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老子ー48 [老子]

爲學日益、爲道日損。損之又損、以至於無爲。無爲而無不爲。取天下常以無事。及其有事、不足以取天下。

 

益:増加


学問に精を出せば、日毎に知識・有為(=計らい)が増していく。
道に精を出せば、日毎に知識・有為(=計らい)が減少していく。
知識・有為(=計らい)に頼ることを減らしていくことで無為に至る。
無為となれば、自然に為される。
天下(=国)を治めるには、常に無事(=戦争がないように)であるようにする。有事(=戦争)で天下(=国)を治めようとしても、うまくいくわけではない。

 

<他の翻訳例>

学問をするときには、日ごとに(学んだことが)増してゆく。「道」をおこなうときには、日ごとに(することを)減らしてゆく。減らしたうえにまた減らしていって、最後に何もしないことにゆきつく。この何もしないことによってこそ、すべてのことがなされるのだ。天下を勝ち取るものには、いつでも(よけいな)手出しをしないことによって取るのである。よけいな手出しをするようでは、天下を勝ち取る資格はない。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 科学技術の進歩によって作為的な人工物の中で生きていくことを強いられています。ビルが乱立する都会で自然とともに生きていると感じることには無理があります。自然との接点は”空気・空・日差し”だけかもしれません。黄砂に覆われた北京の映像を見る限りでは、”空気・空・日差し”でさえ遮られています。作為的なモノで満ち溢れている世界(=人工物)から無作為な世界(=自然のまま)へ回帰したいと思うのは当然のことかもしれません。人工的な癒やしはバーチャルであって真の癒やしではないと感じます。

 

 作為的な世界(=有為の奥山)で立ち回るには、学(=知識)を修めなければなりません。教養を身につけ作為的な世界(=人間社会)で人格形成し、作為的な世界(=人間社会)で生きていかなければなりません。この世に先に生まれた先輩達が様々なルールを作り上げてきました。文化・法律・しきたり・生活様式・・・・。先輩たちもルールに従い、次代の子どもたちにもルールに従わせるようにしています。何故ならルールを変えることは大変なことであり、ルールに従って生きていくほうが容易だからです。好き勝手に生きたくても暗黙のルールによって強制されています。特に農耕民族である日本人の村意識のもとではルールが絶対となっているようです。

 作為的な世界では作為的に生きることが身の安全です。作為的な世界にあっても作為的であることを見抜くことができればいいのですが・・・。作為的ということは分別こそが自分であると思いこんでいることです。学んで得たことは上辺だけの知識でしかありません。分別以前のあるがままを感受している我々の自性は清浄だということです。”六根清浄”という言葉がありますが、分別した後の意が作為であるのにもかかわらず支持しています。分別以前の”意”は清浄だということを見抜けば、六根は汚れてはいません。(自性清浄心)

 

 学ぶということは作為的な人間社会に迎合しなけれなりません。知らない・分からない・出来ない・その状態でない・・・ということが学ぶ対象としているということでしょうか。学問がどんどん増えているということは、どんどん無知になっているのでしょうか。学ぶべきことが減るどころか増え続けているということは、混迷し続けているということでしょうか。日々人工物を作り続け不要になれば捨てなければなりません。必然的に空気中や海洋への投棄となります。過去に描いていた理想的な未来の姿が現在の姿でしょうか。

 

 学ぶ対象は学ばなければ現実にならないという認識があるからです。学ばなければならないということは、学ぶ対象を何にも分かちゃいなということです。最初に泳ぎを学ぶということは、まったく泳げないということを知っているということです。(無知の知)

 人より頭一つ抜きん出るためだけに多くの時間を費やしてはいないでしょうか。作為的な人間社会で、チッポケな望みを叶えるために生きているのでしょうか。羨望されたい権威を持ちたいというだけで、それに見合う以上の犠牲(=精神的・肉体的)を払っているかもしれません。犬・猫や他の動物からしたらどうでも良いことなのですが、必死に作為的な世界の中で頑張っている姿が痛々しいかもしれません。名刺に書き込めるアイデンティティも期限付き(=定年まで)の単なる文字だったと気づいても後の祭り。結局は我欲に振り回されていたとはたと気づく。介護施設での日々がなんとも重苦しい。

 

 自然のままに無為としてあるにはただ坐る(=只管打坐)しかないのでしょうか。普段の生活で作為的な思考を追わずに放っておけば霧散して消え去ります。作為を教え込まれ作為に慣れている”癖”をとらなければなりません。作為的に生きることで疲れてしまいます。幸せホルモンのセロトニンやエンドルフィン・オキシトシンが分泌さることで幸せを享受できます。思考することで幸せホルモンが分泌されるどころか、かえって”うつ”へと向かっているかもしれません。学ぶことより深く静かな腹式呼吸と、散歩や朝の日を浴びることのほうが効果的です。

 

 学んで幸せになるということは、ある条件を満たすことかもしれません。その条件が欠落した時に幸せは逃げていくとしたら条件付きの幸せということになります。科学では実証性・再現性・客観性という条件によって成立しますが、幸せは主観です。思いや思考によって導出された概念による心境が幸せの条件ではなく、身体的な幸福感の実感そのものが幸せかもしれません。学びと身体的な実感には大きなズレがあるようです。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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