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荘子ー26 [荘子]

 齧缺(げっけつ)が師の王倪(おうげい)に問いかけた。

 ①「先生は万人が一致して正しいとみとめるような事実を、ご存知でしょうか」

 「わしは、そんなことは知らないよ」

 「それでは先生は、自分が知らないということを、ご存知でしょうか」

 「それも知らないね」

 「それではいっさいの物は、何もわからないということになるのでしょうか」

   すると、王倪(おうげい)は答えた。

「自分で知っていると思っていることが、実はなにも知っていないことであったり、反対に自分では知っていないと思っていることが、案外に知っていることであったりするものだ。  それでは、お前にたずねてみよう。人間は湿気の多いところで寝起きすると、腰の病気が出て、半身不随になって死んでしまうが、鰌(どじょう)などにはそんなことはないではないか。また人間は高い木の上に住んだりすると、ふるえあがってこわがるが、猿はいっこうに平気だ。②人間、鰌、猿のこの三者のうちで、どれが本当のすみかをしっていることになるだろうか。  人間は家畜の肉を食い、鹿は草を食い、百足は蛇をうまいと思い、鳶や烏は鼠を喜んで食う。③この四つのもののうちで、どれがほんとうの味を知っていることになるのだろうか。

 猿はいぬざるを雌として追い求め、トナカイは鹿と交わり、鰌は魚と仲良く泳ぎ回る。④ところで毛?(もうしょう)や麗姫(りき)は、人間はこれを絶世の美女だというけれども、魚はその姿を見ると、恐れて水中深く沈み、鳥はその姿を見ると、驚いて空高く飛び去り、鹿のむれはその姿を見て、一目散に逃げ出すだろう。

 ⑤わしの目から見れば、世間でいう仁義のけじめや、是非の道筋などは、わけがわからないほどに混乱しており、わしにはさっぱり区別がつかないよ」

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P192P193」斉物論

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①法則は、いつどこでも一定の条件で同じ結果となることとして定義されています。地球上での「万有引力の法則」は誰でもすぐに確認できます。

 「東から日が昇り西に沈む」というのは、日が昇る方向を「東」日が沈む方向を「西」と人間が勝手に定義しているだけのことです。動物には「東西南北」という文字(=反転して表現されている形)も発音(=空気中を伝わる振動)も知る必要はありません。我々も常に「東西南北」の方向を知らなくても何の支障もなく生活できています。

 万人の経験や知識やアイデンティティが異なるように、各人の思考過程や思考結果が一致するということはありえないことのようです。例えばある風景を見て同じ箇所を同じ時間凝視することがないように、見ている風景から一致した知見を得ることはありえないことです。

 ただ物事を知るということだけではなく、理解することで問題自体を消失することに意味があるように思われます。自身の身に降りかかってくる様々な事象が問題となる前に、「当たり前のこと」であるとか「どうでもいいこと」なんだと見抜くことで問題にしない囚われない。悩み・葛藤(=問題)とならないところまで徹底的に理解すれば悩む必要がなくなると思われます。問題一つ一つを徹底的に理解していくには膨大な時間と根気が必要であって不可能に近いかも知れません。

 それよりは根本的に問題となる社会的な「私」の比重を下げて、アイデンティティやプライドなどどうでもいいという地点に立って無思考を体験するのが手っ取り早いかもしれません。  坐禅では、誰でもないし何も問題にしないという心境でいるという体験のようです。問題(=葛藤)のない自己と出会うことになります。

 「不射之射」にあるように、弓をやり尽くし執着心は失せていてます。名人・達人と呼ばれることさえはばかられ、何でもないただの人となっています。人々が勝手に名人に祭り上げ、別格の人としていること自体が滑稽なことのようです。社会的な「私」(=身体という寿命があり一時的な私)は何者かでありたい。何かを知っている・何かを極めた・何かを掴んでいるということがアイデンティティとなっています。社会的な「私」は、何者であることで自己の存在証明としているようです。何者であることを極め尽くすと何者でもなくなる。最初から何者でもないと気づいたり見抜いたり。

 将来人間や社会が進化しても、悩み・葛藤(=問題)が尽きることはないようです。我々に問題が降りかかってくるのか、些細なことをいちいち問題にしているのかどちらでしょうか。問題を解決するために何かを知るのがいいのか、そもそも問題にしないために理解するのがいいのではないでしょうか。

  <未来の自分>  

社会的な「私」の問題の一つに将来への不安があります。未来を知ることも自身の未来を自由に変えることもでないようです。未来の自分が未来の状況に適切に対応できるかどうかを実験してみる。自分自身が本当に上手く対応できるかどうか確かめてみましょう。

・10分後の自分は10分後の状況にちゃんと対応できているかどうか。

・10分後の自分で10分前の疑っていた自分をどう思うかを確かめる。

・10分後の自分自身がちゃんとできていることを確かめる。 ・10分前の自分が疑っていたのも自分であり10分後も今の自分も同じ自分。

・10分前の自分の不安な気持ちそのものは探してもどこにもない。

・10分前は完全に消え去っていてどこにもない。

・今は「今の自分」がちゃんと対処している。10分前の自分は存在していないので、10分前の自分に対して心配することはない。

・今の自分は疑うことなく今ありつづけていて生きています。

・今・今・今という連続の自分でOKである。色々の個性や生き方があることを自分自身が自分自身を認める。違う何かになろうとしないし、なれないことを理解する。

・未来の自分は信頼にたるものであり、その時の自分に任せる他ない。

・将来に対して心配する必要は何もない。起こることが起こるだけで、やるべきことをその時やるだけ。

・10分を10秒・1分・1時間・1日・1ヶ月・1年と変化させても同じだと試して見抜く。


 健康な時は健康を謳歌すればよく、病気の時は病気の自分に任せてはどうでしょうか。病気の時の自分は信頼にたる存在であるはずです。その時々で生きているのはその時々の自分自身です。今の自分を今の自分なりに精一杯生きているということを知れば、先のことを知る必要はないかもしれません。今こうしてちゃんと生きている自分自身がいるということは、先の自分自身も状況に対処して生きていいるはずです。

 社会的な「私」にだけに囚われることなく、知らなくても生きているということを実感しながら生きていたい。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

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荘子ー25 [荘子]

真の大道には、名づけるべきことばがなく、真の偉大な弁舌は、無言のままのものである。

真の大仁は仁を現わさず、真の行いの正しいものは謙遜の徳を示さず、大勇のあるものは人を害(そこな)うことのないものである。

 ①道もあからさまになれば、道としての本質を失い、ことばも弁じたてれば、真実に達することができない。仁もたえまなくつづけば、真の仁とはならず、行いの正しさも程度を越すと、偽善となる。

②勇も人を害するほどになれば、真の勇ではなくなる。この五つの弊害は、より完全にしようとして招いた逆効果であり、ちょうど円を描こうとして四角に近づいていくようなものである。

 ③だから人間の知恵というものも、これ以上は知ることができないという限界のところでとどまって、はじめて最高の知恵となる。

 はたして、ことばとしてあらわれないことば、道としてとらえられない道を知る人間があるであろうか。もしこのような人間が存在するとすれば、その境地は、天府ー自然の宝庫とよぶにふさわしい。そこでは、いくら注ぎ込んでも満ちあふれる恐れがなく、いくら酌(く)みだしても尽きることがない。しかも、それがどこから湧き出るのか、その源を知る由もない。この境地は、葆光(ほうこう)ー包まれた光とよぶにふさわしものである。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P190」斉物論

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③だから人間の知恵というものも、これ以上は知ることができないという限界のところでとどまって、はじめて最高の知恵となる。


 知ることで何かを達成したり何者かになるのなら、聖書や経典を憶えている人は何者かになっているはずです。常に知ること仕事としている学者や哲学者は何かを掴んでいて、ある境地にすでにいるはずです。究極の知識であれば、それ以上求める必要のない最高の知恵を持っている人たちにちがいありません。

