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老子−45 [老子]

大成若缺、其用不弊。大盈若沖、其用不窮。大直若詘、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。清靜爲天下正。

 

缺:欠ける

弊:すたれる

盈:満ちる

沖:むなしい、うつろ

窮:きわまる、行き詰まる、身動きできない

詘:折れ曲がる、屈服する

功:手柄、はたらき

拙:まずい、つたない

訥:くちべた、口数が少ない、どもる

躁:さわがしい

 

 人として完成した人は、どこか抜けているように見える。その人の働きは尽きることはない。全体と一体となれば何もない空っぽのようだ。その働きが行き詰まることはない。本当に正しいことは屈折しているかのようだ。最高の技はつたないことのようだ。最高の語り手は何も語らない。騒がしく動き回れば寒さをしのげ、静かにしていれば暑さをしのげる。清らかで静か(=無為自然)であればあるがまま(=正しい世界)とともにあることができる。

 

<他の翻訳例>

最も完全なものは何か欠け落ちているようにみえるが、それを用いても破損することはない。最も充満したものは空虚なようにみえるが、それを用いてもいつまでも尽きることはない。最もまっすぐなものは曲がっているようにみえ、最も技量のある人は不器用にみえ、最も雄弁な人は口ごもっているようにみえる。動き回れば寒さに勝てるが、静かにしていれば暑さに勝てる。清らかに静かであるものが、天下の長(かしら)となるのだ。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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<大成若缺、其用不弊>

 完全なままであり続けるには、エントロピーを減少させなければなりません。何もせずに手を加えなければエントロピーは増大し消滅崩壊することになります。現象界で働いている法則ですから例外はありません。壊れたモノが勝手に元通りに戻ることはありません。何もしないで若返ったりシワが無くなって美肌になることないということのようです。

 自分たちの決めごとで規律通りにできることが完成した人間としていれば、規律に縛られた人間ということになります。自然という流動性の中で生きているのですから、自然のままに生きるということが完成されているかもしれません。

 完全・完璧・完成となったということは放物線の頂点に達したことであり、最盛期・絶頂期ということは衰退の始まりです。完璧だということはそれ以上の状態がないので落ちていくばかりということになります。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ。」平家物語

 

 完成とは、これ以上望むことが出来なく並び立つものがないということでしょうか。最高(=これ以上望めない)の経験を望んでばかりいると、日々の何気ないことは大したことではなくなってしまいます。この瞬間も次の瞬間も比べることはできません。あらゆる瞬間は”一期一会”であって望もうが望むまいが体験されます。瞬間は繋がっておらず前後裁断されています。時間が糸のように繋がっていれば糸を遡ってある時間に出会えるのでしょうか。時間は存在しているのではなく”たった今”が生滅して”たった今”だけがあるということでしょうか。

 

 苦々しい・悲しい・辛い・怒りがおさまらない・・・・望まないことが起こったとしてもその時の感情を精一杯味わうのもいいことかもしれません。辛酸を思いっきり味わい尽くす。”飴玉”同様に、その辛酸は消えてなくなるという当たり前の通りに気づくかもしれません。

 味わうことなく避け、一時的にしのいだとしてもまた同じような状況に出くわします。薄っぺらな逃避グセに気づき、辛酸を味わい尽くすことで動じないようになるかもしれません。

 

<大直若詘、大巧若拙>

 真っ直ぐな棒を水の中に入れると曲がって見えます。屈折によって曲がって見えるだけです。誰もが”あるがまま”の実相を見ています。その見えている世界を自身の固定観念で評価分別してしまいます。その結果、異なる世界観で生きてしまいます。思考によって”あるがまま”を変化させることはできないのに、変化できると教えられました。思考は”未来・希望”というものを持ち出して変化させることができるかのように思い込んでいます。思考によれば問題を解決できるという”癖”から脱することは難しいことです。思考しなくてもいいということが問題がないということです。坐禅・ヴィパッサナー瞑想で”思考しない・自分を持ち出さない”ということを実践します。

 

”自我”は”思考しない”でいられません。思考して”なんとかしたい”と頑張り続けます。”何もしない”ということができません。”自我”にとって”自分を持ち出さずに何もしない”ということは負けてしまうということです。どうあがこうが、”たった今”・”あるがまま”を変えることはできないのですが・・・・。一度だけ自身(=社会的な自己)が完全なる敗北(=大死一番)をしてみるのもいいかもしれません。

 

<大辯若訥>

 五十六章にありますが”知者不言 言者不知”(知る者は言わず 言う者は知らず)、禅語で”不立文字”というのもあります。

 私達は言葉にする前に現象・存在を既に認識しています。”言葉”は認識した後であり、現象・存在が先です。寒さを感じて”寒い”と言葉が出てしまいます。”寒い”と言葉として発したところで寒さを感じるのではないのですが、”寒い”とつぶやいて”寒さ”を感じてしまいます。どうしても感覚よりも言葉が主である癖がついてしまっています。

 私達は先にある現象・感覚を音・形(言語)という後づけの表象にしているだけです。言葉で本質を探求する学問がありますが、本質そのものではない言語で本質を捉えられるでしょうか。”水”という文字で”水”の本質を体得できたり喉を潤すことはできません。言語で現実が出現したら大変なことです。”飛べ”と言っても飛べはしません。子供がマントをつけて飛んだ気になっているようなものです。

 言語なしに見えたり聞こえていることが真実であり、言語に変換されたものはダイレクトの直知ではありません。言語で表現されるものは、社会的な同意によって名付けられたものです。言語化するということは一律に扱える便利な代用品かもしれません。感覚は”冷暖自知”であって、言語で教えられたり言語で感じるようなものではありません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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