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得ることではないらしい [気づき]

 人類史上、様々な人が出現してきました。例えば、物理法則の発見者・探検家・科学者・物理学者・数学者・発明家・医学者・政治家・英雄・侵略者・小説家・詩人・作曲家・芸術家・アスリート・富豪・武将・映画監督・俳優・武術家・格闘家・宗教家・・・。学校で教わったり、眼で見てたり耳で聞いたり実験で体験したりできるものもあります。彼等が何を成し遂げたかを知っています。彼等が描いた絵・楽譜・剣術・公式・論文・映画・解剖図・地図・詩・・・彼等の業績を真似ようと努力することも、到底及ばないと諦めることもできます。例えば、自身の音楽的な能力を直視してみると、楽譜が読めない・音痴・楽器の演奏も出来ない・・・そうであれば作曲家になろうとはしません。運動音痴であれば、オリンピック選手を目指すことを諦めます。平気で嘘をつけないなら詐欺師にはなれません。一つの研究に何十年も没頭できなければ研究者にはなれません。

 ノウハウを教わったり・技能を修得したり・知識を憶えたり・修行したり・先人の技術を受け継いだり・国家資格を得たり・国家試験で免許を取得したり・記録を達成したり・・・・身体を使った努力や頭を使った思考や記憶によって何をすべきか、何かを掴んだりが分かっていれば専門学校に入学してある程度の素養を得ることができる可能性があります。

 芸術作品を模倣したとしても、作者の創造過程や感性・境遇・情熱・・をそのまま同じであることはできません。また、同じであれば個性が失われ独自の作品を否定することになります。

・ 彼を知り己を知れば百戦殆からず

・絵心がなければ画家には向いていません

・運動音痴であればアスリートには向いていません

・人には向き不向きがあり、何でもかんでもチャレンジすることはしないようです

 

 禅では、知識ではなく「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」であって教義を学んで得たり掴んだりすることではないと言っています。坐禅(=思考の癖から脱する)によって”何もしない”ことによって、”私”の不在を確証します。私達は時空間を使って思考します。思考は時間(=過去・現在・未来)と空間を前提にどんどん展開します。時間は概念であってモノを扱うように時間を得たり捨てたり出現させたり消したり交換したり掴んだりすることはできません。時間は存在していると思いこんでいるだけで”たった今”が生滅していて繋がってはいません。

 1分前はどこにも存在していないし、1分後もどこにも存在していません。1分後も”たった今”という瞬間があるだけで消滅してしまいます。

 空間もモノのように得たり作ったり出現させたり消滅したり交換したりすることはできません。我々の中心は何処にも動いてはいません。自身の身体が在るところが”ここ”であって、”ここ”は動くことはありません。今居る場所が”ここ”であって、”ここ”が中心であって周りの空間を認識できます。ある空間に”ここ”がやってくるわけではありません。朝起きてから”ここ”が自身にくっついて移動し、会社の自分の席に”ここ”が移動してくるのでしょうか。家にあった”ここ”が、会社に到達する前から”ここ”が会社に存在していているのでしょうか。決められている”ここ”に私が座ればいいのか、座った席が”ここ”となるのかどちらでしょうか。”ここが私の席”と言えば良いのか”私の席はここ”だと言えば良いのかどちらでしょうか。身体の在るところが”ここ”であって、決められた場所であっても身体がなければ”ここ”は存在していません。極端に言えば、”たった今”感受できていることだけが実在であり、それ以外はあるであろいうという思い込みで作られた世界ということかもしれません。

 有名人の”訃報”を聞いて、死亡した後に知ることができます。知るまでは”生きている”と思い込んでいたということになります。事実と思い込みは異なっているということです。我々のイメージにあるブラジルの熱帯雨林はただのイメージの思い込みです。実際の姿と思い込みとは異なっています。時間も空間もただの思い込みと言っては過言でしょうか。

 感受して自身の内に展開されているのが世界だということになります。思い込みはただの思い込みであって思い込みの世界であり現実の世界ではありません。

 過去も未来も無く”たった今”だけが永遠に生滅している。”ここ”という空間だけがあり、それ以外は思い込みの空間かもしれません。時間も空間も生まれていないので無くなることはありません。(不生不滅)熟睡している時には時間や空間は存在しているでしょうか。