 いつまでも学びつづけるということは、社会的な「私」が完成を求め続けているからではないでしょうか。

 私たちの本質は個別性を持つアイデンティティでしょうか。それとも透明で分離・分割できない言葉では表すことのできない無限の「それ」でしょうか。

 何かを知ることで本質が変わったり本質を掴んだり本質を得たり本質に到達するでしょうか。知識は社会で生きていくためには不可欠なもののように思われています。社会で生きていくためには知ることは大切なことですが、知らなくてもいいことや知ってもどうにもならないことの方が多いようです。

 宇宙物理学者でなければ月の地形を知っても社会では必ずしも必要な知識ではありません。有名人が何を食べたとかどいう趣味があるとかどんな家に住んでいるとかどんな服を着ているとか・・芸能リポーターには生活の糧になる情報ですが知らなくても困ることはありません。

 ユーチューバーは、人間の知りたい見たいという欲求を満たすことで代価を得ているようです。

 坐禅によって何かを知ることがあるでしょうか。坐禅で何かを知って何かに成る・何かを得る・何かを掴む・何かに達成した・何者かに変化した・・・ということがあるでしょうか。お釈迦様は苦行しても何も達成することがなかったようです。坐禅では何者でもなく何も得ることもなく何も掴むこともなく何者かに成るわけでもありません。瓶をいじったり逆さにしたりしても空っぽであることに変化はありません。

 本質(=本来の自己)は何でもない空っぽのままに在るのですが、社会的な「私」は何者かでありたい何かを得たい何かを掴んでいたいという欲望から離れられないようです。


 魚はすでに魚として完全であり、魚が魚になろうとする必要はありません。鳥はすでに鳥として完全であり、いまさら鳥になりたいと努力する必要はありません。人間は自身を完全でないとして、完全な人間となろうとしています。人間はすでに人間として完全であるのに、人間を超えた何者(=例えば仏陀・・)に成ろうとしています。人間としての機能や本質を超えた何かがあるでしょうか。金色の体に変色したり、言葉を交わした全員を悟らせる能力があったのでしょうか。知ったり考えたりすることで、何でもないことを見抜くことは難しい。一切の事象が無常であり囚われる必要がないということを、「苦」という言葉を使うことでわかり易くしたのではないでしょうか。人は「苦」であると気づけば、一生懸命に排除しようとします。


   私たちは、全体から分離・分割していると思っています。しかし、すでに一なる全体であり全体になろうとする必要はないかもしれません。分離・分割しているという思い込みから見抜け出ればいいだけのことかもしれません。

 社会的な「私」は社会的に意味や価値を持った「私」でいたい。何者かである人間(=完全)でありたいと思っています。

 すでに本質(=意識)のままであり、本質(=意識)が劣化したり穢れたり老いたりしているでしょうか。社会的な「私」を持ち出す以前にある純粋透明な意識は完全であり、意識の全てを知ることはできないようです。  意識があることで五感が働き、五感が感受した時点で全てを知っています。分別が働くのは、社会的な「私」がより良く行動するためのようです。

 本質の部分では感受した瞬間にすべてを知っている状態です。「ツクツクホーシ」「ゲロゲロ」「チュンチュン」という音だけがただ聞こえているだけです。ただの音(=振動)ですが、「蝉・蛙・雀」という言葉が連想されてしまいます。ただの固有名詞が浮かぶだけで終わればいいのですが、ここから物語を作ることで混乱や葛藤となっていくようです。


 例:蛙が鳴いたから雨が降るかな?そうだ洗濯物を干していなかっただろうか?子供に傘を持たさればよかった。いつ洗車しようか。部屋の窓を閉めただろうか。・・・どうでもよかったことなのに気になりだしてしまいます。些細なことが大きな問題になって「今」のことが手につかないようになることもあります。

 TVのニュースはほとんどすべてが過去のことです。すでに消え去っていることで知ってもどうすることもできません。我々は常に今この瞬間にいて、五感で感受しながら生きています。あらゆる事象が自然と湧き起こっていて尽きることがありません。無尽蔵な未知とと生きていいます。社会的な「私」以前の本質は、透明で分離・分割できないアイデンティティのない何でもない「本来の自己=それ」。


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荘子ー24 [荘子]

真の大道には、名づけるべきことばがなく、真の偉大な弁舌は、無言のままのものである。真の大仁は仁を現わさず、真の行いの正しいものは謙遜の徳を示さず、大勇のあるものは人を害(そこな)うことのないものである。  ①道もあからさまになれば、道としての本質を失い、ことばも弁じたてれば、真実に達することができない。仁もたえまなくつづけば、真の仁とはならず、行いの正しさも程度を越すと、偽善となる。

②勇も人を害するほどになれば、真の勇ではなくなる。この五つの弊害は、より完全にしようとして招いた逆効果であり、ちょうど円を描こうとして四角に近づいていくようなものである。

 ③だから人間の知恵というものも、これ以上は知ることができないという限界のところでとどまって、はじめて最高の知恵となる。

 はたして、ことばとしてあらわれないことば、道としてとらえられない道を知る人間があるであろうか。もしこのような人間が存在するとすれば、その境地は、天府ー自然の宝庫とよぶにふさわしい。そこでは、いくら注ぎ込んでも満ちあふれる恐れがなく、いくら酌(く)みだしても尽きることがない。しかも、それがどこから湧き出るのか、その源を知る由もない。この境地は、葆光(ほうこう)ー包まれた光とよぶにふさわしものである。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P190」斉物論


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②勇も人を害するほどになれば、真の勇ではなくなる。  私たちは純粋に他人を認めているのではなく、他人の行いを自分(=固定観念)の判断基準という尺度で評価しているようです。もし本当の他人であれば自身と異なっているので異なった考え方を持っているのが当たり前だとして受け入れなければなりません。  しかし、他人も自己と同じ基準でいることを望んでいるようです。他人も自分と同じ視点で世界を見て同じ感覚でいてほしい。  たとえば事件の当事者を観察する時も、被害にあったり苦しんでいるのが「私」ならという視点でとらえてしまいます。不誠実な他人に遭遇した時には、「私」だったらそんなことはしない。「他人」でありながら「私」の観念を押しつけているようです。


 我々も「他人」も「言葉・状況・現象」によって刻々と変化し続けています。この無常な「心」を的確に捉えたと思ってもすぐに変化していて掴みようがありません。我々は他人の心を知ることができないので、外見や態度・行動を見て判断せざるを得ません。「マッチ売りの少女」「裸の王様」「ロバと親子」などで表現されている外見だけで判断を下しているようです。「マッチ売りの少女」は幸せの中で死んでいったのに、死んでいる姿だけしか見えません。死んでいる姿だけで不憫に思うのもしかたありません。心境を知ることができないので、姿や行動だけで判断しています。つまり本質を見抜くことはできていないと言うことかも知れません。目の前の食物が地球のあらゆる素材(=土や水や栄養)や条件(=温度や輸送や作り手)が備わって在るということも見抜けません。

 表面上は威厳を持っている人でも「不安」の中で生きていることも見抜けません。外見と内面が必ず一致しているわけではないことは誰もが経験で知っています。他人を仮想空間のアバター(=分身)として見のではなく、他人も現実空間の分身(=自分自身)として認識する視点を持ってもいいかもしれません。

 他人を傷つけるのは自身を傷つけるのと同じこと。他人の喜びは自身の喜び。有り難いことに他人の痛みと一体となることはありません。

 現代社会で勇敢になれるのは、ルールがあるからこそです。スポーツはルールに合意して競い合います。ルールを逸脱しない限り負傷しても異を唱えることはありません。大金が動くプロの格闘技であれば負傷するを嫌がっていては成り立ちません。

 ルールや合意のない戦争では憎しみが生まれ消えずに残ってしまいます。同じ地球で生まれて暮らしているのですから、奪い合うよりは与え合うほうが効率がいいとだれもが考えます。特定の人が利益を得たいとか、自分たちだけは安全に暮らしたいという自衛本能から抜け出せないことに起因しているからかもしれません。

