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不知証明 [気づき]

「無い」を証明することはできないので「悪魔の証明」と言われています。
「宇宙に果てはない」「宇宙人はいない」「神はいない」「恐竜はいない」「竜はいない」
「阿弥陀仏はいない」「神と会話する人はいない」「悟ってはいない」・・・・。動物園で生きた動物を間近で見ることができれば本物の動物が「いる」ということが確認できます。宇宙人・UFO・・・が「存在している」証拠がなくても宇宙全体の精査をすることが不可能なので「いない」ということを証明することはできません。
 誰かが「神の啓示」を受けたと吹聴したとしても、「神の啓示」を受けていないと証明することもできません。そもそも「神」がいなということを証明することもできません。信じたい人が信じているというのが本当のことかもしれません。信じたければご自由にどうぞというスタンスではないでしょうか。
 説明責任を転嫁されて、「無い・いない」ということを証明してみよと言われても不可能です。「ある・無い、いる・いない」と白黒がつかずに平行線をたどりお互いが疲れ果てることが目に見えています。

 

 禅問答は文字の答えを求めてはいません。答えの文面の読んで知識として得るものではないということです。(不立文字)「富士山を荒縄で縛って持ってこい」と言われて真剣に思考します。出発地点が「思考して」解決しようする癖に気づくことです。何でもかんでも「思考・思索」で解決しようとするのが人間の特性です。日々自動的に使われている「言語」は人間を人間たらしめている大きな特徴です。「言語」で問われれば、「言語」を使って解決しようとするのは当然のことです。モノであろうが感情・感覚さえも、五感で感受する一切を「言語化」して知っていたいというのが人間です。「言語化」は留まることはありません。「言語化」の作業が創造であり進化だということかもしれません。
 1986年に「イミダス」という時事用語事典が創刊されましたが年々分厚くなっていったことを思い出します。常に発見・発明・創作があり新しい概念が創造されているということの現れです。
 頭の中の「おしゃべり」に翻弄され続けているかに気づくのが禅問答かもしれません。「思考・思索」で何でも解決できるかというと、そうではないということを体験します。判る→分かる→解ると進み、解るは「no proble・問題なし」であり、「思考・思索」する対象ではなくなります。
 頭の中で解って「おしゃべり」が鎮まる(=無い)という瞬間を重ねていきます。実体験として「無い・いない」を自らが証明することになります。「おしゃべり」が鎮まっているのが「寂静」なのかどうかを確認することになります。他人に証明することではなく、自分自身が証人となればいいということです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 


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