SSブログ

修証不二 [気づき]

 私たちは、親・学校・友人から様々なことを学びます。科学技術の進歩によって便利な生活を送れることを体験しています。便利が必ずしもイコール幸福であるとは限りません。近代社会では疾病が減るどころか新たなウィルスが出現したり、イデオロギーの相違によって戦闘が起こり多くの人命が奪われています。あるリーダーの欲望を満たすため多くの犠牲が出ても意に介さないようです。他人の人命よりも一国のリーダーの”我”が勝ってしまっているということでしょうか。

 私たちが学び続け実践していることはどいうことでしょうか。それは、結果をイメージしてから、今何を行えばいいのかを考え実行することではなでしょうか。過去の失敗を教訓として同じ失敗を繰り返さずに、順調にステップを踏み望む結果を得たいと願っています。

 幼いころは他人と触れ合う場面で、自分の”我”と他人の”我”のせめぎあいを経験します。学校では、人間社会で生きていく最低限の知識として教科書に書いてあることを憶えさせられます。数式を使えばどういう答えが導き出されるかを学んで実際に算出できるようになります。

 


 若い人は、将来の希望を叶えるために何を犠牲にして何にエネルギーを注ぎ込むべきかを考えます。つまり、問題(理想と現実とのギャップ)を解決するにはどうしたらいいのかを考えるように躾けられてきたように感じられます。社会では困ったことだらけで日々その困ったことの対処に追われているというのが現状ではないでしょうか。困ったことを解決する一つに法律があります。法律の専門家であれば社会制度上の問題に杞憂することはないかもしれません。

 数学の問題を解くには方程式を憶えたり、問題文の読解力が必要とされます。記憶するだけの問題は記憶されたものを正確に再現できればいいだけです。「今」の価値は、あたかも過去(=記憶)と未来(=予想される結果)を考えるためのにあるかのように思う人もいます。

 実は、過去は記憶だけでありすでに消滅しています。未来もただの妄想であってどこにもありません。過去を振り返るために「今」があるのでもないし、どうなるか分からない未来の為に「今」があるわけではありません。過去や未来が主役ではありません。今だけが続いています。過去から見れば「今」は未来の「今」であり、未来から見れば「今」は過去の「今」です。「今」は未来でもあり過去でもあるといえます。今が主役であり、過去や未来も「今」だと言えないでしょうか。10分前からすれば10分後の今なので未来の今を生きています。10分後の未来からすれば10分前の今を生きています。

 無常であり一切が消滅しているのに、自分が経験してきた過去が消滅せずに残っていることがありうるでしょうか。エントロピーの法則を無視して素粒子を逆回転することなどできません。もし同じようなパラレル世界が無数にあって、1秒前の世界・2秒前の世界・3秒前の世界・・・1億年前の世界が同時進行で存在していれば行ったり来たりすることもできるかもしれませんが・・・・。自分が生きてきた世界は完全に消滅しているので過去の自分に会うことは不可能です。今の自分は過去からすれば未来の自分であり、未来からすれば過去の自分です。消滅してしまった過去やあるかどうかもあやふやな未来に振り回され憂える必要があるのでしょうか、今を観察して今に生きる他ありません。今を見届け続けることができているだけで満たされていると感じてみるのもいいかもしれません。

 誰もが生まれた瞬間に死を宣告されています。生き続けるという勝者はいません。思いであがなっても負けが確定しています。勝負せずに、諦め(=老・病・死)て受け入れれば勝負にならないので負けない唯一の方法です。

 

 


「一夜賢者の偈」

 

過ぎ去れることを追うことなかれ。

いまだ来たらざることを念うことなかれ。

過去、そはすでに捨てられたり。

未来、そはいまだ到らざるなり。

されば、ただ現在するところのものを、

そのところにおいてよく観察すべし。

揺らぐことなく、動ずることなく、

そを見きわめ、そを実践すべし。

ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。

たれか明日死のあることを知らんや。

まことに、かの死の大軍と、

遭わずというは、あることなし。

よくかくのごとく見きわめたるものは、

心をこめ、昼夜おこたることなく実践せよ。

かくのごときを、一夜賢者といい、

また、心しずまれる者とはいうなり。

(増谷文雄訳『阿含経典第五巻』)


 


 私たちが学んできたことは、何かを成すには行動しつづけなければならないということです。行動するには意志がなければなりません、意志以前に思い浮かぶ(=イメージ)必要があります。修練(=手段)して思い描いたイメージを成就(=目的)できると思っています。剣道では「守破離」と言われています。