 完全というのは社会的な「私」が思い描く勝手な理想であって、そもそも自然に不完全というものがあるでしょうか。鳥や魚はそのままで完全であり完全に与えられている環境に適合しているのではないでしょうか。不完全な飛び方をする鳥や不完全な泳ぎ方をする魚がいるでしょうか。不完全な鳥の囀りや虫の鳴き声があるでしょうか。社会的な「私」は理想があるので、理想とのギャップを不満としています。あまりにも完全(=理想)に固執すると、自らの首を締めることになります。

 すでに完全であるのに完全ゲームに自らが没頭して苦しんではいないでしょうか。完全の行き着くところはどういうところでしょうか。やり尽くして何もすることがなく、やりたいようにできている。するでもよししないでもよし。思いのままというのは思いに振り回されないとういうのと同じかもしれません。無為であって自然のままに生きる。あがくことを止めて、ありのままそのままでいればすでに終点にいるのではないでしょうか。

 この世界が不完全というのならば、いつまでも満足することがなく他に強要したり自らを卑下するばかりです。イソップ寓話の「父親と二人の娘」の物語で天気を恨むよりは、どんな状況でも受け入れる。人間が従わざるをえないことにそのまま観念できるかどうか。


 社会的な「私」に振り回され、幻想の完全(=理想)を求めていては苦しみは果てなく押し寄せてきます。

 怪我も病気もしない身体であることなど不可能です。病気の時は本物の病人になるほかありません。病気を認めなかったり病気を味わうことをしない偽者の病人であは、病気を乗り越えることが難しい病気もあります。  好物の甘い食べ物だけを食べ続ければどうなるかは誰でも推察できます。酸味・苦味・渋み・甘味・旨味などが混ざり合うことで深みのある料理が味わえるのではないでしょうか。苦しい・恥ずかしい・苦々しい・くやしい体験や思いをしてこそ、人生の醍醐味を感じられるのかもしれません。


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荘子ー23 [荘子]

 真の大道には、名づけるべきことばがなく、真の偉大な弁舌は、無言のままのものである。真の大仁は仁を現わさず、真の行いの正しいものは謙遜の徳を示さず、大勇のあるものは人を害(そこな)うことのないものである。  ①道もあからさまになれば、道としての本質を失い、ことばも弁じたてれば、真実に達することができない。仁もたえまなくつづけば、真の仁とはならず、行いの正しさも程度を越すと、偽善となる。②勇も人を害するほどになれば、真の勇ではなくなる。この五つの弊害は、より完全にしようとして招いた逆効果であり、ちょうど円を描こうとして四角に近づいていくようなものである。

 ③だから人間の知恵というものも、これ以上は知ることができないという限界のところでとどまって、はじめて最高の知恵となる。

 はたして、ことばとしてあらわれないことば、道としてとらえられない道を知る人間があるであろうか。もしこのような人間が存在するとすれば、その境地は、天府ー自然の宝庫とよぶにふさわしい。そこでは、いくら注ぎ込んでも満ちあふれる恐れがなく、いくら酌(く)みだしても尽きることがない。しかも、それがどこから湧き出るのか、その源を知る由もない。この境地は、葆光(ほうこう)ー包まれた光とよぶにふさわしものである。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P190」斉物論

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荘子はあくまで万物斉同(=人間の分別が働く相対的概念以前には対立差別はない)の立場に立って論じているようです。誰もが「本来の自己」で万物斉同として見ていますが、社会的な「私」のアイデンティティや固定観念(=社会的な「私」)が自然に働いて分別が自動的に起こっています。この分別の働きによって善悪や白黒として判断しているのが我々のようです。この判断は自らが成長の過程で作ってきた「クセ」であり、本能的な自己防衛プログラムかもしれません。あまりにも当たり前すぎるので、自らが自らの意志で決定したと疑うことはありません。

 自らが自らの決定に従うのは当然ぜあり、誰もが自身が正しいとして行動しています。

 自らの下したプロセスは他人に知られることはありません。よほどのことがなければ、自らの決断を疑い自らを省みる人は多くはいないようです。  自らの決定に違和感があるのに、自己正当化(=自分かわいい)というところに自然に収束するようです。自己(=社会的な「私」)を守るために一層の理論武装をするようです。新たな概念を得たり掴んだりするのは社会的な「私」であって、固定観念は本能(=安心・安全・安定を求め危険を回避したい)による幻想(=思い込み)であると見抜けるかどうか。自己の無意識の行動パターンを観察する地道な取り組みが必要かも知れません。

 犬が自分自身を省みて、何故私は「吠えてしまうのか?」と自問自答することはないと思われます。自問自答するのは人間にだけに与えられた能力かもしれません、使って損をするわけではない思われます。 ①道は絶えず変化しているダイナミックなものであり、言葉というスタティックなものでは表すことがことはできないようです。

 あらゆる存在に識別名をつけたとしても動きのない存在としてしか見ることしかできないようです。識別名をつけることで正確に識別できたとしているのは、表面上のことであって瞬間瞬間の生滅している現象をとらえることはできないようです。一切が常に変化して生滅している現象を捉えたと思っても、その時には既に別の姿に変化しています。知られ得ないということが道の本質であるのに、道を言葉で明らかにしたとするのは本質ではないということでしょうか。

 弁舌すればするほど真実から遠ざかり無言でいるしかありません。存在は一であると知っているのに、分離や分析や対立差別からなる「言葉」を使えば使うほど存在から離れていくことは当然のことです。真実は分割できるものではないのに分割するクセがついています。このクセを持ち出す以前(=本来の自己)に立ち返りただ無言で見ているしかないようです。

 他人を大切に慈しむ気持ちもすぎれば、特定の対象に慈しみを注ぐことになり区別差別となっていくようです。自己の正しさを主張するあまり押し付けとなることもあります。荘子の「君子之交淡若水」の付き合いがいいかもしれません。


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荘子ー22 [荘子]

 およそ、道というものは、最初から限界のないもの、限定できないものである。ところが、これをいい表すことばというものは、対立差別のあいだを往来して、絶えずゆれ動くものである。このために、ことばによって表現されるものには、限界があり、対立差別があることになる。

 それでは、その対立差別の例をあげてみよう。左に対しては右があり、論に対しては議があり、分に対しては弁があり、競に対しては争がある。この八つの区別は、人間の性質にそなわったはたらきーいわば本能的なものである。

 このようにことばというものは、ものの真相をとらえることができない。だから宇宙の外のことについては、聖人はこれをそのままそっとしておくだけで、これについて論じようとはしない。

 また宇宙の内のことについては、聖人はいちおうは論ずるもののの、深く立ち入って議しようとはしない。「春秋」は世を治めるための書であり、先王が記録したものであるが、聖人はその内容について議するものの、是非善悪の判定をしようとはしない。

 道をむりに分析しようとするものは、必ず分析し尽すことのできない部分を残すものである。むりに弁別しようとするものは、弁別し尽すことのできない部分を残すものである。それは、どのような場合をさしていうのであるか。

 聖人は道をそのまま自分の身に抱こうとするのに対して、俗人は道を分析して論ずることにより、これを他人に誇示しようとするものである。だから、私はいおう。「いかに細かく分析して論じようとも、他人に真理をあますところなく示すことは不可能である」と。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P189」斉物論

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 言葉はコミュニケーションの道具であり、指示や情報共有や問題解決のために使われているようです。初歩的なプログラム言語は、機械に指示命令を書き込んでおいて状況に応じて順次遂行するようになっています。今のプログラム言語は学習したり予測したり問題を事前に発見したりする知能を身につけています。高速処理であり恣意を介入させず、あらゆる分野で人間を凌駕していくようです。

 生命の本能は安全・安心でいたい。安定した生活を維持し危険を回避し、できるだけ健康のままで生きていたい。願わくばユートピアで永遠に生きたいと願っている宗教もあります。  誰かに、死んだ人はどこに行くと聞くと一様に天国へ行きましたと言います。殆ど全員が天国へ行くのなら、天国もこの世も変わらないのかもしれません。何を想像しても、新たな概念で色々な世界を創造することもじゆうです。想像力は人間だけができる素晴らしい能力です。六道も作ることができるし信じることも自由です。天国という概念が作れるのなら地獄という概念が生まれるのは必然のことです。存在の確認がなくても頭のイメージですから何でも作り出せます。


<自問自答>

 宇宙は偽りなのかそれとも真理なのでしょうか。

 宇宙物質から作られ、宇宙に属している我々は偽りでしょうか。

 存在が真理ならば、真理を見ないでいることができるでしょうか。

 真理の中にいて真理を見ているというのに真理を知らないと言えるでしょうか。

 同じ空間に生きているのに聖者だけが真理を知っていて、聖者だけが救われていると言えるのでしょうか。

 聖者以外の人はどうやって真理(=宇宙)から分離して生きていけるのでしょうか。

 聖者は最初から聖者でなければ、どの瞬間に真理と一体になるのでしょうか。脱皮する?

