SSブログ

自作自演 [気づき]

・自己、私:一般的に一人称として使われている言葉。

第三者が自らを表現するときに使う言葉

・「私」:事象を思考で振り返った後に、主体として使われる言葉。頭の中で事象を観察している自分。頭の中で、自らを観察し評価している自分。

・「我」:頭の中でアイデンティティと同一化し、自己正当化(=自分は正しい)しているただの思い。「たった今」に寛げず、この条件を満たしたら幸せになるという観念。比較するために、過去や未来を持ち出して不安・不平不満の元凶。

・無明:「苦しみ」がどう引き起こされているかを知らない。

・エントロピー増大:「それを自然のままにほっておくと、散らばる方向に変化して行き、外から故意に仕事を加えてやらない限り、決してその逆は起らない」

 

 私達は宇宙という大海原の中で宇宙と分離すること無く躍動しています。起こっていることは宇宙の出来事そのものです。極端に言えば宇宙とともに「たった今」を生きていることになります。宇宙=全体=気づいている意識=平常心。

 

 「苦しみ」の原因は、「我」が”自分かわいい”を前提に二項対立的な思考(=平常心ではない)によっているからです。

 手品の種が分からないうちは不思議でたまりません。どうしてそんなことができるのか狐につままれたように感じます。しかし、種が分かってしまえば気づかなかった自分の注意力のなさにガックリするやら可笑しいやらなさけないと感じます。

 「一切顛倒夢想」である現実も、「我」によって展開されている夢想(=妄想)でしかありません。自作自演のトリックですから、他人が自分の頭の中で繰り広げているトリックを暴く事はできません。自分で種明かしをしない限り自分のトリックから抜け出すことはできません。「自縄自縛」というのは「我」によって「無明」となっているということではないでしょうか。

 この世は諸行無常でありエントロピー増大の法則が働いています。老・病・死は「苦」ではなく、至極当たり前のことです。身体は分解して無となるのは必然です。「我」が老いを受け入れずに”何とかしたい”とあがけばあがくほど「苦しみ」となります。

 定年となり会社で築き上げるがアイデンティティは根こそぎ奪い去られてしまいます。アイデンティティは会社に所属していたときに仮に与えられていたただのラベルだということに気づきます。

 「私」だと思っていたアイデンティティはただの自分で思い描いていたでっち上げだということに気づけば、眼が醒めていきます。

 何者でもない空っぽな「私」であれば、プライドもこだわることもなければどうでしょうか。ただのおじさんであれば何を言われても、ただの音が聞こえているだけです。

 「苦しみ」(=無明)は、頭の中で作り出していることに気づくのが第一です。次にその「苦しみ」は頭の中の勝手なおしゃべりであって実体がないので放っておけば消えるということを体験していくことです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(34)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

平常心是道 [公案]

趙州:「道とはどんなものですか」

南泉:「ふだんの心が道である」(平常心是道)
趙州:「それをめざして修行してよろしいのでしょうか」

南泉:「めざそうとすると、すぐにそむく」

趙州:「めざさなかったら、どうしてそれが道だと知れましょう」

南泉:「道は知るとか、知らぬとかいうことに関わらない。
知るというのは妄覚だ、知らぬというのは、無記だ。
もしほんとに『めざすことのない道』に達したら、ちょうど虚空のようで、からりとして空である。

そこを無理にああだこうだと云うことなどできない」

趙州は言下に悟った。

 -----

 

 般若心経で私達の平常が「一切 顛倒 夢想」であると指摘されているのに、このままでいることが平常心だと納得してしまったらどうでしょうか。このままでいいのであれば、何の気づきもありません。棚からぼたもちを待っていたのに・・・といことで一生が終わってしまいます。

 「平常心」を辞書に書かれた普段の心だと解釈すれば、何もしなくてもいいことになります。

「一切 顛倒 夢想」と般若心経で指摘されているので、「平常心」も誤解しているかもしれません。「公案」として残されているのも、後世の人に気づいてほしいのからではないでしょうか。

