=言葉による定義)と観念(=決めつけ・思い込み)を使って、勝手に一人芝居をしています。自らが問題を作って自らが悩み苦しんでいるということでしょうか。父母や親戚を選んで生まれてきたわけではありません。偶然に誰かの精子と卵子が受精しこの世に生命体として出現しただけです。”生命”そのものが生命体と通して躍動しています。生命が生命体を通して生命として生命を味わっている。

 人間社会に生まれてしまったのですから、既に作られている社会という場で生きていかなければなりません。人間が作り出した社会でのルールを教わらなければなりません。生命体を持続するために”自我”という自己保身のために作られた表象を使って生きているということです。

 

 他人の世界を知ることも立ち入ることもできません。過去は記憶の中にあるだけです。自他を区別するのは自己(=自我)という分別があります。都合の良い(=保身の為)ように言っているやつ(=自我)が問題を起こしています。この自分(=自意識)を見抜けばいいだけなのですが・・・。”たった今これ”しかないというのが終着であり出発点。思いに使われなくなり、思いを使えるようになったほうがいいということです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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