 熟達するには何度も何度も修練することで脳が筋肉に指示命令し筋肉を微妙にコントロールするようにできることは当然であって、それ以上に脳の指示を離れて勝手に筋肉が動くようになるようになることです。(ゾーンに入る)”私”が介入していない境地まで高めなければなりません。日々行っている行動で”私”を探し出すことは困難です。空腹は血糖値(血中のブドウ糖の濃度)が低下することがきっかけとなり、空腹という感覚を脳が感知して何かを食べたいという欲求が起こります。身近にある食べ物を探して口に入れて歯で噛み砕いて胃に送ります。この過程で”私”がどこに登場しているのでしょうか。ロボットのようにプログラミングされた”私”が足を動かすように指示命令し、目というセンサーを働かせて食べ物を探し当て手をその食べ物を取って食卓まで運ぶかその場で食べるかを選択する。口をどの程度開くかを指示命令し・・・・・。食べるのに”私”の指示命令が事細かくあるのなら脳は膨大なエネルギーを消費しオーバーヒートして疲れ切ってしまいます。歩くときに何㎝位足を持ち上げ何センチくらい前に出してどれくらいの力で地面を蹴るのかを一々指示命令するでしょうか。そこに”私”はいません。日常生活に”私”が介入し指示命令すれば、赤ちゃんのように疲れて一日中寝ることになります。不安を背負い込んだり全てを思い通りにしようと”私”を働かせすぎると様々なストレスとなります。ただの雑念(=火種)を重大なことのように取り扱ってしまうと大変(=大火事)なことになります。

 


 修練して偉大な”私”を手にいれるのではなく、”私”の介入をそぎ落とし”私”をなくしていくことが大事なポイントです。「無心」とは何も思い浮かばないのではなく、思い浮かぶことに一々関知しないでサラサラと受け流すことではないでしょうか。サッカー観戦に夢中になっているときに”私”を持ち出して、雑念を取り扱っていないので「無心」でいるはずです。ゴール前で応援しているチームの選手がボールを蹴った点が入った、ただその場面と一体となっているはずです。


 


「仏道を習うというは、自己を習うなり

自己を習うというは、自己を忘るるなり

自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり

万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(道元)

 


 禅問答で、仏とはという問いに「麻三斤」「乾屎橛」・・・と応えたとあります。禅問答は考えて分かる問題ではありません。仏に抱いている概念を取っ払って自分で体験してくださいということです。玉ねぎの皮を剥がすように、思い込みを剥がしていくとどうなるでしょうか。仏が「麻三斤」「乾屎橛」なら、「麻三斤」「乾屎橛」に成れるもんなら成ってみてはどうですかと言われたらどうでしょうか。成る何か(=麻三斤・乾屎橛・・)ではないということです。仏に成るのではなく仏であることを体験する。坐禅(=手段・修練)によって仏(=成就・達成)に成れると思い込んでいるのは、”私”が成しえると学んできた思考回路での結末です。

 仏道(=為楽)への過程は、後付けの”私”という実体があるかどうかを観察することにあります。観察していくと過去や未来に囚われて右往左往して悩みを抱えているということに気づきます。坐禅によって自らを強制的に”たった今”に縛りつけます。ただ雑念を観察して「今・今・今・・」にあり続けます。後付けの行為者である”私”の出る幕がなくなります。”私”が何もできない「あるがまま」と一体になるほかありません。立つことも手を広げることも話すこともキョロキョロ見回すこともしません。”我”が手なずけられていきます。”なんとかしたい”ということが押さえつけられて調教された犬のようになっていきます。”なんとかしたい”という衝動がだんだんと減っていきます。坐禅中(=無防備)でも安全であるということが分かってきます。過去や未来との繋がりよりも「今」のままでいることに不安がないということを体験します。不安は自分が作り出している妄想であることに気づいてきます。


 


例:プロスケーターが記憶喪失になって、スケートをしていたことを忘れてしまいました。今までスケートに一生を捧げてきましたが、新たな人生を生きなければならなので多くの困難(=悩み)を抱えるようになりました。彼(=記憶喪失)はスケートが上手いと言われても信じることができませんでした。それではということで、スケート靴の履き方から教えて数回滑ってみると身体に染みついていた技術が開花して元通りになりました。彼がスケートの練習を再開せずに人生をすごしてしまったとしたら・・・・。

「醜いアヒルの子」:実際は白鳥なのに、アヒルだと思い込んでしまっていてはもったいない。坐っている時間がそのまま仏かもしれません。調教はあせらずに結果はすぐにはでませんが、あせらずに積み重ねれば我が剝がれていきます。

 


 

 悉有仏性であるのに、どうして坐禅しなければならないのか。上のスケーターと同じで誰もが仏性をもっているのですが、坐ってみて体験しないと気づきません。不安解消の為に働かせていた思考が、実は不安を増長させていたということに気づきます。


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

nice!(42)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 42

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

静かでいる不知証明 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。