 聖者がもし何かを掴んだり何かを得たとしたら、それは一体どこにあるのでしょうか。

 聖者が何も掴んだり得たりしなければ、我々が掴んだり得たりしようとしているだけでしょうか。

 当たり前の四苦八苦を当たり前と受け取れないことが苦悩・葛藤でしょうか。

 苦悩・葛藤がないということは、意味のないことをあえて思考しないとおなじことでしょうか。

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 本来「一つ」であり感覚や感情は自然に消えていくだけ。感覚や感情を「言葉」に変換して存在させ続けているようです。「言葉」を扱う何かが存在しているに違いない。その何かとして存在しているのが、社会的な「私」かもしれません。社会的な「私」は、自らが思考することによって全体から分離した何かとして存在させています。  思考もただ生じては消え去っているだけなのに、入力された感覚は自動的に「言葉」に変換されて記憶・記録できます。ただのイメージなのに実在のように扱っているようです。記憶や記録が消えてしまえば感覚や感情のように消え去っていると解るのですが・・・。

幼児の頃の記憶が無ければ幼児としての存在は無いに等しいのではないでしょうか。実際に幼児ではないので、過去など存在していません。ただの思い出(=記憶)であって実体はありません。

 自らを一なる真理からわざわざ分離して、真理を分割・分析しすることで知ろうとしています。一つから離れることが智慧でしょうか。言葉を駆使して分析することは、興味が尽きることがなく面白いものです。

 我々が行き着かなければならない終点は、何も問題の無い地点。元から分離していない「一つ」であり、わざわざ問題を作って遊んでいることが問題かもしれません。禅の公案は頭で考え、その公案を解く(=何も問題はない)。公案の意味がないと解ることが答えかもしれません。誰(=自分)がどこから来たかを考えても意味はありません。(始祖西来意)生きていて問題があることが問題です。

 知る意味もなく問題とする意味も無かったということを本当に理解します。答えが解ろうが解るまいが、呼吸して食べて排出して寝て、行住坐臥しているのが人間だということかもしれません。どんなに頭で悩もうが小石一つ動かすことはできません。考えただけでは何もでず、実際に小石をつまんで動かすしかありません。作務をしなければ綺麗に保つことはできません。

 「老病死」から解放される人などいません。「苦」と思わずに当たり前の事であり理にかなったこととして気にしないでいるしかありません。

 哲学や宗教や真理を説明する書物を読み漁っても切りがありません。細かく切り刻んだものをくっつけても「一つ」にはならないようです。

 即効性のない科学知識の探求にお金をつぎ込むことよりも、今住んでいる地球の温暖化を食い止める研究や活動のほうが優先されるべきかもしれません。


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荘子ー21 [荘子]

いま、有と無の差別さえ、その実在が疑わしいことを述べた。とするならば、大小の差別などは、もちろん問題にならない。

 だから天下には、秋のけだものの毛先の末より大きいものはなく、泰山はちいさいものだとか、幼くて死んだこどもがいちばん長生きをし、七百歳まで生きた彭祖(ほうそ)は若死にをした、などという逆説も可能である。さらにつきつめていえば、永遠の天地も、わがつかのまの人生とひとしく、かず知れない万物も、われひとりにひとしい、ということもできよう。

 このようにして、すべては一つである。一つであるとすれば、対立差別を本質とすることばを用いて表現することは不可能であるから、「一つである」ということも、さしひかえなければなるまい。しかし「一つである」ということを表わすには、ことばなしではすまされない。

 もしことばで表現することが避けられないとすると、「一つである」という事実と、「一つである」ということばが生まれ、あわせて二になる。この二を、最初の未分化の一とあわせると、三になる。このようにして際限なく数が加えられてゆくと、ついには計算の名人でも数えきれないほどになる。まして凡人の手には負えなくなるであろう。  このように無から出発して有に向かって進んでも、三つになるほどであるから、まして最初から有から出発して有に向かって進むならば、無限の多の世界にさまようほかはないであろう。

 多の世界に向かうことをやめよ。是非の対立を越えた自然のままの道に従うがよい。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P188」斉物論

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 言葉を使って「有無」の根源をつきとめられない、ましてや大小などの区別・差別について語ることはできない。はるか彼方の太陽系の端から地球を見ればヒマラヤも石ころも高さを判別できません。我々の親指で簡単に太陽を隠すことができます。親指の方が太陽よりも大きいということを体験できます。人間は自らの体を尺度・基準として使っています。(「万物の尺度は人間である」プロタゴラス)自らの身体より大きければ大きい、小さければ小さい、速ければ速い、長生きであれば長寿としています。植物も鉱物も人間も宇宙の中の物質であり何ら変わることがないのに別のものとしています。本来は「一つ」であるものを、言葉を使うことで多様な存在として分離分割しています。

 時間について考察してみます。存在している物質に対しては長さや質量を計測できますが、時間は存在していないので1日を24時間として1時間を60分と便宜的に表しています。秒という振動をある時点から累積して時間としていますが、時間は物質や存在ではないので時間を掴んだり取り出したり変形させたり壊したり蒸発させたりはできません。液体は蒸発させたり冷却して固体にできるものがあります。固体は分解したり壊したり接合したり溶かしたりできるものもあります。

 時間は存在している物と同様に扱うことはできないようです。空間があれば動くことができるので、時間の概念が生まれたと言えるかもしれません。例えば大きなホワイトボード(=大きな空間や記憶領域)には30分前の文字を存在させたままで、空いている空間で作業(=文字を書く)ができます。小さなホワイトボードは30分前の文字(=過去)を消さなければなりません。広いホワイトボードであれば30分前(=過去の記憶=時間)と今が共存できます。

 時間は存在ではないので見ることはできません。ただ針の動きであったり液晶の数字でしかないのですが、時間であるとしているだけなのではないでしょうか。

 人類創生から今まで生きている人と、数十年前に誕生して生きてい人を思い描くことができます。両者の生の長さは異なりますが、今を生きているという事実には何の変わりはありません。同じ今をそのままに体験しているだけです。過去の記憶を比べることなく「今ここでの生」の存在であれば永遠も短命も異なることはないのではないでしょうか。


   現象を言葉でどうのこうの解釈することは多の世界に向かうことです。無明ー20のバーヒヤ経にあるように、ただ見えているだけでそれ以上でも以下でもないようです。見えたものを自分勝手に解釈して多の世界に迷い悩んでいるようです。五感で何かを得たり掴んだりして何かになるわけではありません。感覚は単に感覚であって、どれだけ感覚を貪って解釈してもある境地に達することは無いかと思われます。

 美しい風景は単に美しい風景で感動してそれでOK.素晴らしい演奏も素晴らしい演奏として聴いてOK.美辞麗句も美辞麗句でOK.社会的な「私」は多の世界で生きて様々な体験をしています。根本は「一つ」であると知っていて、多の世界で遊べればいいのですが・・。

 神さまゲーム、政治ゲーム、資源ゲーム、マネーゲーム、悟りゲーム、宗教ゲームなどのお遊びに興じるのもこの世での楽しみであって、誰も妨げる必要もなく自由に遊ぶことが許されています。

 できることなら根本の「一つ」をベースにして、対立を超えた観点をもってほしいと言っているのではないでしょうか。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

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荘子−20 [荘子]