 

 事実が先なのに「私」が先だと思い込んでいるのことが「顛倒」です。このことを納得させるための実践方法があります。例えば、ヴィパッサナー瞑想の実践によって、事実が先であることにだんだんと気づくようになります。「私」が何かをしているのではなく、ただ起こっている事実に気付かされます。言語には文法がありますが、文法は事実に基づいているものではなく、人間の勝手な都合によって成り立っているだけではないでしょうか。文章の最初に「私」が置かれるのは、「私」が主体であるということのようです。日々の会話によって「私」が主体であり「私以外」が客体であると刷り込まれてしまっています。

 有為の奥山で日々繰り広げられている当たり前を観察してみます。瞬時に「私」が出現し、二項対立的な見方をしています。この「私」と二項対立的な見方によって、自らが安楽な状況(=分別妄想以前・あるがまま)を乱してしまっています。このことはなかなか気づくことはきません。

 

 「私」は”自分かわいい”が大前提であり、「私」こそが一番大切で守るべきモノとなっているのが常識です。おかしなことに、「私」が主体であるのに守るべき客体としています。「私」は主体でもあり客体でもあるということは矛盾しています。この「私」というものはただ頭の中で考えられた虚構のモノだということです。対象(=客体)は主体ではありません。主体が主体を知ることができません。自分が自分の顔を直視することはできません。手で手を掴むことはできません。足で足を踏むことはできません。舌で舌を味わうことはできません。対象があっての主体です。片手で音は出せません。

 

 二項対立は事実の後に事実を分別してしまうことです。事実に良いも悪いも汚いも綺麗もありません。事実が間違っているということは宇宙が間違っていると言っていることです。宇宙は私の思っていることにならなければならないということでしょうか。二項対立は人間が頭の中で作り出した観念です。

 「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉があるように、戦う前にはお互いが自軍が善であり敵軍は悪であるとしているだけのことです。かつての侵略者が官軍になっているのが人類の歴史です。

 自国の正義の対極は悪ではなく他国の正義です。自分の信じる神の対極は悪魔ではなく、他が信じる神です。戦争にも色々あるそうですが、宗教戦争は自らが信奉する神が偉大であればあるほど、他が信奉する神はちっぽけで疎ましく醜く存在を否定され永遠に消し去りたいと願われます。他の神を攻撃することは聖戦とされ殺戮が正当化されて激しいものとなります。どちらも戦うことが悪であるなんて思いもしません。愛国心や選民思想も正当化には役立つようです。自尊の気持ちが大きくなればなるほど、他を虐げても平気でいられるというのが二項対立の恐ろしいところです。

 「あの世」が華やかで素晴らしいと誇大に表現されたらどうでしょうか、「この世」がどんどんつまらなく忌避されてしまいます。見たことも行ったこともない「あの世」ですから、どんなに大げさに言ってもバレることはありません。

 太極図というのがありますが、陽が極まれば陰となり、陰が極まれば陽となります。また、陽の中に陰があり、陰の中にも陽があって全部が陽であることも陰であることもない。陽がある限界に来ると陰が少しずつ増えて陰が限界となり陽が少しずつ増えるという繰り返しになっている。夜明け前が一番暗く、日が登り初めて徐々に明るくなり日が沈むころにはだんだん暗くなります。絶望のときに小さな光明が差し、絶頂のときに小さなほころびが出始めることもあります。

 知るとか修行とか(=外へ向かう)が極限に近づくと、知る以前修行以前への洞察が芽生えてくる。「私」(=我)が全てをやり尽くすと(=お釈迦様の苦行)、「私」(=我)などどうでもよくなる兆候が出始め何もしないでお任せへと向かう。稽古とは一より習ひ十を知り十よりかへるもとのその一

