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無門関第三十七則 庭前柏樹 [公案]

趙州(じょうしゅう),因みに僧問う,如何(いか)なるか是れ祖師(そし)西来(せいらい)意(い)。
州云く,庭前の柏樹子。
 趙州と僧の二人が何時どこでこのような会話をしたのでしょうか。誰が聞いて誰が伝えたのでしょうか。この問答から行間から何かを解ってもらいたいがために作られたお話だというのは分かります。私たちはこの短い情報(=お話)から各々のイメージ力によって、好き勝手に状況や各人の物言いから状況を思い浮かべることができます。その場にいるわけでもないのに、絵にすることも可能です。誰もが素晴らしい想像力(=妄想力?)が備わっていることに驚かされます。好き勝手ということは、まったく同じ絵にならないということです。会話から感じ取ることは千差万別だということです。あくまでも基準は自分であり、他人の思考を知るすべもないので頼るのは自分しいません。自分の思考が基準であり、自分が思いついたことが正しいということになります。

 

 ヒトは他人を見たり評価するように自分を見ることができる唯一の動物かもしれません。「初めに言葉があった」なんて・・。モノに文字や言葉がついて生まれてきたら大変なことです。大根のどこに大根と書かれているのでしょうか。大根のどこかを握ると「daikon」という音が聞こえるのでしょうか。ヒトが勝手に命名した後づけのモノでしかありません。日本人だけが「壁・kabe」としているだけで、英語では「wall」でありアラビア語では「جدار・jaddor」です。深海に潜って、世界で初めて見ることのできた深海生物を照らし出すと名前が浮かび出てくるのでしょうか。
 ヒトはヒトが見ることができ、識別できる単位毎に命名することで世界を分離・分割することにしたようです。ヒトを知る主体としてその他を知られる客体(=対象)とするようになりました。知ることでどのように対処するかを学習して制御できるモノとして安心を得たいかもしれません。未知を恐れるのは未知のモノは必ず危険を孕んでいるという前提があります。恐怖心こそ身を守る大事なサインであり、この本能から逃れるのは容易なことではありません。知ることで優位性が得られると学習させられているのでしょうか。知っていないダメな自分、知っていて優位性がある自分という二つの自分をイメージすることもできます。できれば優位なじぶんでいたい、”何とかしたい”という我が自動的に働いてしまいます。自分を見るということが恒常化して、優位でありたいという本能によって”何とかした”が何度も何度も繰り返されます。”何とかしたい”という自分が本来の自分だと思い込んでしまったというのが現実ではないでしょうか。
 さて、僧は達磨大師が西方から中国に来られた真意(=意味)はなんでしょうか。達磨大師は何を伝えようとしたのでしょうか。釈迦は何を得て、我々は達磨大師から何を教えていただけるのでしょうか。仏法とは何であって何をどのように得たらいいのでしょうか。達磨大師は何者で我々をどのように変革しようとしたのでしょうか。達磨大師の心境はどのようなものだったのでしょうか。我々も達磨大使と同じような知見に達することができるのでしょうか。その知見は如何に。その他いくらでも聞きたいことがあるかもしれません。

 

