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趙州洗鉢 [公案]

ある時、一人の僧が趙州に問うた。
「私は禅堂に入ったばかりの新参者です。師よ、どうか指示をお与え下さい。」

趙州は言った。
「朝ご飯は食べたか。」
「はい、食べました」と僧は答えた。
「それでは、持鉢を洗っておきなさい」と趙州は言った。
僧は心眼を開いた。

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 この短い公案では、趙州和尚に気づかされた僧のバックボーンも不明であり、何時ころにどこで問うたかもまったくわかりません。趙州和尚が何に気づいてほしいかを探り、僧が何を感得したかを自らの体験と照らし合わせなくてはなりません。普通の小説であれば登場人物の一挙手一投足を事細かく記述して、各人の心境がどうなっているかを記述してくれるのですが・・・・。

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<無門の評語>

 趙州は口を開いてその胆を見せ、心肝を露出してしまった。もしこの僧がそれを聞いて真旨をつかみ得ないならば、鐘をもって壺だというようなものである。

<無門の

あまりにも明らかなので、かえってうなずきにくい。

燈は火であることをすぐに知るならば、食事はとっくに出来ている。

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キーワード:無我無心、仏性、分別以前、気づき

 修行僧ですから、日々の一切の所作が「仏」の行であるとの認識でいなければなりません。修行僧は、有為(=分別・知っている)以前が無為(=無分別)の働きであることに気づいてはいないようです。日々の所作をただ当たり前の所作としていたり、先輩の所作を真似すればいいとしていては無為での自覚がないようです。食べかたを真似ていたのか、絶対主観で食事をしていたのか。無我無心の「本来の面目」のままに鉢を洗っていたのか、それとも単に所作として洗っていたのか。無心か二心かでは大違いです。

 修行僧の一日は、起床・坐禅・読経・朝食・掃除・作務・・・就寝。当時のことは分かりませんが、朝食を食べ終えて、食器を洗わない人などいません。「洗っておきなさい」とそのまま受け取っては間違いです。言われたとおりにすることで救われるならだれもが救われていると感じるはずですが・・・・。

 

※「師よ、どうか指示をお与え下さい。」 

 新参者が和尚に問うことは勇気が必要なことです。

 修行を一歩でも進めるための特別な何かが聞けると期するところがあったのかもしれません。

 何をどうすれば悟りの機縁となるのでしょうか。

 

※「朝ご飯は食べたか。」

 24時間自己が働いているのではないか。「朝ご飯は食べたか。」と這固(=即今のこれ)を経験しているはずだが・・と僧に聞きました。修行僧が漫然と食事をするわけがありません。作法にのっとて日々の食事に向き合っています。分別心が入る余地もなく「無我無心」で食べているその姿がそのまま「本来の面目」ではないかと逆に問いただされました。ここで修行僧が「無我無心」で食べていたことに気づけばよかったのですが・・・・。日々「本来の自己」を見性しているではないか。主観で生きているのに、自分を客観として見てはいませんか。

 和尚が食べたか食べないかを聞いてどうするというのでしょうか。僧の一人一人の健康管理を任されているわけではありません。 和尚が食べたか食べてないかという二項対立で「はい・いいえ」を聞くわけがないのに、分別心で「はい、食べました」と応えてしまいました。修行僧はただの会話だと勘違いしてしまったようです。

 「趙州は口を開いてその胆を見せ、心肝を露出してしまった。」 

 「ご飯は食べたか」[←]「それ、それ」全て「本来の面目」が働いているではないか。と胆を見せています。答えを言っています。

※「それでは、持鉢を洗っておきなさい」

 「はい、食べました」と自らを客観として答えています。「はい」と「いいえ」の二項対立で応えてしまいました。僧が聞かれたことを理解できずに的外れの答えをしたので、「それでは、」と間髪を入れず次の問(=答え)を発しました。「掃除をしておきなさい」でも「草取りをしなさい」・・・何でも同じです。あえて、食事が終わってすぐにやっているはずの「持鉢を洗っておきなさい」と言いました。「持鉢を洗っている」その時の「本来の面目」を自問自答するように促しました。

 食事によって命を繋いでいるのですから、大事な鉢でないわけがありません。「無我無心」のままに巧に「洗う」が行われてしまっているのではないでしょうか。

 

※ 鐘をもって壺だというようなものである。

 「露堂々」であり隠されていることなどありません。「ご飯をたべたか。食器を洗っておきなさい。」という問い(=答え)が叩けば良い音を出す鐘なのに、叩いても音のしないこと(=ただの会話)のように解釈してはなりません。例えば当たり前のこと当たり前にすることだと解釈しては壺を叩いていることになります。日々のことを黙々とやりなさいという道徳的なものにすり替えてはいないでしょうか。何を聞かれ何を答えるべきかという日常会話ではありません。