 開くとか得るとか対象にする限りは、開いたり得たりする主体である「私」が隠れ潜んでいます。また、開いた人得た人と二項対立として捉えるのなら、いまだ開かず得ざる人と区別していることになります。誰もが既に「それ」であり経験しているのですが、気づかないだけのことです。主体が主体を知ることはできませんが、働いていることに気づくことはできます。熟睡している時は熟睡していることを知りませんが、起きたときに熟睡していたことが分かります。

 ”何とかしたい”という思いが「私」であり、”何とかできない”という二項対立を生み出しています。「雪山偈」にある諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽を実践する他ありません。

 色々な思いが浮かび上がっても必ず消えていきます(諸行無常・雲散霧消)。出てくることをほったらかしにする、これこそが”何とかしたい”を滅する法です。(是生滅法)。自縄自縛が解けて”何とかしたい”が已んでしまう。(生滅滅已)「私」も二項対立も使いたい時は使ってもそれに縛られることはなくなっていくのではないでしょうか。

 

<語の説明>

◯ヴィパッサナー瞑想

 今、この瞬間に自分の心と体が何を経験しているかに気づき、ありのままに観察していくのです。一切の思考や判断を差し挟まずに、見たものを「見た」、聞いたものを「聞いた」、感じたものを「感じた」と一つ一つ内語で言葉確認(ラベリング)しながら、純粋に事実だけに気づいていく……。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 


nice!(33)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

一切 顛倒 夢想 [気づき]

・自己、私:一般的に一人称として使われている言葉。

第三者が自らを表現するときに使う言葉

・「私」:事象を思考で振り返った後に、主体として使われる言葉。頭の中で事象を観察している自分。頭の中で、自らを観察し評価している自分。

・世界:一般的に他者と共通認識されていると思っている世界。

例:ただのガラスのコップは誰が見てもただのガラスのコップという共通認識、ただの熱帯魚、ただの夕食・・・・

・「世界」:「私」が観念で作り上げた固有の世界

例:高価なガラスのコップ、安っぽいガラスのコップ、映えるガラスのコップ、珍しい熱帯魚、三星の夕食・・・・

・事実:たった今のあるがまま

・識別:認知して分別する

-----

 

 般若心経に「遠離 一切 顛倒 夢想 究竟涅槃」とあります。私達が気にかけることがない普段の生活を「顛倒」してると指摘しています。当たり前として見過ごしてきたことが、全くの見当違いということでしょうか。

 なかなか気づけないであろうという点を観察してみました。

◯「私」が聞いている「私」が見ているということに何の違和感もないし不思議であるとは思ってもみません。「如」(=そのまま)「ただ」(=事実・あるがまま)がキーワードです。

 本当は見えている聞こえている事実が先であって、「私」は後付け。

 

 事実を観察すると:「私」が聞いているのではなく、「私」が不在であってただ聞かされているのではないでしょうか。聞こうとしなくても、音はどこららともなく向こうから発せられていて勝手に聞こえています。どうやって聞いているかも知らず、耳があることすら忘れ去られています。「如来」(=そのままが来る)であり「ただ」(=あるがまま)聞こえてきます。

「誰もいない森の奥で一本の木が倒れたら音はするか?」(哲学の問題)

 その場に居合わせ、音として認識できた人だけが「音がした」と主張することができます。極端にいえば、自らが感受できている「たった今の事実」以外は妄想(=事実ではない)ということになります。私達は、眼の前にいない人のことを平気で話しています。お互いに妄想しあって話していることになります。事実でもないことをおもしろおかしく話してはいないでしょうか。

 宇宙全体は常に変化変容していてます。生滅を繰り返していてとどまることがありません。頭の中で考えて出現ささているだけの「私」がどこにいるのでしょうか。

 