今私がここで何事かを言ったとする。そのとき、そのことばは、いおうとしている事実に接近しているであろうか。それとも接近していないであろうか。接近しているといっても、接近していないといっても、①正確に事実を表現していないという点からいえば、結局似たようなものである。とするならば、はじめから何もいわなかったのと変わりがないということになる。

 だが、ものはためしだから、いちおういってみることにしよう。万物には、その「はじめ」があるはずである。「はじめ」があるとするならば、さらにその前の「まだはじめがなかった時」があるはずである。さらにはその「『はじめがなかった時』がなかった時」があるはずである。

 また、有があるからには、まだ有がなかった状態、すなわち無があるはずである。さらにその前に「まだ無がなかった状態」があるはずである。さらにはその「『まだ無がなかった状態』がなかった状態」があるはずである。  このようにして、ことばにたよって有無の根源をたずねようとすると、それははてしなく続き、②結局その根源をつきとめることはできない。

 それにもかかわらず、われわれはか確実な根源を知らないままに、いきなり有とか無ということを口にするのである。③このような不確実な有無のとらえ方では、その有無の、どちらが有で、どちらが無であるか、わかったものではない。

 ④ところで、いま私は、このようなわけのわからないことをいった。それというのも、ことばというものが物事の確実な根源をとらえることができないためである。とするならば、私がいったという事実も、はたしてあるのかそれともないのか、わかったものではない。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P186 」斉物論

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①言葉はただの概念でありイメージでしかないので、各人の頭の中にあるイメージと照合して思い描くことも異なっているようです。

「山 yama」と発音しても、日々見慣れている「山」を思い浮かべるのではないでしょうか。各人の育った環境によって異なります。日本人なら「富士山」かもしれないし、フランス人なら「モンブラン」を思い描くまも知れません。「yama」という発音を初めて聞く外国人にとってはチンプンカンプンで何を言っているのか意味不明でありイメージも出てきません。

 事実を認識するには、お互いが同時に体験する他ないかもしれません。サングラスをしていたり感覚器官が正常に働いていなければ異なった認識になります。言葉を使って多くの表現で表現しても事実が伝わらなければ、言わないと同じことかもしれません。

②言葉では、有無の根源をつきとめられないと言っています。目の前にある一切の存在の根源は分からずじまいという結論です。存在していることは確認できますが、我々はただ存在と共に生きていくだけでです。存在の根源を知るよりは、存在にどのような働きがあるかを知ることのほうが有益なのは明らかです。

③存在の有無は、認識する人がいなければ存在として認められません。裸眼で見ることができないウィルスや素粒子は有ると信じているだけかもしれません。イグアスの滝は、ここ日本にいて目の前で見ることができないので存在していると断言できません。見えている存在が有ると確信できるのは認識している自分自身だけでかもしれません。

 電話口の相手が手に持っている存在さえ不明であって有無を断定することはできません。

④言葉では、物事の根源を捉えることができないといっています。我々が言葉を使うのは思考やコミュニケーションのためです。言葉がいい加減なのですから、思考によって根源を捉えられないというのはもっともなことです。


 一生懸命に思考して悩んでいることも、実は訳のわからないマヤカシの世界(=イメージの世界)の中で行なっていることかもしれません。我々人間は様々な「音」を出しているだけ。他の動物から見れば、得体の知れない生き物が止めどなく口を動かしているだけかもしれません。

 文字を読んで捉えていることは、自身と同意見の内容だけであることに気づくと思います。分かったと思っていることはすでに自身の中にある観念かもしれません。異なる意見はスルーして同調することだけを受け取っているかもしれません。

 つまり、自身の思いをその文章の中に見出しているのであって、他人の文章ではなくすでに自身のいいように文章を受け取っています。

 書かれている文章は文章を書いた人の意見ではなく、読んだ人が解釈して読んだ人の意見となっています。発信者(=表現者)のものではなく、受信者(=読者)のものとなっています。書いた人が決めているのではなく読んでいる人が決めていることになります。

 風景や鳥の鳴き声なども、見ている人や聞いている人がいることで存在しています。各認識体によって解釈は異なるようです。発しているのは一つですが、受け取る数だけ解釈が在るということかも知れません。つまり真実は幾つもあるし、幾つもあってもいいということかもしれません。自分だけの真実を言い合っているのがこの世界なのかもしれません。


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荘子ー19 [荘子]

昭文が琴をならし、師曠(しこう)が杖で地をたたきながら節をとり、恵子(けいし)が机によりかかって議論をしているのを見ると、この三人の才能は、それぞれ名人の域に達していることがわかる。いずれも才能のすぐれたものであり、だからこそ、その名が後世の書につたえられているのであろう。

 ①ただ、この三人はその道を好むと同時に自分の技能が他人よりすぐれていることを意識するところがあったし、その道を好むと同時に、これを他人に明示しようとする心があった。このように、かれらは明示すべきでないものを、ことさらに明示しようとしたために、恵子の場合は、堅白の論というような、わけのわからない議論に終わってしまったし、また昭文の子の場合は、父の業をつぐだけに終わり、生涯その業を完成することができなかったのである。

 もし、このありさまで道を完成したといえるのであれば、私だって道を完成していることになろう。またもし、それが道を完成したとはいえないというのであれば、私をはじめとする凡人はすべて、道を完成することはできないということになろう。

 ②このように他人に明示できるような道では、真の道を完成することは不可能である。だからこそ聖人は、暗くて定かでない光を放つことを念願とするのである。また、そのためにこそ、分別の知恵を用いないで、自然のはたらきのままに身をゆだねるのである。そしてこのことを、是非の対立を越えた明らかな知恵で照らす、というのである。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P184 」斉物論

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 ①ただ、この三人はその道を好むと同時に自分の技能が他人よりすぐれていることを意識するところがあったし、その道を好むと同時に、これを他人に明示しようとする心があった。

 「無言の言・無弦の琴・不射の射・無為自然」とあるように、究極を窮め尽すと何も言う必要もなく、為すことも無くなってしまうようです。あることをやり尽くせばもはややる必要も無くなってしまう。子供が成長する段階でおもちゃに飽きてしまうことに似ているかもしれません。

 剣の達人は剣を捨て、弓の達人は弓を捨て、書の達人は筆を捨て、茶の達人は茶を点てず・・・。良寛さんの書は、子供のような書から達人の書まで全てを表現できているようです。真の演者はどのような役でも演じることができ、自然であり演じてるようには見えません。達人と言われる人は、動きに無駄がなく時間を忘れて惹き込まれてしまいます。

 達人の域に達すると、他人が認めてくれたり自身でも気づき意識するようになります。世界大会で自身の技や能力を明示することができます。  ②このように他人に明示できるような道では、真の道を完成することは不可能である。

 この文章では、道の完成という観点だけから見れば他人に明示しているようでは真の道を完成することは不可能だと言っています。分別心(=社会的な自己=自我)が働きすぎれば自己満足や虚栄心が優先となり自己(=自我)の自尊心を満たすための行動が起こってしまう。常に「本来の自己」がベースにあって、単に表面上で自然に起こっていることです。道の完成ということに論点が在り、何も自己(=自我)を責める必要はありません。

 人それぞれに才能があろうがなかろうが、才能に気づいていようが気づいていまいが、その時代だからこそ開花するというだけのことかもしれません。


   世に知れ渡っていることは真の道でない。皆が知っていることが真の道なら真の道など探求する必要はなく誰もが真の道に生きていることになります。世に明示したり知らせることができないのが真の道だと言っているように解釈できます。自然のはたらきの中に真の道があって分別(=社会的な自己)の働く以前の「本来の自己」のままの留まっているところに真の道の完成へのヒントがあるかもしれません。何かを意図的(=分別を使う)にするのではなく、何も得ようとしなくても掴もうとしなくても既にそのままにある(=本来の自己のまま)。

 奪われることもなく消えることのない生、自然のままに委ねられた生がそのまま道を実践しています。我々は自然の働きと共に生きていて自然の一部であり自然そのものです。我々は自然そのものでありながら、自然と分離しているという前提で生きています。自然に働きかけて自然を変化させて得たり掴んだりできると思う前提が外れれば楽なのかも知れません。