 

<三昧(=禅定)では迷えません・混乱もありません>

 無心に花に水をあげている。無心で食器を洗っている。無心に太鼓を叩いている。無心に踊っている。無心に蝉の声を聴いている。無心に剪定している。無心にコーラスで声をだしている。大笑いしている。無心に草取りをしている。一心不乱に土を耕している。寛いで湯に浸かっている。料理を作っている。ラジオ体操をしている。趣味に没頭している。・・・このような自分に迷ったり混乱するでしょうか。

 

<事実に気づきましょう>

 私たちは知らず知らずのうちに捉えている(=捉えられている)世界は、自らが主体であって「私」以外全てを客体であるとみなしています。「私」が主人公となって働きかけていると思い込んでいて疑うことがありません。事実は「一切転倒」です。

 自らが構築したバーチャルの世界で、自らが主体として動いているかのように認識しています。

 私(=バーチャルの中の主体)が花に水をあげていると認識します。事実は花に水をあげているだけのことです。事実の後に分別からなる「私」が何かをしていると認識してしまいます。「花に水をあげている」という事実の後に、事実を振り返って私(=バーチャルの中の主体)が「私が花に水をあげている」と事実を客観として解釈します。

 手と口が勝手に食べているのに、私の手と私の口を使って私が食べていることにしています。

 「ご飯を食べた」という事実だけなのに、二項対立では主体と客体が登場し「私がご飯を食べた」ということになってしまいます。

 自分の名前を呼ばれて、「無我無心」に「ハイ」と応えただけが事実です。その後、主客があると振り返えり「私がハイ」と応えたと認識しています。分別もなく「ハイ」と応えたのは「本来の面目」の働きのままですが、振り返って考えた後には「私がハイ」となってしまいます。

 ただただ分別なしに「お茶を飲んでいる私(=本来の面目)のまま」ですが、すぐに「私がお茶を飲んでいる」となってはいませんか。

「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたててのむばかりなる事と知るべし」(千利休)心を込めてを通り越して自ら(=分別心)の所在なくただ茶の湯と一体となって・・・・。

「稽古とは 一より習い十を知り 十よりかへる もとのその一」(千利休)

 子供は分別心なく(=無我無心)お茶をいただきます。稽古はこの子供のような振る舞いにまで昇華するということでしょうか。

 目覚めた直後は「よく寝た私(=本来の面目)」であって、その後に「寝た」ことを振り返り「私がよく寝た」と言ってしまいます。「私」がという主語は分別後の「私」です。「私が考えている」のではなく、「考えている」ことで「私」をあとづけしています。考えを追認している「私」がグルグル回っているだけかもしれません。

 

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 前回の「父母未生以前の本来の面目」を復習してみます。

「父母」とは分別(=二項・相対)のことであり、「未生以前」とは分別(=考え)で「私」が出現する以前であると想像してみてください。

 「見ている」を分析すると、「私」という実体のある何かが見ているのではありません。10人に「私」そのものを指さしてもらっても、それぞれ異なる所を指さしていることと思われます。だれもがここが「私」の所在であるとの確証はないようです。「私」はあとづけであって、何にでも「私」をつけることができます。

 見えているという「事実」が先にあります。「倶胝竪指」という公案があります。一指でもグーでもパーでも同じです。眼の前に出されたモノに対して「これなんだ」という認知そのものが「本来の面目」。

 私たちは見えていることを認知(=本来の面目)したあとに「私」をくっつけています。「私」が見ようとして見ている訳ではありません。主も客も出現する以前の「あるがまま」が眼前にあり、それが認知されているその意識。

 「私」が見ているのなら見たくないものを見ないようできてもいいはずですが・・・。美も醜も分別なく勝手に見えています。見えている事象(=現象)に「私」は必要ありません。見えた後に美だとか醜だとか分別して自らの感想を言っている「私」を出現させています。

 熟睡しているときに「私」はどこにいるのでしょうか。「私」が心臓を動かしたり脈拍と調節したり消化したりしているでしょうか。「私」が身体であれば病気になる前に対処できてもいいようですがそれはできません。「手」は対象として認識されるので「私」ではありません。対象となるものは「私」そのものではありません。

 「父母未生以前の本来の面目」とは、分別が起こる前(対象を認識する「私」)に認知しているだけの意識(=本来の面目)。分別後は「本来の面目」ではなく普段のあとづけの「私」が使われています。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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