 

 お釈迦様や覚者が何かを掴んだり得たりしたのなら大変なことです。そうであれば、我々にこれこれを掴みなさい得なさいという教えてくれなければなりません。どうもそうではなく、普段の生活は”一切皆苦”であり、迷いの中でいきています。十二縁起を観察することで、実体がない無常であることを見抜き脱しなさいということ。

 お釈迦様は何かを知識として掴んだり得たりしたのではない。もし掴んだり得たりした何かが記憶されたことで心境が持続されるのであれば、他の覚者もお釈迦様の掴んだものや得たものと完全に一致していなければ偽りの覚者ということになります。

 お釈迦様の掴んだり得たものがどいうものか分かる人がいるでしょうか。もし、掴んだり得たりしたものがあるのなら、お釈迦様と一致していると証明できなければ嘘っぱちということになります。数学の問題を解いて答えが一致するようなことでなければ、掴んだり得たものが正解かどうかどのようにして判定するのでしょうか。

 「拈華微笑」という言葉があるように、師は弟子の力量がどの程度なのか知ることができますが、弟子は自身の力量がどの程度なのか知るすべはありません。山の頂上の景色は登った人しか見ることはできません。

 掴んだり得たりしたモノ(=知識・心境・・)がどういうものかを分からずにチャレンジするということは、向こう見ずのお人好しということになります。苦行をしたり経典を読んだりして試行錯誤を重ねたとしても、何を掴んだのか何を得ることができるのでしょうか。その掴んだモノや得たものが正解でありお釈迦様の得たものと完全に一致するわけはありません。

 作曲方法を教わったとして、聴いたこともないショパンの曲と完全に一致した曲を作曲できるでしょうか。絵画の勉強をして、見たこともないピカソの絵と完全に一致した絵を描くことができるでしょうか。

 誰かが掴んだり得たりしてモノと同じということは不可能です。あまりに変数(=文化・言語・年齢・経験・性格・・・)が多すぎ、全く異なる変数から算出して答えが一致するということは無理だということのようです。

 

 ヒトとしての身体構造と感受する機能や働きは同じです。お釈迦様であろうが我々であろうが同じような身体なら、”痛み”・”快感”・”臭い”・・五感で感受することに違いはありません。ただ感受したものにどう反応するかが問題です。老・病・死を克服して老いなかったわけでもないし、病気をしなかったわけでもなく、死ななかったわけでもありません。肉体的・物理的な苦を解消できたわけではありません。誰でもが平等に”痛い”し、誰もが”老い”ます。苦を大袈裟に問題にする”私”というものがどこにもいないということを見抜いたということでしょうか。

 分別以前はお釈迦様であろうが我々であろうが異なることはありません。ただ見えているただ聞こえているただ草取りをしているただ食べているただ歩いている・・・・。お釈迦様でも我々でも異なることはありません。

 ”当たり前”のことに対して”自分かわいい”を持ち出して、”思いの通りになんとかしたい”と悩み”問題”としているのが覚者でしょうか。

 

 私達は、解決すべき問題があるという前提で思考する”癖”がついています。自身に問うてみます人は考えていない時に悩むことができるだろうか。」

 考えるということは、考える事(=なんとかしようと)が起こった後に考えます。また、起こってもいないことも考えます。つまり、”たった今”のことは考えられません。”たった今”は問題にならないということです。私達は”たった今”にしか生きていないので、問題はないということになります。過去や未来を持ち出すと問題になります。考えることで問題を作っていると気づきます。”たった今”を見逃して(=過去や未来にかまけている)生きているかもしれません。

 どうでもいいことや、どうすることもできないことを患い、ついつい脳の”癖”によって考えてしまい”問題”となります。この考え続けることでいつまでも”問題”が重くのしかかったままでいることに気づいてもいいかもしれません。極端な例ですが、科学者でもない一般人が”火星移住”について悩む必要はありません。バッタの被害で困っている所に行けもしないのに悩む必要があるでしょうか。自分では解決できないことに頭を悩ます必要があるでしょうか。

 平安でいたいのなら、わき起こる”おしゃべり”につきあわない訓練をする必要があります。思考に囚われずに”ボッー”とする時間も必要かもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 


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