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荘子−18 [荘子]

上古の人には、その知恵が、それぞれに到達するところがあった。その到達したところとは、どのようなものであったか。

 最も高いものは「はじめからいっさいの物は存在しない」とするのであって、これは究極まで至りつき、すべてを尽くしたもので、もはやつけ加えるべき何ものもない。

 これに次ぐものとしては「物は存在するけれども、その物には限界ー他と区別される境界がない」というのがある。

 さらにこれに次ぐものとしては「物には限界があり、物と物とを区別する境界はあるけれども、是と非との区別、価値の区別はまったくない」というのがある。

 もし是と非との対立、価値の区別が現れるところまでくれば、道の完全さがそこなわれることになる。  道の完全さがそこなわれるところ、そこには物に対する愛欲が生まれる。

 ところで、いま道の完全さがそこなわれるといったが、果たして道には完全と毀損ということがあるだのだろうか。

 道に完全と毀損の区別ができるのは、たとえば琴の名手の昭氏が、琴を奏でる場合である。琴を奏でる以前の状態は、まだ道が完全な状態にあるときである。ところが昭氏がいくら多くの音を奏でたとしても、それは琴に秘められた無数の音の一部分でしかない。かれは琴を奏でるという人為によって、無限であるべき自然の道に限定を加え、これをそこなっているのである。

 道に完全と毀損の区別がないというのは、昭氏が琴を奏でないときである。このときは、無限である自然の道が、無限のままに残されているのであるから、完全と毀損との対立もありえない。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P183 」斉物論

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 我々自身を含めたあらゆる事象について、その事象は音楽のようなものだとして観察してみるのもいいかと思います。我々が存在し活動していることがそのまま音楽を奏でていると想像してみてください。我々は存在として「ある」のですが恒常不変のままで「ある」のではなく絶えず生滅している「無常」の存在です。1日前の存在は確かに「ある」存在でしたが1日前とまったく同じ存在は一つとしてありません。

 すべては変化しながら存在していて、音楽のように今の「存在=音=振動」だけが「ある」だけです。ついに我々という存在は奏でることができなくなり消滅します(=死)。

 存在は演奏者であると同時に聴衆でもあります。観るものでもあり観られるものでもあります。


  音楽は、時間の経過とともに音程を変化(=前のものが消え新しく生み出しての繰り返し=生滅)して消えていくものです。音楽の一部を切り取って聴いても音楽にはなりません。動きを切りとっても動きになりません。  我々は連続した動きとして存在しています。動き(=生滅)することで生きているといえます。今の音が消えないと新しい音を聞くことはできません。常に生滅(=無常)することで生きているのですから、恒常不変の固定した存在でないことは確かなようです。

 何かを得たり何かを掴んだり何かに頼ったりすることで幸せになるというのなら、同時に不幸もあることになります。得ることはいつか失います、掴んだものはいつか離れます、頼ったものといつかは別れます。得たことで幸せなら失ったら不幸になります。何かを原因とする幸せは原因が消失すると幸せも消え去ります。

 一切が本来無一物(=空)であって、得ることも掴むこともできないと言う「本来の自己」の視点で観ることも大切です。得ても喜ばず失っても悲しまず。無常であって一時的であると知っていれば落胆することもありません。この世の物は借り(=仮)物であり使わさせて頂いている。

 物と同じように大切だと思われるのが記憶です。記憶は物でもなく実体さえ無いただの頭の中のイメージでしかありません。特に悲惨な記憶はなかなか消えないようですが、持っていても苦しいだけのようです。誰かに何かを言われてもただの音があっただけと割り切って、今は今の現実にただ「在る」。強烈に現実へと戻るために呼吸だけになるとか、坐禅するとか工夫が必要かも知れません。

 あとは嫌な記憶は真言の一つの「どうでもいい」「意味ない」・・で消してはどうでしょうか。


「生きるとは 呼吸することではない。行動することだ。」 ルソー


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イマジンー3 [イマジン]

Imagine no possessions I wonder if you can

No need for greed or hunger

A brotherhood of man Imagine all the people Sharing all the world

You may say I'm a dreamer

But I'm not the only one

I hope someday you'll join us And the world will live as one

財産(=所有物)がないと想像してみて

想像できるだろうか

飢えることもなく欲張る必要もない 人は友愛でつながっている

想像してみて 誰もが世界を分かち合っていることを

夢想家と言うかも知れない

僕は一人じゃない

あなたも一緒になれば きっと世界は一つになるよ

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 何も所有していないとは、私有財産を否定することであり民主主義を否定するものです。自由経済のもとで自由に経済活動を行えば経済的に恵まれた人と恵まれない人に分かれるのは自明のことです。平等は偏りや差別がないということですが、人間社会ではヒエラルキーが厳然たる事実です。もともとは平等を目指す宗教が一番の支配構造(=不平等)であった。ヒエラルキーの語源は宗教界が「階層的な」組織を持っていたことに起源があるようです。精神性にどのように階層をつけるのか、教理の理解度なのかよくわかりません。


 人間の感覚(=インプット)に差があるでしょうか。人間の処理能力(=分別)と行為(=アウトプット)に差が出て、その差を誰かが階層をつけているのでしょうか。

 社会的な「私=自我」だけで社会を見れば、トリコロール(=三色旗=自由・平等・博愛)は理想であって現実には難しいようです。

 インフラが途絶えた場合、私たちに不可欠な物は少数うで、無くてもいい物が多数を占めているかを認識することができるかもしれません。家の中を見渡すとすぐにでもゴミになるような物に囲まれているかもしれません。  電気エネルギーや水という本当に必要なものが当たり前のようにありました。目に見えない電気エネルギーが命を養ってくれていたということを実感できます。平凡な生活が何よりであったと感謝できます。

 我々は一体何をしているのだろう、呼吸して食べて寝て働いて排泄しているだけなのでしょうか。

 所有することだけにエネルギーを使い果たして一生を終えるのが人の役割なのかを考えるチャンスとなるかもしれません。

 海洋資源の奪い合いや他の資源の奪い合いがいまだに続いています。現実に秋刀魚が口に入ることが難しくなっています。ぶんどり合戦をしている場合ではないと誰もが気づいている筈です。地球に人間だけが住んでいるかのように振る舞っていては先が思いやられます。

 月や火星にユートピアがあるのでしょうか。地球を汚すことは自らが泥沼に飛び込む行為かもしれません。  「自分かわいい」のですから他人も「自分かわいい」と思っています。お互いに分かち合うようになり、奪う経済から与える経済への転換が必要なのかも知れません。


「毎日を生きよ。 あなたの人生が始まった時のように。」 ゲーテ

「絶えずあなたを 何者かに変えようとする世界の中で、自分らしくあり続けること。それがもっとも素晴らしい偉業である。」 エマーソン


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イマジンー2 [イマジン]

Imagine there's no countries

It isn't hard to do

Nothing to kill or die for And no religion too

Imagine all the people Living life in peace

You may say I'm a dreamer

But I'm not the only one I hope someday you'll join us

And the world will be as one

国がないことを想像してみて

そんなに難しいことじゃないさ

国のために殺したり死ぬこともない そして宗教もない 想像してみて 

誰もが平和に生きている

夢想家と言うかも知れない

僕は一人じゃない

あなたも一緒になれば きっと世界は一つになるよ

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 私たちは望んで生まれてきたわけでもなく、気づいたら人間という得体の知れないものとして存在していて、◯◯国の◯◯人として生きています。最初から◯◯人というレッテルが貼っているのではなく、社会システムの中で教えられるようになっています。

 社会的な「私」は、身につけるものや所有するものと自己同一化するようです。また、所属する団体や国というものに同一化していきます。良いとか悪いとかの議論ではなく同一化する性質をもっているようです。国を誹謗中傷されたりすると自分を攻撃されたように感じることもあるようです。スポーツで国の威信を賭けて戦い勝利すると自分が勝ったように誇らしく感じることもあります。