 「私」は見ているのではなく、見せられているのではないでしょうか。見ようとしなくても勝手に見えています。眼がどうやって見ているかなど知らずにあらゆる光景が見えています。まるで鏡に映し出されるように・・・。見えている事実には「私」を見出すことはできません。見えた事実が先にあって、「私」は後付けです。見えた事実を説明するために「私」という言葉が使われているだけです。

 私達の五感は何の努力も必要とせずに勝手に働いています。「意」も勝手に働いているのですが、「意」の働きを説明するために「私」を後付けさせています。いろんな考えが浮かぶ前に「私」がその考えをいちいち浮かび上がらせているのでしょうか。

 「対象」として認識される一切は「本来の自己」以外ですから、「本来の自己」ではありません。

眼の前のパソコン(=対象)は認識されるので「本来の自己(面目)」ではありません。自らが見ている自らの手(=対象)も認識されているので、「本来の自己(面目)」でありません。頭の中で考えている事も認識されているので、「本来の自己(面目)」ではありません。「本来の自己(面目)」は対象とならないので見出すことはできません。眼は眼を見ることはできません。

 

◯「私」が考えているのでしょうか。それとも、考えによって「私」が出現しているのでしょうか。

 

 「意」が眠りこけているときに「私」は見つかりません。そう「意」が「私」を作っています。「私」が「意」を働かせているかのように考えていないでしょうか。勝手に考えているなんて、「私」の自由意志で考えているはずだ思っていないでしょうか・・・。

 時計を見ながらでもいいですが、ちょうど1時間後に「富士五湖」を考えることができるでしょうか。休みの日に、1時間毎に何を考えるか決めて、朝の9時から夜の21時まで決めたことを考えることができるか実験してみます。「意」は「意」のままではなく、勝手に働いています。何が起こるか分からないのに「意」がどう働くかを決めることはできません。思いがけないこと(=用事・電話・・)が起こったら対応しなければなりません。

 身体も思考もほとんど無意識に使われていますが、「私」が使っているかのような印象があります。動物は無為自然に動いているように感じられます。

 こうあるべきだ、こうするべきだという理想を勝手に描きます。人と比較したり人生に意味や価値があるはずだと決めつけてしまいます。有為の奥山では分別によっています。意味があるということは、意味がないことを暗に認めています。意味がないということは価値がないに繋がります。更に進むと迷惑⇒排除⇒戦争へと行き着きます。分別の世界では「神」だけではなく「悪魔」も同時に存在しなくてはなりません。相対(=分別)で考えて答えを出そうとする限り葛藤が続きます。有為(=分別)の奥山を越えなければなりません。

 

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

 聴いている「私」もいないし、聴かされている「私」もいません。蝉が主で「私」が客でもなく、「私」が主で蝉が客でもない。聴かされてもいないし聴いてもいない。自らも現象と一体となり、現象そのもの。

 主も客もない、ただただ「その」状況があります。全体が蝉の声で満たされています。静けさが入る余地もなく、騒がしさも入る余地もありません。静けさも騒がしさもない。

 「蝉の声」を聞き分けている「私」など不在であり、全一であってどこにも境界はありません。岩も人も寺院も土も木々も空間も何もかも全てが同じ周波数で同調し振動しています。

 静寂と騒音という二項対立が成り立つ以前のまま佇んでいます。思考で処理する以前。あからさまの事実のと出会っています。思考以前なので名前がありません、その状況は名もない「それ」が「それ」としてある。

 

 私達は悩むから考えるのではなく、考えるから悩んでいるのではないでしょうか。考えていない熟睡時には悩みなんてありません。

 「夢想」:思考を使って妄想を止めることはできません。思考で思考を止めようとすることは、火で火を消そうとすようなものではないでしょうか。どんなことが思い浮かんでも追いまわさずに、放っておけば勝手に消えます。何の努力もなく(=意を働かせなくても)、諸行無常の中で生かされています。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(28)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

香厳撃竹 [公案]

参考:「香厳撃竹

 

