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父母未生以前の本来の面目 (2) [公案]

 同じような内容が何回もでてきますが、体験が重なると気づきも変わってくると思われます。

 

 私たちは、自分で生まれて自分の思い通りに生きているのでしょうか。知らずに生まれ生かされているのでしょうか。「自分」という観念は自意識の成長と共に「自分」が主体であると思うことで意識に根付いてしまっています。「自分」が主体であるということは、自分以外を客体とみなしています。このちっぽけで目に見えない無に等しい「自分」を除いた宇宙全体が客体としているということは・・・。「自分」を除く一切も自己が主体と思っています。個々は客体とされ、また個々が主体でもあります。個々の集合である全体は客体であり、また主体でもあります。個が主体であることを放棄したら見られるモノは客体ではなくなります。主体者でなくなってしまっても(=見る者は何者でもありません)見えているという現象そのものになります。

 二項対立以前(=分別以前)では見ている者が不在であって、ただ見られるモノ(=映し出されているモノ)が見ている者そのものと一体です。主客未分において、見る者と見られるモノに相違を見出す誰かは不在です。「本来の面目」(=分別以前)では、一切が「本来の面目」そのものということ。極端に言えば全部が自分だという表現になるかもしれません。聞こえている自己(=分別以前)がいなければ、自己が振動して自己を聴いています。普段(=有為・二項対立)の意識では、聞こえた音は外にあり私が聴いていると解釈しています。私が聞き分けたと思い込んでいますが、何の力も努力もなく「無我無心」で聞こえてしまったというのが事実です。

 

 認識しているのは「自分」であるとしています。何かに没頭していたり、我を忘れて映画・コンサート・演劇・読書・遊び・・・等々に夢中になっている時に「自分」がどこかにいて自らを主動しているでしょうか。自意識が生まれてから、「自分」によって世界を認識しているということが前提となっています。幼かったころの自分・悲しかった自分・楽しかった自分・怒った自分・笑っていた自分・・・同じ自分はどこにもいません。コロコロ変わる変幻自在の自分であり恒常不変の自分であった試しはありません。

 「本来の面目」は言わずと知れた「仏性」ということです。「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)「仏性」は無我無心の働きです。

 

 さて、有為(=相対による混乱の世界)の奥山以前が無為(=無分別)であると気づかないでいると、常に既知を最優先にして生きることになっています。知る者(=主体)以外は知られるモノ(=対象)で構築されている。個々人の観念で見ている世界が眼前に広がっています。同じモノを見ても是非が分かれます。ある国では合法で販売もされている薬物がある国で違法となっています。人間の数・集団の数の応じて見方があります。多重層からなる観念の世界の中で生きています。個人的には是であっても地方では非であり上位の国では是であることもあります。タバコは個人では是でも職場や家庭や交通機関では非、国や喫煙指定場所では是。場所や時間や周りによって正しいときもあり間違いということもあります。是非は人間が勝手に決めているだけのことかもしれません。「勝てば官軍、負ければ賊軍」

 

 知覚される一切は客体であり、主体が主体を知覚される客体(=対象)とすることはできません。自身の眼(=主体)は自身の眼(=客体化)を見ることはできません。対象に向けられて今まさに働いている眼の働きは客体ではありません。

 知覚されるということは対象であり、知覚する主体がいるということになります。感情や思考も知覚できるので客体であって「本来の面目」ではありません。身体、感情、思考、時空間等々の一切は知覚できる客体となるので、主体ではありません。知覚している主体を知覚することができないということは主体を見出すことはできません。主体を見出すことはできませんが働いていることは確かです。

 公案に「奚仲造車」というお話があります。車輪や車軸を外していって「車」はどこにあるのか?車輪や車軸を組み合わせることで「車」になります。車輪は勝手にどこからともなく出現したわけではなく、遡れば「無」から生まれてきたという他ありません。車の部品の一切の根源を遡ってみると「無」に行き着きます。我々も因縁和合してこのような心身となっています。遡ってみると宇宙開闢まで遡ることになります。「無」からでてきたものに違いがあるでしょうか。宇宙物質からできている物体のどこに相違をみいだせるでしょうか。あれもこれも宇宙物質が因縁和合して現前しているだけで、いつか粉々に分解することは明白です。

 見出すことのできない主体(=絶対無)仏性の働きによって、見えてたり聞こえたりしています。有の反対の無ではなく絶対無だということになります。

 

 見ているというより見えています、聞いているというより聞こえています。努力して見ていないし努力して聞いていません。目線を動かすだけで先程まで見えていたモノは何の努力しなくても消え去ります。自らの意志で消しているわけでもなく、自らの意志で見えているわけでもありません。

 見えているモノ(=対象としているモノ)に善悪・美醜などのレッテルは貼られていません。ただ私たちの個々の観念による意味や評価によって勝手に分別されています。分別以前ではまっさらなあるがままが見えているだけではないでしょうか。無我無心に見え無我無心に聞こえています。仏性は働きであり、仏性を使っている誰かはどこにもいません。仏性は生まれたわけではないので「不生」(=父母未生以前であり、滅することがないので「不滅」です。

 

 「本来の面目」が「本来の面目」を探すでしょうか。探そうとしているのは分別している私(=自我)です、私(=自我)に実体を見出すことはできません。私(=自我)という思いによってあります。

 思いによって作り出されている私(=自我)を思いによって消滅させることはできません。思わなければどうなるでしょうか。

 私たちは無我無心(=分別以前)で生きていながら、またたく間に分別してしまいます。仏性(=無我無心)で働いていながら、瞬時に分別心が立ち上がっていることに気づくことは容易なことではありません。あらゆるモノを対象として捉え考える癖が身に染み込んでいます。思考が悪いというのではなく、思考以前にある意識は無我無心に働いているということに気づいてみることに努めます。考えに私(=自我)を没入させて混乱する癖から離れるために、傍観する時間を設けてはいかかでしょうか。

 

・知識を増やした先に無分別(=無為)にたどり着くのではないようです。

・無分別から瞬時に分別(=二項対立)的な見方が出現し意味や価値を見出そうとする癖がついています。

・思索して進むのではなく直知へと戻らなければなりません。「直指人心」

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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