 国を代表する政治家であればなおのこと、国際社会での発言力や存在感を示したいものです。国という実体のないものに人格的な同一化をしています。国というものを自分と同一視して劣等感やプライドさえもつことになります。行き過ぎると力を見せつけて支配したいと思うようになり、最終的に戦争へと舵を切ってしまったということが歴史的事実にあります。

 自分かわいい(=愛国心)を喚起し始めたら危険な兆候だと思わなければなりません。

 幸福度ランキング1位のフィンランドという国のシステムや「寛容性」を学ばなければならないかもしれません。国会議員の半数近くが女性であり、現実の生活者の視点が生かされているかも知れません。国の富よりも国民の生活の質の方が優先されているからかもしれません。

 宗教は教理を信じることですから、教理に反することは受け入れずに排除することになります。何かを信じている限り解放や自由があるでしょうか。我々が目指すところが「解放と自由」なのに、「支配と束縛」を信じているという矛盾の中にいるのではないでしょうか。

 誰にでもフィットする服(=教理)があるでしょうか。教養やアイデンティティや環境や風習や年代を問わず誰でも理解でき当てはまる教理とは幼児と学者が理解できる(=ピッタリ合う服=教理)なら驚きです。服(=教理)を脱ぎ捨てて自由に大海原で泳げる自分を想像してみるのもいいかもしれません。他から教えられる事なのか、自身で理解すべきことなのかどちらなのでしょうか。

 政治と宗教が合体したら大変なことになります。信じていること以外を排除するのですからすぐに対立が起こり徹底的に排除することになります。これも歴史を紐解けば明白なことのようです。


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イマジン−1 [イマジン]

Imagine there's no Heaven

It's easy if you try

No Hell below us Above us only sky

Imagine all the people Living for today...

天国はないと想像してみて

そんなに難しいことじゃないさ

下に地獄なんてないし

上には見渡すかぎりただ空が広がっているだけ

想像してみて

誰もがただ今日という日を生きている

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言葉や記号や絵や音符や図面は人間がイメージを共有したり他に伝えることのできる発明品のようです。現実に存在していないものを作り出すためにイメージが使われます。イメージを使って、現実の物質に働きかけて熱したり削ったりという加工によって現前させることができます。

 イメージ力が現代の社会を作り出してきたと言っても過言ではないかもしれません。イメージ力は現実を変革してきたし、これからも現実を変化させていく力をもっているようです。

 Imagineは今ある現実から、あるべき現実へと変革をもたらす力を秘めているのではないでしょうか。我々はイメージしながら歌い、イメージしながら聴くことで現実に働きかけることができます。

 社会的な「私=自我」は肉体の死によって意識が断絶することを理解しています。生の感覚が素晴らしいことを知っているので、死を極端に恐れます。死を概念で克服するには、永遠の「生」という概念が救いとなります。さらに傷つくことのない「魂」や理想世界である「天国」という概念が安心をもたらしてくれます。  世界にあるどの◯◯教でも、過去の教理を頑なに守り続けています。時代も環境も科学技術も社会制度も人自体も変革しているのに教理は昔のままであり、現実を教理に合わせるように都合よく解釈してます。信じている集団ごとに神がいて、神の概念も異なっていて神が乱立しているようです。

 「全知全能である」という人間の身勝手な都合の概念で作られているので、矛盾した神にならざるを得ません。  「全知全能で善なる神」から苦しみや争いの絶えない世界が作られているのは何故でしょう。教理に従わないあるいは反する人間は悪であり、信じる者だけが祝福され正義となっています。

 歴史的な事実として、魔女狩りや宗教戦争が一番残忍な蛮行であと断罪されるのは歪めることができないようです。信じるという名のもとに行動している人に悪魔が乗り移ったかのように感じるかもしれません。  天国という餌で釣って、地獄という恐怖で逃れさせないようにしていると指摘されるのも否定できないような気もします。


<小話>  Aさんは敬虔なる◯◯教の信者であり、戦禍に巻き込まれました。◯◯教では約束された安住の地を確保するという大義名分のもとに闘っていました。Aさんは大変勇敢であり、多くの敵を排除して勲章までもらう功績をあげました。ついに寿命もつきて審判の日がやってきました。

   「あなたの生前の善行は?」と問いただされたので、ここぞとばかり自らの功績をまくし立てました。「私は誰よりも信心深く、いつも教えの言葉を唱えていました。△△教の人も多く葬ってもきました。他の教えには見向きもしませんでした・・」

 「地上こそ神の国である、血に染めたのは許しがたいことである。」・・・  未来(=天国や地獄)のために生きているわけではなく、今日という日を生きています。生の感覚を味わう。◯◯教の教理を信じることだけが人生?  文字ではない目に見えない繋がりがある。今生きている人と分かち合い、受け入れることで満たされている。天国の執着から開放され、地獄という束縛からも開放されて自由に生きている。そんなイメージでいるのもいいかもしれません。


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荘子ー17 [荘子]

上古の人には、その知恵が、それぞれに到達するところがあった。その到達したところとは、どのようなものであったか。  最も高いものは「はじめからいっさいの物は存在しない」とするのであって、これは究極まで至りつき、すべてを尽くしたもので、もはやつけ加えるべき何ものもない。

 これに次ぐものとしては「物は存在するけれども、その物には限界ー他と区別される境界がない」というのがある。

 さらにこれに次ぐものとしては「物には限界があり、物と物とを区別する境界はあるけれども、是と非との区別、価値の区別はまったくない」というのがある。

 もし是と非との対立、価値の区別が現れるところまでくれば、道の完全さがそこなわれることになる。

 道の完全さがそこなわれるところ、そこには物に対する愛欲が生まれる。

 ところで、いま道の完全さがそこなわれるといったが、果たして道には完全と毀損ということがあるだのだろうか。

 道に完全と毀損の区別ができるのは、たとえば琴の名手の昭氏が、琴を奏でる場合である。琴を奏でる以前の状態は、まだ道が完全な状態にあるときである。ところが昭氏がいくら多くの音を奏でたとしても、それは琴に秘められた無数の音の一部分でしかない。かれは琴を奏でるという人為によって、無限であるべき自然の道に限定を加え、これをそこなっているのである。

 道に完全と毀損の区別がないというのは、昭氏が琴を奏でないときである。このときは、無限である自然の道が、無限のままに残されているのであるから、完全と毀損との対立もありえない。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P183 」斉物論

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①物など存在しない。物という概念は既に無い。主体も客体も、自身も対象も何もかも「空っぽ」。微細では素粒子、極大では全空間、エネルギー、瞬間、意識。(荘子−2参照)

②物(=物質)は存在するが、分離や隔てる境界はなどない。本質は異なる存在ではな同質であるが表面上異なった現れとして認識される。脳が識別できなと生命として生存できない。

③個々に存在しているとしても、生命が勝手に食料としたり危険なものとして忌避している。本質的には是非や価値などない。 参照:一水四見 認識主体によって勝手に価値を付与している。 死に直面している人や幼児とって、ダイヤや金や絵画は価値を見いだす対象となるでしょうか。

④是非や価値を認めれば、それは道から外れている。 私たちが、社会的な「私=自我」だけでしかない存在として、社会的な「私」にこだわって是非や価値だけのであれば万物斉同の道から外れる。社会では是非や価値を認めて分別して生きています。ただ表面上そうしてるということを承知いるかいないかだけのようです。

⑤道が見えなくなってしまったところには、物を所有しようとする執着が生まれる。

 社会的な「私」だけに依存して生活の主導権を委ねてしまうと「自我」に振り回され葛藤(=混乱=求不得苦)に苛まれる頻度が多くなるようです。

⑥道には完全と毀損の区別はない。道は毀損したりつけ加えたり減少させたりはできない。不生不滅・不垢不浄・不増不減

 人為(社会的な「私=自我」)によって、無限なる自然の道(「本来の自己=一なる意識」)を限定した(=固定観念、アイデンティティ)もので現象を捉えて分別してしまいます。分別することで無碍自由な道が限定されてしまう。  分別するということは是非があるということであり、好悪や執着や忌避などの二元対立によって物事が分離されるということです。