 香厳智閑禅師がある日、道を箒で掃いていた所、箒に当たって飛んだ小石が竹に当たり、「コツン」と音がしました。香厳智閑禅師はその音を聞いた時、ハッと気がつき、釈尊の教えがどういうものであるかという事を、体験を通して自分のものにすることができたというお話です。

 小石が竹に当たった音は、聞こうとして聞いた訳ではないようです。事実を事実のままに感じ取っただけのお話です。自分も事実の世界に生きているということを実感したのでしょうか。分別以前のあるがままの世界の中で生き生きと生きているという喜びを味わったのでしょうか。

 

<参考>

・盤珪「不生禅」

・衆生本来仏なり(白隠禅師坐禅和讃)

・「無字の公案」有るとか無いとかいう(分別)以前が「それ」

 

 私たちは行動したり思考することで、何かを得たり何かを達成することを見ています。社会的成功と仏道とでは異なります。思考以前と思考後との違いに着目しなければなりません。

 例えば、映画での映像とスクリーン。無色透明の空間と山河。画布と油絵。画用紙と水彩画。夜空と花火。静寂と音楽。大地と花畑。鏡と映し出されたモノ。海と船。大空と漂う雲。ホワイトボードと文字。グラウンドと高校野球。半紙と書。茶室と茶。道場と武術。壁と掛け軸。・・・・・。映画はできれば真っ白で凹凸のないスクリーンに光の陰影が次々に変わることで映画になっています。 私たちは、変化している映像を追いかけます。スクリーンが無いことには映像はうまく映し出せません。

 

 「コツン」という音自体には意味や価値はありません。「コツン」以外の、カラスの鳴き声の「カーカー」であったり「ミンミン」「ポチャ」「ヒューヒュー」どんな音でも機縁があれば気づいたはずです。「分別(=思考)以前の音とは?」(=隻手の音声)と考え続ければどうなるでしょうか。

 聞こえた音は「何だ」と考える以前の聞こえたままの「音」に成り切る。聞こえている音と聞いている自分が分かれる以前。自らの五感で感受されたそのままの「素」。意味や価値を求める以前であれば客体としていません。つまり聞いている主体が不在のところに立ってみる。

 考えないようにと考えていていても、考えないようにとする考えのままに放っておく。同じことを考え続けられないで自然に消えていきます。聞こえていた音を消そうとせずにも消えるし、聞こうとしなくても聞こえていることに同調する。いつでも静寂が横たわっていることに気づきます。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(40)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

趙州洗鉢 [公案]

ある時、一人の僧が趙州に問うた。
「私は禅堂に入ったばかりの新参者です。師よ、どうか指示をお与え下さい。」

趙州は言った。
「朝ご飯は食べたか。」
「はい、食べました」と僧は答えた。
「それでは、持鉢を洗っておきなさい」と趙州は言った。
僧は心眼を開いた。

----

 この短い公案では、趙州和尚に気づかされた僧のバックボーンも不明であり、何時ころにどこで問うたかもまったくわかりません。趙州和尚が何に気づいてほしいかを探り、僧が何を感得したかを自らの体験と照らし合わせなくてはなりません。普通の小説であれば登場人物の一挙手一投足を事細かく記述して、各人の心境がどうなっているかを記述してくれるのですが・・・・。

----

<無門の評語>

 趙州は口を開いてその胆を見せ、心肝を露出してしまった。もしこの僧がそれを聞いて真旨をつかみ得ないならば、鐘をもって壺だというようなものである。

<無門の

あまりにも明らかなので、かえってうなずきにくい。

燈は火であることをすぐに知るならば、食事はとっくに出来ている。

-----

キーワード:無我無心、仏性、分別以前、気づき

 修行僧ですから、日々の一切の所作が「仏」の行であるとの認識でいなければなりません。修行僧は、有為(=分別・知っている)以前が無為(=無分別)の働きであることに気づいてはいないようです。日々の所作をただ当たり前の所作としていたり、先輩の所作を真似すればいいとしていては無為での自覚がないようです。食べかたを真似ていたのか、絶対主観で食事をしていたのか。無我無心の「本来の面目」のままに鉢を洗っていたのか、それとも単に所作として洗っていたのか。無心か二心かでは大違いです。

