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老子−43 [老子]

天下之至柔、馳騁天下之至堅。無有入無間、吾是以知無爲之有益。不言之教、無爲之益、天下希及之。

 

至柔:最も柔軟なもの

至堅:最も堅いもの

馳騁:思い通りに支配すること、自由に展開すること。自由に動き回る。

無有:形の無いもの


 この世で最も柔らかな物が最も堅い物の中を自由自在に動き回るとか思い通りにコントロールできる。形のないものは隙間の無いようなところにも入ることができる。私は無為が有益であることを知っている。言葉のない教えと、無為である行いの有益さに並び立つものはこの世に無い。

 

<他の翻訳例>

あらゆる物のなかで最もしなやかなもの(水)が、あらゆる物のなかで最も堅いものを(無視して)突進する。実体がないから、それは何のすきまもないところにはいりこむ。そのことから私は知る、行動のない行動に価値があると。だが、ことばのない教え、行動のない行動に価値があることに比べられるものは、天下にまれである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 空気(=風)や水によって岩や山も削り取られたり粉々にされてしまいます。エントロピー増大によってどんなに強固に結ぶついた分子構造であってもことごとく無秩序へとなります。法則ですから贖うことはできません。あらゆるモノは放っておけば分離分解されて消滅していきます。

 機械・ロボット(ハードウェア)にソフトウェアが組み込まれエネルギー(=力=電力・空圧・油圧)によって動くことができます。ソフトウェアもエネルギー(=力)も目に見える実体として存在しているわけではありません。私達の身体(=物体)も意識とエネルギーによって営まれています。

 よく知られた”我思う故に我あり”という言葉があります。”我思う”から”我”があるとしています。”思わない”時は”私”はどこにもいません。入浴中に寛いでいるときには”私”はどこにもいません。無我夢中であれば”私”が入り込むすきはありません。”私”は振り返ったとき(=思った時)にだけ”私”が出てくる癖があります

 

 「達磨安心」という話があります。弟子の慧可(えか)が「私の心は不安で仕方ありません。安心させて下さい。」と問いかけると、達磨は「その不安で仕方ない心を私の前に出しなさい、安心させてあげるから」との答えました。 不安な心とは、実態の無いもので、移り変わり定まったものではありません。捉えたり掴んだりできない幻想(=心)をどうすることもできません。何かを動かす力をエネルギーという言葉で表しただけで、エネルギーそのものを見ることはできません。エネルギーが働いた結果を目にすることができます。心そのものを見ることはできませんが、心が働いた結果を感じることができます。

 

 ”私”が身体そのものだったら大変なことです。子供の頃の身体(=私)はもうどこにも存在していません。子供の時の”私(=身体)”は今(=大人)の”私(=身体)”にどのタイミングで入れ替わったのでしょうか。”私”(=身体=体重)は増えたり減ったりしているということでしょうか。身体も心も”私”であると教え込まれたもので、社会で普通に使われているただの観念(=思い込み)かもしれません。実体としての”私”はどこを探しても”これだ”と確定できません。ただの便利な表象だということではないでしょうか。

 何人かの人に”私”を指さして下さいと言うと、誰もが様々なところを指さします。その指も”私”ではなないのでしょうか。”私”が”私”を掴んだり指さしたり知ったりすることはできません。できるとしたら対象(=客体)とされたモノですから、掴んだり知られたものは客体であり主体そのものではありません。目(=主体)がその目(=主体)を見ることはできません。歯がその歯を噛むことはできません。刃がその刃を斬ることはできません。指がその指に触れることはできません。髪がその髪に触れることはできません。

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<いろは歌>涅槃経 雪山偈

色は匂へど 散りぬるを:諸行無常
我が世誰そ 常ならむ:是生滅法
有為の奥山 今日越えて:生滅滅己 
浅き夢見じ 酔ひもせず:寂滅為楽
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 存在から光・音・匂い・味・圧力などの情報が五感で感受されてから、何らかの感覚・反応があって様々な思いが沸き起こります。その中で印象が強い”思い”が選択されます。この思いに気づくと、後づけで”私”が思っているというふうに解釈されます。思いに気づいている”私”がいるということになります。選択された”思い”ですから”なんとかしよう”が働き、自動的に分別(=有為)することになります。

 無為とは”なんとかしよう”を追いかけずに放っておきます。何故なら気づいたときには気づいたことは消え去っています。また、身体的な気づきはすでに終わっています。寒いということは既に感覚として感受された後から”思い”が”寒い”という言葉が頭に浮かんだということです。

 思いや言葉は後づけであって、現象があって感覚があって最後にいくつかの思いの中で”寒い”というのが選択されたということになります。

 有為の奥山:有為(=自意識・分別)で”なんとかできる”という”迷い”から抜け出せないほどの奥山にいます。

 今日越えて:”たった今”だけしかないと気づき、”迷い”の奥山を越えてみる。何もしない(=”なんとかしよう”につき合わない)ただの今(=ただいま)に何が起こっているかを観察する。痛いは痛い老いは老い生は生という当たり前の現実があります。何も間違っていない現実にどっぷり浸かればいいだけのことです。老いたくないとか死にたくないとか苦しみたくないと全精力を使わなくても為されるままでいいではないでしょうか。

 ”思い”が頑張っていて、その”思い”に付き合っていたら大変だということです。こうあるべきだという”思い(=固定観念)”をスルーしても何ら支障がないことを日々実感していくことでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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