    道の完全さ(=分離のない一なる存在、一なるエネルギー、一なる意識=無為)が誰にでもどこにでも知られずに働いているようです。我々はすでに「それ」なのですが、人為(社会的な「私=自我」)のみに委ね没入してしまうと、物欲が優先されて物欲に振り回され苦しむことになるようです。(生活範囲を逸脱してコントロールできないほどの欲望に翻弄される場合、コントロールでき苦しんでいなければ No problem)

 所詮は掴むことも得ることもできない「空っぽ」であり、対象としているものも一時的な所有であるようです。誰もが、永遠不変の社会的な「私」もいないし、永久に所有できる物などないと分かっています。


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荘子ー16 [荘子]

心を労して、むりにすべてを一つにしようと努力し、実はすべてが自然のままに一つであることを知らないもの、これを朝三という。それでは朝三とは何か。

 こういう話がある。あるとき、猿回しの親方が猿どもに栃の実を分配しようとして、「朝に三つ、暮れに四つでは、どうか」と相談した。すると猿どもははらをたてて「それでは少なすぎる」といった。そこで親方が「それなら朝に四つ、暮れに三つでは、どうかね」といったところ、猿どもは大喜びをしたという。名実ともに何の変わりもないのに喜怒の情がはたらくのは、自分自身のあさはかな是非の心に従うからである。

 だから聖人は、是非の対立を和合させて、差別の人為がない自然の境地ー天鈞(てんきん)に安住するのである。別のことばでいえば、是も非もそのままに是認して、両者をそのままに行かせることーこれを両行(りょうこう)というのである。 天鈞:自然のままに、すべてをひとしいとする境地。 両行:是非のいずれかを取捨選択することなく、両者をそのままに放任する。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P182 」斉物論

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 別のことばでいえば、是も非もそのままに是認して、両者をそのままに行かせることーこれを両行(りょうこう)というのである。  「本来の自己」と社会的な「私=自我」を身近にあるパソコンやスマホで考察してみたいと思います。  機器を動かしているのは電気エネルギーとソフトです。共通で基本的なOSがなくてはなりません。社会的な「私」(=アプリケーション)は意識することなくOSと共存しています。


 「本来の自己=コンピュータのOS」は気づかれることなく働いていますが、実際に情報の入出力や一時記憶などによって処理を担っているのが「社会生活な私=自我=アプリケーションソフト」です。 OSは動作しているアプリケーションソフトの要求に応じて、周辺機器の管理と制御を行なっています。入力された情報の処理は各アプリケーション(=アイデンティティや固定観念)で独自に判断(=組み込まれたソフトの仕様)されたものであってOSは是非(=判断)には関知していないようです。

 社会的な「私」の判断(=分別)が無ければ社会では生きていけません。対立の根本は、社会的な「私」の判断が時代や社会環境や政治状況や各人の信念や様々な状況でコロコロと変化させられているところにあります。是非はその都度の都合によるルールによって決まるのであって、あるのかないのかも定かではありません。

 スポーツのルールでも、特定の国が有利になればスキージャンプでの長さを規制したりすることは当たり前のことです。ISOの規格も戦勝国の規格であることは誰もが知っている事実です。勝者や権力を持った者が是非を決めるのであって、どこでもいつでも誰でも不変な是非での判断がなされていることはないようです。  歴史を遡ると、戦禍のない時代は存在しないようです。また小さな小競り合いから国同士のいがみ合いや利権の争奪戦が繰り広げられています。当事者は自らを是とし他者を非として正当化しているだけのことです。


   日本の戦国時代での勝者も敗者も誰一人としてこの世には存在していません。やるかやられるか(=Dead or alive. )命を賭けて真剣に生きていた筈です。現代の私たちが冷静に史実と向き合えば、あらゆる戦いに正義などなかったと言ってもいいかもしれません。覇権争いの当事者も、巻き込まれた大衆も誰も得する人はいなかった。一時の自己満足や達成感や征服感や自己顕示欲を満たすために多くの犠牲があったことは事実のようです。  いつでもどこでも常に「本来の自己=共通OS」が働いているのであって、単に表面上で社会的な「私」が是非を判断しているだけなのだと気づいていなければならないようです。「朝三」でも「朝四」でもどちらでも同じことです。戦争ごっこ、探求ごっこ、成功ごっこ・・様々なごっこ遊びをしても許されているようです。社会的な「私」の本質を見抜き、「本来の自己」に軸足を置くことが望まれている時代のようです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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荘子ー15 [荘子]

 心を労して、むりにすべてを一つにしようと努力し、実はすべてが自然のままに一つであることを知らないもの、これを朝三という。それでは朝三とは何か。  こういう話がある。あるとき、猿回しの親方が猿どもに栃の実を分配しようとして、「朝に三つ、暮れに四つでは、どうか」と相談した。すると猿どもははらをたてて「それでは少なすぎる」といった。そこで親方が「それなら朝に四つ、暮れに三つでは、どうかね」といったところ、猿どもは大喜びをしたという。名実ともに何の変わりもないのに喜怒の情がはたらくのは、自分自身のあさはかな是非の心に従うからである。  だから聖人は、是非の対立を和合させて、差別の人為がない自然の境地ー天鈞(てんきん)に安住するのである。別のことばでいえば、是も非もそのままに是認して、両者をそのままに行かせることーこれを両行(りょうこう)というのである。 天鈞:自然のままに、すべてをひとしいとする境地。 両行:是非のいずれかを取捨選択することなく、両者をそのままに放任する。 「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P182 」斉物論 -------  名実ともに何の変わりもないのに喜怒の情がはたらくのは、自分自身のあさはかな是非の心に従うからである。 「朝三暮四」でも「朝四暮三」でも一日に食べれる総量は同じです。自らの固定観念(=朝四が是)に反した事は許せないというのが社会的な「私=自我」の特徴の一つでもあります。自身が保身(=自分かわいい)の為に構築してきた観念は簡単には譲れないのは当然のことです。誰でもが自身を是としているので、全員が是なのですから是しかありません。人が自身だけを見るなら全てが是であり、他と比較して受け入れられないのならすべてが非です。世界は是でもあり非でもあります。  「神はいる」「神はいない」「神はいるかもしれないしいないかもしれない」を考察してみます。  信心ができていない幼子には「神はいる」ということは言っている人には是です。  あまりに盲信しているひとに、「神はいない」と他に目を向けさせる人にとっては是として発言しています。  探求者に対して、「神はいるかもしれないしいないかもしれない」といって自身で探求してみてくださいと進言している人にとっては是としての発言です。  無神論者に「神はいる」、法王とか教皇に「神はいない」、死ぬ間際の人に「神はいるかもしれないしいないかもしれない」と言っても意味がないので非となります。  同じことを言っても、場所と時と状況と対象者によって是にもなり非にもなります。是でも非でもあり、是でも非でもない。  世の中には是も非もあり、是も非もない。善も悪も置かれた立場であり国が違えば自国の立場で思考させられているだけのことであって、善も悪もない。悪人は悪人の理があり、善人は善人の理がある。毒蛇や毒蜘蛛や毒クラゲは善でも悪でもありません。あくまで人間主体の危険を想起するために「毒」とつけられただけです。動物に悪人か善人の見分けはつくでしょうか。 「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が(殺人を)神聖化する」ポーテューズ  カナダでは大麻が合法化されているようです。昔は自然の植物をただ吸っていい気分になっていただけかも知れません。反社会組織の資金源を断ち、税収にしたほうが得策だとなり是となっているようです。ギャンブルもカジノも国の税収になりさえすれば、是となります。判断基準は勝手に決められ半数をちょっとでも超えれば是であり、下回れば非となってしまいます。是非など曖昧であって、時代や状況やそこで生きている人びとの勝手な都合かもしれません。  今の時代のこの国のこの状況に置かれている一時的なことでしかありません。自身の力で時代を変えることはできないようです。一々裁くことなく万物斉同の観点でおおらかにみてあげがほうがいいかもしれません。 <注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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