 修行僧の一日は、起床・坐禅・読経・朝食・掃除・作務・・・就寝。当時のことは分かりませんが、朝食を食べ終えて、食器を洗わない人などいません。「洗っておきなさい」とそのまま受け取っては間違いです。言われたとおりにすることで救われるならだれもが救われていると感じるはずですが・・・・。

 

※「師よ、どうか指示をお与え下さい。」 

 新参者が和尚に問うことは勇気が必要なことです。

 修行を一歩でも進めるための特別な何かが聞けると期するところがあったのかもしれません。

 何をどうすれば悟りの機縁となるのでしょうか。

 

※「朝ご飯は食べたか。」

 24時間自己が働いているのではないか。「朝ご飯は食べたか。」と這固(=即今のこれ)を経験しているはずだが・・と僧に聞きました。修行僧が漫然と食事をするわけがありません。作法にのっとて日々の食事に向き合っています。分別心が入る余地もなく「無我無心」で食べているその姿がそのまま「本来の面目」ではないかと逆に問いただされました。ここで修行僧が「無我無心」で食べていたことに気づけばよかったのですが・・・・。日々「本来の自己」を見性しているではないか。主観で生きているのに、自分を客観として見てはいませんか。

 和尚が食べたか食べないかを聞いてどうするというのでしょうか。僧の一人一人の健康管理を任されているわけではありません。 和尚が食べたか食べてないかという二項対立で「はい・いいえ」を聞くわけがないのに、分別心で「はい、食べました」と応えてしまいました。修行僧はただの会話だと勘違いしてしまったようです。

 「趙州は口を開いてその胆を見せ、心肝を露出してしまった。」 

 「ご飯は食べたか」[←]「それ、それ」全て「本来の面目」が働いているではないか。と胆を見せています。答えを言っています。

※「それでは、持鉢を洗っておきなさい」

 「はい、食べました」と自らを客観として答えています。「はい」と「いいえ」の二項対立で応えてしまいました。僧が聞かれたことを理解できずに的外れの答えをしたので、「それでは、」と間髪を入れず次の問(=答え)を発しました。「掃除をしておきなさい」でも「草取りをしなさい」・・・何でも同じです。あえて、食事が終わってすぐにやっているはずの「持鉢を洗っておきなさい」と言いました。「持鉢を洗っている」その時の「本来の面目」を自問自答するように促しました。

 食事によって命を繋いでいるのですから、大事な鉢でないわけがありません。「無我無心」のままに巧に「洗う」が行われてしまっているのではないでしょうか。

 

※ 鐘をもって壺だというようなものである。

 「露堂々」であり隠されていることなどありません。「ご飯をたべたか。食器を洗っておきなさい。」という問い(=答え)が叩けば良い音を出す鐘なのに、叩いても音のしないこと(=ただの会話)のように解釈してはなりません。例えば当たり前のこと当たり前にすることだと解釈しては壺を叩いていることになります。日々のことを黙々とやりなさいという道徳的なものにすり替えてはいないでしょうか。何を聞かれ何を答えるべきかという日常会話ではありません。

 

<三昧(=禅定)では迷えません・混乱もありません>

 無心に花に水をあげている。無心で食器を洗っている。無心に太鼓を叩いている。無心に踊っている。無心に蝉の声を聴いている。無心に剪定している。無心にコーラスで声をだしている。大笑いしている。無心に草取りをしている。一心不乱に土を耕している。寛いで湯に浸かっている。料理を作っている。ラジオ体操をしている。趣味に没頭している。・・・このような自分に迷ったり混乱するでしょうか。

 

