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無垢な赤子 [気づき]

 無垢な赤子から幼児・子供・年少者・青年・中年・壮年・高齢者へとどのような変化があるのでしょうか。目覚めたと言われる人と我々凡人とどこがどのように違うのでしょうか。

 赤子の時は自身の心身がどうなっているかよく分かっておらず、目の前に突然誰かの顔が現れたり、様々な音が勝手に聞こえてきたり空腹になると大きな声が勝手に出て飲み物が口から注がれる。声が出たり伸びたり縮んだり勝手に排出したりと大騒ぎのまま日々が過ぎていきます。

 幼児に成長していくと、自身に名前がついていていつも近くに自分を世話してくれる大きな身体の”親”と言われている人がいる。自分には識別名(=名前)がある。他(=大人)が存在し自身は小さな(=幼児)身体であると認識します。

 物は所有されていて、誰かの物だとか昨日とか明日という時間の概念が芽生えてきます。親に褒められたり叱られたりすることで良いことと悪いことがあると気づくようになります。

 長くなるので省略しますが、服装・髪型・遊び等の違いを察知して男女という違いを自ら認識するようになります。遠くに連れて行ってもらうことで様々な体験や景色(海・山・温泉・遊園地・スキー場)を見ることができます。世界は広いということに気づきます。

 学校に入ると”成績”というものによって優劣がつけられると感じさせられます。遠くの見知らぬ人と出会うことで、自身は◯◯市の住民であったり、◯◯県の人であると認識するようになります。異なった言語・文化・歴史・宗教・髪の色・目の色の違いを間近に見ることで自身が日本人であることを認識します。

 自らを主体として様々な対象(=客体)を見ることによって、自らがどんな人間であると勝手に決めつけてしまいます。

 

 人間社会で社会人として様々なことを覚えさせられ、自身が何者かということが自然と認識されるようになります。それはあくまでも人間社会の自身が何者かであって、カラス・犬・猫・・からすれば日本人でも◯◯県に住んでいる人でもなく性別も関係ありません。動物にとっては人間がどんな仕事をしているかを知る意味もありません。人間は社会で自己の立ち位置を確立するために、自らをアイデンティティによって定義します。人間社会で”私は誰か”を自問自答すれば自らのアイデンティティこそが自分自身であり、判断基準(=固定観念)こそ自分であるとしているのでしょうか。”私”だと思っているのは勝手に自身で定義している単なる思い込みに過ぎません。

 

 人間の身体的な働きでは、彼等(釈迦・達磨・道元・親鸞・・)と我々はが異なるということはありません。痛い・痒い・苦しい・悲しい・うれしい・楽しい・驚き・気づき・・・五感での感受・身体的反応が異なるということはありえません。

 赤子の時の彼等(釈迦・達磨・道元・親鸞・・)と我々が赤子であった時と異なっているはずがありません。異なっているとしたら人間ではなかったことになります。物心がつくようになり、彼等(釈迦・達磨・道元・親鸞・)が成長して獲得した経験・知見・知識・・・・・によって作り上げられた何か(=心境)が全く一致するということがあるでしょうか。

 例えば、ほとんど同じ材質のレゴブロックを説明書通りに組み立てればそっくりな完成品ができます。料理で例えるなら、似たような食材と調理器具でレシピ通りに作れば似たような料理ができあがります。体格・性別・運動神経が多少異なっていても練習すれば似たような動作ができるようになります。スポーツにおいては身体的な個人差がある場合は大きな差異があることは否定できません。オリンピアンと普通の我々とは雲泥の差があります。

 

 精神面の話になりますが、異なる国・文化・教育・社会体制・言語で同じように成長しても同じような考え方を持つわけではありません。成長段階で思考してきた積み重ねによって、ある境地がまったく一致することなどありえません。例えば、ある液体(生まれた時代・国・環境がことなる人)に様々な物質(経験・知見・知識・・)を混ぜ合わせて、その液体がまったく同質の液体になることがあるでしょうか。

 

 ベースが異なる人が、思い思いに思考することで何かを掴んだり得たりするとします。その掴んだ何かや得た何かがどうやって一致するのでしょうか。知識や思考で何かを掴んだり得たりするかもしれませんが、勝手な自分の妄想で終わることになります。

 見抜くべきことは、様々な物質(経験・知見・知識・・)が混ぜ合わさった液体を通して見えているものがあります。その見えているものは、自身が作り上げた妄想(=偽物)であると気づくことです。”混ざった液体(=固定観念)を通して分別する”という癖がついています。この癖になかなか気づきません。気づかないということは疑うこともありません。この癖から脱しようとすることもありません。癖によって白黒を決めつけて自らを縛っているかもしれません。同じ事象を見ているのに意見が別れてしまいます。固定観念というフィルターを通して分別しています。

 彼等(釈迦・達磨・道元・親鸞・)は、混ぜ合わさった液体(=固定観念)が入っていない空の透明なガラス容器を通して世界を見ることができていたかもしれません。

 

 見えているものに善悪はありません。聞こえた音に善悪はありません。浮かび上がってくる思いに善悪はありませんが、自分の”思い”だとすれば自分(=我)が善悪の責任をとることになります。こんな”思い”の自分ではいけないとして自己否定することになります。

 どんな”思い”が浮かんでくるかなどサッパリ分かりません。脳はイベント駆動であり予測によって様々な”思い”が浮かんできて、脳が最善だとした思いが強くなりその”思い”が自分が下した決断だとあとづけしているだけかもしれません。階段を降りているときに濡れている箇所が見えたら避けて降りるように脳が決断していて、後から自分が避けたとしている。自分が見ているのではなく見えている現象に”私”は存在していません。

 

 自分というものが実在していると思っていますが、ただの概念だということです。思ったときだけ”私”があって、その私をなんとかしようと思うから”私”という思いがいつまでも消えません。実在していない”私”、どこに居座っているのかわからない浮雲・水と同じく変化変容していてとらえどころのない幻想の”私”に振り回されています。

 本来の自己には、性別・年齢・国籍・・・はなくただの観察そのもの。思ったら思ってしまし思ったことはすでに消えています。消えたことを扱ってもどうにもなりません。過去と格闘したり、未知の未来を相手にしていては”たった今”をないがしろにして”たった今”を浪費することになります。何を考えているかを黙ってやり過ごすことを積み重ね、分別以前の赤子のように世界が見えるようになるかもしれません。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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