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荘子ー12 [荘子]

 もし、特定の一本の指をさして「これが指だ」というと、他の多くの指は除外されて、指ではなくなってしまう。だから特定の一本の指だけをさして、これを指だというのは誤りだ。

 「指でないもの」というのは、特定の指から除外された多くの指をさす。特定の個物から出発しないで、個物でない普通の(万物斉同の立場)から出発し、そこから個物の姿をながめ、個物が絶対的な実在ではないことを知る。

 白い馬をさして「これが馬だ」といえば、他の毛色をした多くの馬は除外されてしまい、馬でなくなってしまう。だから白い馬をさして、これが馬だというのは誤りだ、というのである。

 正しい真理の見方は、まず普通の立場、万物斉同の立場にたち、そこから個物の世界をながめることである。 「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P179 」斉物論

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 特定の個物から出発しないで、個物でない普通の(万物斉同の立場)から出発し、そこから個物の姿をながめ、個物が絶対的な実在ではないことを知る。

 「指」という言葉を知らない子供にとって「指」は最初から意味のあるものではありません。単に動く何かであり、意味などなく動きとして見えていただけかもしれません。「指」として教えられ「指」と認識するようになり、この世界で共通に使われているルールであり「声」に出すことに意味があるものと理解できるようになっていくようです。

 しかし、このルールも場所や人が変われば何とでも変化するもので「ゆぴ」と発音しても、通じれば何でもいいということです。  私たちは、意味づけして「言語ゲーム」を楽しんでいるかもしれません。ドイツ人の哲学者が真剣に思考して解き明かして構築された「論考」であってもドイツ語で言われても鳥のさえずりよりも迷惑に聞こえるかも知れません。モフモフ君たちには、人の立ち話には何の興味も湧かないことも至極当たり前のようです。

   一旦、言葉をまったく知らない状態に戻ったとして万物を見ると一切存在にはラベルはついていません。  あらゆるものに「名前」があるというルールを前提として世界を見ると、あらゆる物が分離していてる世界となっています。存在の一つ一つが形や色によって分離されていると見るのではなく、そもそも一切は一つであって境界もなく分離のない「あるがまま」に存在している万物斉同(=区別差別のない顕れ)であると見る。


   「愛している」と言えば、その言葉を発した時以外は「愛していない」ことになる。一度「愛している」と言えば常に言い続けるはめになります。毎日言い続けるとただの挨拶のように感じられ感動もなくなるかも知れません。  「おいしい」と言ったことがない人が、「おいしい」と言えばいままでの料理は「おいしくない」と勘ぐられます。

  ここでは「真理」の見方は個々の事象を識別して見るのではなく、差別区別のない視点で見てはどうでしょうかと提案しているようです。

 「真理」も個々人で異なる解釈があるので、頭の中での「言葉ゲーム」が繰り広げられているだけかもしれません。  数学記号や音符や図面や化学記号などは、誰もが間違いなく使える共通表象かもしれません。言葉は後期ヴィトゲンシュタインでの「言語ゲーム」として使われているかもしれません。

 音が聞こえるということは静寂があるということです。分かるということは分からないがあったということです。知るということは知らないがあったということです。

 もし目覚めていな前提で、「目覚める」ゲームをするのならば眠っている自分が、自分を眠っている自分だと設定する。眠ったままの状態で、眠った自分を眠った自分が起こさなければなりません。わざわざ眠った自分という設定がなければなりません。眠った自分を眠った自分認識しているという面倒なことを眠った自分ができるのでしょうか?すごい想像力が必要です。

 もし、眠った自分をどうにか眠った自分を目覚めさせたとします。目が覚めたのならば、眠った自分はそこにはいません。目が覚めた人が他の人を観察すると、他の眠っている人は眠った状態のままです。目覚めた人が催眠術をかけて眠らせているわけではないので、眠っている人の目を覚まさせることはできません。もし目覚めた人が眠っている人を目覚めさせることができるのなら、お釈迦様や覚者ならすぐにでも目を覚めさせているはずです。  覚者に目を覚めさせていもらった人は、目が覚めて覚者になったのですから他の眠っている人を目覚めさせることができるはずです。ネズミ算よろしく、あっという間に全員が目を覚ますことになります。

 しかし、覚者は眠った人を目覚めさせることはできてはいません。なぜなら架空の物語に他ならなからです。  すでに「それ=一つの意識」であり、眠ってもいないし目覚めてもいないからです。すでに「それ」であるのですが、社会生活での「私=アイデンティティ」だけが働いているとの前提があります。知らず知らずのうちに「◯◯ゲーム」の中で生きているようです。「言語ゲーム」の中でさらに「◯◯ゲーム」に夢中になっています。

 覚者は「悟りを開いた」とか「悟った」とかは言わない・言えないようです。何故なら悟りはないからです。共通の状態とは何もない「空っぽ」だから、だれもがそうだったのかと分かる筈です。何かあるのなら、あなたの得たものと私の得たものを比較対照して検証しなければなりません。比較検証しなくても誰もがそうなんだという「空っぽ」。

 何年も何もしないで坐っている只管打坐と庭掃除などの作務で何を掴んだり得るのでしょうか。掴むことも得ることもできないと分かることに時間がかかるのには、脳の掴む得るという癖を取るためです。

 すでに「それ」であることを見抜くだけです。「それ」開かれていて不生であり進歩とか高次とするものではない完成されている「それ」です。すでに「それ」でなかったら「それ」になることなどできません。もし人間がちっぽけな身体と脳だけの存在なら、数十年瞑想したり坐禅したり公案したりしただけで「それ」に変容できるでしょうか。瞑想者の身体がだんだん金色になるとか、脳が変容して身体的な苦しみも精神的な苦しみも消滅できるバイパス回路ができたとか。

 臓器が傷ついて痛みの信号な出なかったら大変です。

 死は問題でもなんでもありません、ただ当たり前の現象であって思考や修行で解決するようなことではありません。囚われて考えている方が問題です。


「神は動詞であって、名詞ではない」トーマス・フラー


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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