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サラサラと受け流す [気づき]

 私たちの世界とはどんな世界なのでしょうか。地球上のすべての場所。活動可能な場所。知識として知っている世界。イメージとして抱いている世界。物理的に存在していると思われる世界。歴史が刻まれた結果の世界。認識しうる世界。情報が飛び交う世界。あるがままの生々しい世界。たった今が生滅している刹那の世界。自分だけが知っている世界。既知の世界・未知の世界。認知できる世界・認知している世界。認識できる世界・認識している世界。

 

 私たちが見えている映像は電磁波から得られる情報が自動的に処理されて三次元的に描かれています。自らの創意工夫によって作り出された映像ではありません。脳内での化学物質や電気信号によって構築された固定されたスクリーンの上に展開されているかのようです。例えば家にあるTV画面がカタールに行ってW杯の映像を映し出しているのか、それともカタールでの光景を電磁波として入力され、その電磁波を家のTVのドットに色として変換しているのでしょうか。TVのスイッチを入れてチャンネルを合わせるというのは、自身の瞼が開くと電磁波が勝手に映像となるのと同じことかもしれません。自宅のTVがどこかに動かないと同じように、私たちの脳内のTV画面が動きまわるということはありません。私(=肉体)であるとの認識であれば、私がカタールに行かなければ見えないということになります。動くことのない根源としての絶対主体である「それ」は、認識が働く以前に認知できて見えています。見えていると気づく以前に勝手に映像として見えています。

 

 映画館のスクリーンは映画館から動くことはありません。脳内で描かれている脳内スクリーンも動くことはありません。映画館のスクリーンには光が投射されて映像となります。あたかも瞼が開かれると脳内スクリーンに電磁波が投射されるかのようです。私たち(=肉体)が物理的に移動したとしても、脳内スクリーンは脳から動くことはありません。脳内スクリーンはただ電磁波を映像として映し出しているだけのことです。目から入ってくる電磁波(=光)を逐一変換して映像としています。
 例えばニューヨークを出発して京都の清水寺を観ているとします。数時間前に成田空港に到着して京都に到着し清水寺に今いるという行程を記憶しているので、時間を費やしこの場所に到着することができ観ることができていると思っています。移動している間でも脳内スクリーンは動くことはありません。様々な景色が脳内スクリーンに勝手に映しだされて記憶されています。一般的には、目を向けると自動的に映像が映し出され、その映像を認知します。次に清水寺という知識と照合されて清水寺と認識されます。記憶を遡って、私が清水寺に来て清水寺を観ているという認識を得ます。一方で、たった今にフォーカスしてみます。ある情景が脳内スクリーンに映し出されます。次にその光景が清水寺であると認識します。目を向けると清水寺の光景が展開されます。
 どこがどう違うのでしょうか。私(=肉体)が意識を持ち運んでいく先々で観ているのでしょうか。肉体が意識を持ち運び、その時々で働かせている?。感動したり落胆する意識などありません。私が肉体であると思い込む前から意識はあります。赤ちゃんが成長し感覚・感情・肉体・認識・思考が自分であると思い込む以前に気づいてる「それ」。「それ」は自分というものが確立する以前に、聞こえているし見えているし気配を感じ取っていました。たった今が「それ」に対峙していて現状を認識して言葉に出す以前に、「それ」は見えているし聞こえているし味わっているし感じています。寒いと言葉に出す前にすでに寒さを感受しています。
 私が清水寺に来て清水寺を観ているのではなく、「それ」は映像として映し出されている光景に気づいています。次に自意識が清水寺を観ていると認識し、私を後付けして私が観ているとしています。

 

 私たちの世界は”たった今”見聞覚知できている事象だけ。その他は知っているかイメージとして想像できる範囲であり認識できない思い込みで作られているのではないでしょうか。ある俳優が3月に死んでいるのに12月に知ることになり驚きを隠せない人が多くいます。事実を知らされるまでは記憶に依存しています。事実によって記憶を書き換えていかなければならないのが自分の世界だということです。当たり前のことですが、”たった今”認識できている以外は不明であり経験則によって構築されている世界だということになります。
 家の中でくつろいでいる時に、数十m先で何が起こっているかも知ることはできません。数千年前の聖者が何を人々に伝えたかったなど、どうして知ることができるのか知る必要があるのかサッパリ分かりません。
 仏とはと問い、”麻三斤”と言われたり「富士山を荒縄で縛って持ってこい」とか「瓶の中に大海を入れてみよ」とか・・・。言葉は何とでも言えます。言葉を聞いたり文字を見たりある言葉を唱えることで、人体が変化するならそれこそ錬金術かもしれません。 

 

 私たちは広大無辺の世界(=認識できない世界)にいるのではなく、無限に続いている”たった今”という刹那に生きています。”たった今”に得失が入り込む隙はありません。この何かが入る余地も無い世界の中で、何かを得たり何者になったりできるのでしょうか。自分(=我)が作り出した世界で特別でいたいのが、”我”の働きです。この”我”に関係なく、身の周りで起こっていることは宇宙そのものが動いていることです。何が起きようと、起こるがままを楽しんでみる。
 過去の聖者が〇〇と説いていた、〇〇を推奨していた・・・。頭の中で自分なりに解釈しているだけのお遊びかもしれません。”たった今”見えている聞こえている感じていることだけが世界であり、この世界をじっくり観察している「それ」になりきってみるのもいいかもしれません。頭の中でどんなおしゃべりが起こっても取り合うことをせずにサラサラと受け流し、目の前の認知のままにいてみる。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 


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