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フィクション [気づき]

 万物(=一切)は流転してとどまることがありません。私達の身体(=体の中の細胞)も思いも生じては消えています。私達の生きている世界は諸行無常であり、恒常不変でありつづける何かはありません。エントロピーの増大という法則によって、確固たる何かにすがりたいという願望はことごとく打ち砕かれてしまいます。執着して手に入れたとしても刹那の出来事でしかありません。期待や願いは叶ったとしても一時的であるので、苦であると感じてしまいます。死を間近で見ることで、永遠の命を願っても無駄だとだれもが理解しています。そこで似たような生命体を残していくしかありません。

 魂や心という概念で継続性を願いますが、ただの言葉であって実体はどこにもありません。どこに不変の魂があるというのでしょうか。永遠を願うことによって発明された定義であって、単なる言葉(=形・音)であり漠然とした呼称です。

 

 当然のこと(=法則・真理)を当然として受けいれることができるのなら、騒ぎ立てることもなく法(=法則・真理=諸行無常)に委ねる他ありません。(諸行無常・是生滅法)

 自然の理に従えば、自然の理に逆らって苦しむこともありません。苦とすることがなければ、苦とはなりません。仏道では、苦を苦としないために八正道というものがあります。正しいというのは自然の理に従うということではないでしょうか。思い・行為・精進・・・を自ら(=我)の努力によって、思い通りにすることではありません。自らの思い通りにしようとすることは、道理に逆らっています。無明とは、法則・真理がありながらその法則・真理に逆らって「苦」を何とかしようとすることではないでしょうか。思い通りにならない諸行無常の世界に生きていながら、苦(=例えば四苦八苦)をなんとかしようと思うこと。

 

 苦は修行や坐禅によって得た力によって消滅できると勘違いしていないでしょうか。修行によって何か得たり掴むことはありません。聖者は、苦に立ち向かって苦をバッサバッサと切り倒して解決するのでしょうか。そんなことは馬鹿げたことは、おとぎ話でしかありません。苦をそのまま受け入れれば、苦は苦ではありません。当たり前のことの一つ(=苦)であり、苦は解決する相手ではりません。あたり前に出会う出来事の一つでしかありません。当たり前のことを二項対立とするので、苦楽となります。苦もなく楽もなく、ただの出来事を苦楽として分けて一方が悪くて逃げたり避けたりしたいと思い込んでしまっています。

 楽しいことが起こって良いのと同じように苦しいことが起こっても良いじゃないですか。

 「ホォ、このような苦しみがあるのか」と歓迎してみる。いくつかある感覚の中の一つの感覚として味わってみる。

 粛々と日々の生活を送る。苦も楽もウェルカム。楽があって楽が気に食わずに苦しむ人もいます。スポーツマンで自分の身体をいじめる人がいます。痛ければ痛いだけ。辛ければ辛いだけ。貧しければ貧しいだけ。・・・どこが間違っているのでしょうか。痛い時に痛くなければ、医者に行きそびれて発見が遅れて致命傷になってしまいます。辛ければ辛さを味わってみることも大切です。辛くないだけで幸せを感じられて感謝することができます。

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 ただ見えている、ただ聞こえているというのは事実であり現実です。しかし、見えているモノ(=客体)と見ている者(=主体)という二つに分けて考えてしまう。そこから現実離れしたフィクションの物語の中で対話することになります。事実と願望という二項対立によって考える癖があります。言葉というフィクションで迷うことになります。

 言葉はどうしてフィクションなのでしょうか。見えているモノである”石”がどうして「石」という文字(=形)であり「イシ」という発音(=音)なのかを考察してみてください。英語では「stone」という文字(=形)であり「ストーン」という発音(=音)です。「石」という文字は固くもないし、「イシ」という音を聞いたとしても石の感覚を味わうことはできません。「甘い」と言われても甘く感じることはありません。

 旧約聖書がフィクションであることは子供でも知っています。「初めに言葉ありき」という有名なフレーズがあります。神の出現する前から誰かが神の出現する場所で待ち伏せしていたのでしょうか。神が聖書の作者を招待していたのでしょうか。

 作者が、神の所業を見ていて神が発音した音が言葉であるとすぐ分かったのでしょうか。作者の方が先に言葉を話すことができていたことになります。神の所業をどこに書き残したのでしょうか。 

 神の言葉が分かったとして、「光あれ」と言う前は真っ暗なので何も見えていないはずですが・・・。子供には面白いかもしれませんが、科学によって証明されていることが理解できている現代人からすればバカバカしい作り話のオンパレードです。

 誰も見ていないことを良いことに、聖者の逸話は大げさに書かれています。ある禅僧が大声を出すと数キロ先まで聞こえた。虎を猫のように手懐けることができる。身体が石のように固くなり火の中から燃えずに出てきた・・・・。よくもまあ、作り話も程々にしてほしいのですが・・・。

 宗教はマインドコントロールであって、人々を統制するのに使われてきたという歴史もあります。元を正せば同じ人間です。特別な能力は映画の中の話であって、どんなに鍛えても限界があります。真言(=マントラ)を唱えてどうにかなったら大変なことです。何かを祈っただけで実現したら世界で戦争は起こりません。苦労することもなく、楽しいことばかりでしょうか。何かを書いて言葉に出すだけでは何も実現しません。行動・行為によって少しずつ変わっていきます。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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