 趙州和尚の返答は、庭にある柏の樹だということです。庭石でも床でも柱でも畳でも・・たった今見えているあらゆるモノを返答しても同じことです。柏の樹に特別の意味があるわけではありません。あなたがただ見えているというたった今の事実。二項対立(=分別)する以前の、そのままがすでに仏性が働いているのではないですか。あれこれと考えるというのは、自分と対象を分けて(=分別)して迷うことです。迷いのないたった今を味わってみてください。
 何でもかんでも意味や価値があるはずだという前提でいきていませんか。どうやって生まれてきたかも説明できなし、いつどうなって死んでいくかも皆目見当もつきません。誰か(=神?)がなんらかの意図で世界を動かしていると考えるのはいかがなものでしょうか?戦争でしか使えない地雷を作っていることに人生の意義を見出せるでしょうか。何とでも言えるし言われます、衣服・飛行機は二酸化炭素の排出量が多いという人もいるし役にたっていると言う人もいます。ある結果で全否定されたり称賛されたりします。研究に結果が伴なわないとお荷物だとされ、後にノーベル賞に該当すればすばらしい研究者だとされます。ダイナマイトは創造のために破壊してくれたけど、戦争に使われて多くの人命を奪ってしまった。
 他の生態系にとって、人間のやっていることは全て意味も価値もなく地球上に存在してもらっては困るかもしれません。意味や価値以前にすでに生きているのですからそれで充分。意味や価値は我が作り出している物語でしかありません。意味や価値がなければ生を止めるのでしょうか。仏法を知的に知ることにどんな意味があるというのでしょうか。自分(=我)の描く物語からドロップアウトすると済々するかもしれません。自分(=我)が何を思うがほったらかしにする勇気が必要です。

 

 「山は動く。」「水は流れず、橋が流れる。」という言葉あります。勝手に解釈してみました。「山」は「事実・結果」であって動くものではありませんが、事実にたいしてどうのこうのと解釈したり講評することができます。山を勝手にあとから動かしていることはありませんか。天動説・地動説のどちらかを信じたり知ったから知らなかったからで日々の生活が一変することがあるでしょうか。私たちは川という客体(=対象)の方が変化しているという見方をしています。主体があって、対象があるとしています。対象にすることで主体(=私)が生まれているかもしれません。対象とするまでは対象は対象ではありません。見たこともないまったく知ることのできないモノは対象にはなりません。見たこともない水(=対象)が流れることはありません。橋(=動かない私)が対象をとらえたり探しに行ったりして動いて(=流れる)います。主客未分であれば、どちら(=主客)も流れることはありません。分別することで混乱を作り出さない。こうあるべきという世界は、各人の妄想で作り出した世界ではありませんか。思考によって作り上げている「自分にとって意味のある世界」以前で働いているモノが本来の自己です。意味づけ以前で、ただ見えているただ聞こえているを知覚している自分。無分別であり主客がないので絶対無。
 なんとでも解釈できるということは、正解なんてないということです。頭の中のお遊び。考えることのバカらしさを実感する。考えて何かを得たり何かを掴むことなんかありません達成することがあるのかと立ち止まっていいかもしれません。考える以前のたった今を生きています。どうでもいいことが次から次と湧きおこっているし、どうでもいいことを追いかけてはいませんか。必要な時に考えという道具を使えばそれでいい。何でもかんでも思考がすべてだという考えからいったん離れることも必要ではないでしょうか。
 
<余談>
 ある独裁者は自分こそが正しい(=自己正当化)のであて、戦争で他国の人が苦しんでいたとしても自国のために行っていると正当性を強調します。彼は最前線の戦場で戦ってはいません。安全な場所で報告を受けて指示を出しているだけなので戦場での恐怖を感じることはありません。
 カタールW杯開催費用が42兆円というこのようで。大洪水に見舞われたパキスタンの国民も浮れてTVに見入っているのでしょうか。東京オリンピックは、スポーツに大金がつぎ込まれることを知っている一部の人の錬金術に利用されました。戦争がお金になるということを経験したアメリカは、戦争を利用して今日の繁栄を享受しているのでしょうか。表では世界の警察の顔をして裏では脅してみかじめ料をもらったり、高額な戦闘具を売りつけているかもしれません。表裏一体が現実の姿です。片手の手では握手して、もう一方の手には何を持っているのでしょうか。混沌としているのが現実のありのままの姿です。歓喜の裏に悲劇があり、悲劇の裏に歓喜があります。悲劇が大きければ大きいほど歓喜も大きくなります。どちらも一枚のコインであって同時に存在しています。悲劇か歓喜(=事象)のどちらに流れるか分かりませんが、橋(=見ている人)がどちらかに流れてしまいます。「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

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