<事実に気づきましょう>

 私たちは知らず知らずのうちに捉えている(=捉えられている)世界は、自らが主体であって「私」以外全てを客体であるとみなしています。「私」が主人公となって働きかけていると思い込んでいて疑うことがありません。事実は「一切転倒」です。

 自らが構築したバーチャルの世界で、自らが主体として動いているかのように認識しています。

 私(=バーチャルの中の主体)が花に水をあげていると認識します。事実は花に水をあげているだけのことです。事実の後に分別からなる「私」が何かをしていると認識してしまいます。「花に水をあげている」という事実の後に、事実を振り返って私(=バーチャルの中の主体)が「私が花に水をあげている」と事実を客観として解釈します。

 手と口が勝手に食べているのに、私の手と私の口を使って私が食べていることにしています。

 「ご飯を食べた」という事実だけなのに、二項対立では主体と客体が登場し「私がご飯を食べた」ということになってしまいます。

 自分の名前を呼ばれて、「無我無心」に「ハイ」と応えただけが事実です。その後、主客があると振り返えり「私がハイ」と応えたと認識しています。分別もなく「ハイ」と応えたのは「本来の面目」の働きのままですが、振り返って考えた後には「私がハイ」となってしまいます。

 ただただ分別なしに「お茶を飲んでいる私(=本来の面目)のまま」ですが、すぐに「私がお茶を飲んでいる」となってはいませんか。

「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたててのむばかりなる事と知るべし」(千利休)心を込めてを通り越して自ら(=分別心)の所在なくただ茶の湯と一体となって・・・・。

「稽古とは 一より習い十を知り 十よりかへる もとのその一」(千利休)

 子供は分別心なく(=無我無心)お茶をいただきます。稽古はこの子供のような振る舞いにまで昇華するということでしょうか。

 目覚めた直後は「よく寝た私(=本来の面目)」であって、その後に「寝た」ことを振り返り「私がよく寝た」と言ってしまいます。「私」がという主語は分別後の「私」です。「私が考えている」のではなく、「考えている」ことで「私」をあとづけしています。考えを追認している「私」がグルグル回っているだけかもしれません。

 

******

 前回の「父母未生以前の本来の面目」を復習してみます。

「父母」とは分別(=二項・相対)のことであり、「未生以前」とは分別(=考え)で「私」が出現する以前であると想像してみてください。

 「見ている」を分析すると、「私」という実体のある何かが見ているのではありません。10人に「私」そのものを指さしてもらっても、それぞれ異なる所を指さしていることと思われます。だれもがここが「私」の所在であるとの確証はないようです。「私」はあとづけであって、何にでも「私」をつけることができます。

 見えているという「事実」が先にあります。「倶胝竪指」という公案があります。一指でもグーでもパーでも同じです。眼の前に出されたモノに対して「これなんだ」という認知そのものが「本来の面目」。

 私たちは見えていることを認知(=本来の面目)したあとに「私」をくっつけています。「私」が見ようとして見ている訳ではありません。主も客も出現する以前の「あるがまま」が眼前にあり、それが認知されているその意識。

 「私」が見ているのなら見たくないものを見ないようできてもいいはずですが・・・。美も醜も分別なく勝手に見えています。見えている事象(=現象)に「私」は必要ありません。見えた後に美だとか醜だとか分別して自らの感想を言っている「私」を出現させています。

 熟睡しているときに「私」はどこにいるのでしょうか。「私」が心臓を動かしたり脈拍と調節したり消化したりしているでしょうか。「私」が身体であれば病気になる前に対処できてもいいようですがそれはできません。「手」は対象として認識されるので「私」ではありません。対象となるものは「私」そのものではありません。

 「父母未生以前の本来の面目」とは、分別が起こる前(対象を認識する「私」)に認知しているだけの意識(=本来の面目)。分別後は「本来の面目」ではなく普段のあとづけの「私」が使われています。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(35)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。