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生命体と生命 [気づき]

人は誰でも「自分かわいい」が最優先であり、安心・安全・平安・自由でいたい・幸せ・望み通りに実現させたい・快適・特別でありたい・知っていたい・・・・。思いのまま(=悩むことなく)に自由気ままに生きていきたい。このように思うということは、実生活に制限があり束縛があるということを実感しているからに他ありません。満たされない自身を不憫に思い悲惨な現実から”なんとか”救い出してあげたい。この世で生きるということは”苦”であるという前提で生きているのでしょうか。

 完璧な財力・権力・知力・才能・健康・・を持ってこそ幸せが実現できると思っていたら大変なんことです。実現することはほぼ不可能なことです。

 

 他人と比較しても意味はありません。この生命体は宇宙開闢以来、この身(=生命体)を通して見聞覚知している生命そのものです。

 あらゆる生命体を通して生命が躍動しいます。単なる一個の生命体ではなく生命という全体として観察しているという視点を持つのもいいかもしれません。”私”という生命体という殻を破り、万物斉同であって”私”も”あなた”も”それ・これ”もありません。

 

 認識される対象(=客体)によって”私(=主体)”という感覚があるとします。もし、対象が認識されなければ(=熟睡時・死)”私(=主体)”は無いということになります。意識がないときに”お名前は?”と聞かれても”私”が出てくることはありません。知覚できなければ”私”という思いないということになります。誰もが”私”というものが無くても何も困らずにいきています。対象を認識したとき・ふと振り返った時・”何とかしよう”と思った時・・・”私”という表象を自然に使って処理しているだけのことかもしれません。無理やり”私”を出現させては困った困ったと騒いでいます。自縄自縛の一人芝居をやっているかもしれません。

 対象(=客体)によって”私がある”としているので、対象=”私がある”ということになります。対象によって”私”が形成されるということは、対象がそのまま”私”であると言ってもいいかもしれません。ただ見えている、ただ聞こえている、ただ動いている・・・・。ただ◯◯にはどこにも”私”はいません。

 

 外の存在が世界でしょうか、それとも各生命体で展開されているのが世界でしょうか。鳥が感受している世界ではミミズが好物ですが、我々が展開している世界でもミミズが普通に食べるものでしょうか。ネズミを生で食べたいでしょうか?・・・・まったく異なる世界が展開されています。

 生命体の”鏡(=脳内スクリーン)”に映し出されるモノはそのまま自身の映像です。生命体の外にある映像ではありません。対象であるときめつけていたモノは”私”を”私”たらしめているモノであり、”私”から分離させて取り外すことのできない映像です。外にある存在と思い込んでいるだけで、実際には自身から取り外すことの出来ない一体の映像として分離することの出来ないモノです。

 生命体は動いているように見えますが生命は全体であるとすれば、全体が時間や距離を移動できるでしょうか。

 <実験>

 どちらの手でもかまいませんが、人差し指を立ててみぞおちあたりにくっつけます。指先を見て移動してみると、自分が動いているのではなく周りが自分の方に向かってくるように見えます。自分は移動せずに周りが動いているように見えます。自撮りのカメラで移動すると、自分は動かずに周りの風景だけが変化するのと同じです。

 

 この五感を備えた生命体は見る者であり、”鏡(=脳内スクリーン)”に映し出されている映像は生命によって見られています。生命体と認識するのか、生命体を通して働いている生命(=エネルギー)そのものが我々の本質なのでしょうか。様々な姿・形を持った生命体がありますが、どの生命体であっても生命体を動かしている生命が宿っているということに気づいてみるのもいいかもしれません。生命が生命を互いに見ています。見る者と見られるモノは切り離されておらず一体ということでしょうか。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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