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無明−14 [無明]

「分らないをどうする」「分らないを分かるには」「分らないを受け取る」

<「言葉や文字」で表現できないこと>

 広大無辺なことは表現しようにも表現しつくすことはできません。常に移り変わる「無常」。見るものと見られるものが一体となっている。「私はいない=無我」等々。

「拈華微笑」「不立文字」「教外別伝」「啐啄同時」「阿吽の呼吸」「以心伝心」などと「言葉」で表現するしかありません。

「月を指す指」  先覚者は、月そのものを見てほしいのですが、言葉(指)だけで伝えられるとは思っていません。受け取る人の「体験」と先覚者の「言葉」のニュアンスとの一致がなければ受け取る人の「洞察」はできないようです。

 「冷暖自知」という言葉があります。「冷たい」という言葉の真意が分かっていない幼児に「冷たい」という言葉を理解してもらうには、氷に触れている時に「冷たい」という共通認識を持つことです。人生でたった一度の共通認識があがればそれ以降は迷うことはありません。仏道においてもたった一度の体験(=頓悟)でいいのです。  伝えたいことが伝えたい人に「そのまま」伝わった瞬間です。

 伝えたいことを受け取りたい人に「そのまま」受け取られた瞬間です。

   受け取りたい人が伝えたい人から「そのまま」受け取った瞬間です。

 受け取りたい人が受け取りたいことを「そのまま」受け取った瞬間です。

 言葉に隠された真意が伝わればどのような表現でも正解です。しかし、どのように工夫した表現でも伝わらなければ、すべて「嘘」と糾弾されてもしかたがありません。

 ともかく自己の真相が何かを一度確かめない限り腑に落ちないことでしょう。空っぽとか無であるとか発見するかも知れません。それでも「そうだったのか」と心底納得がいくように生きていきたいものです。

 伝える人よりは、受け取る人にウェイトや責任があるようです。伝える人は対機説法でその受け取る人の気根や状況に応じて適切な説法をしなければなりません。もっと重要なことは、言外の意味を受け取れるかどうかの主役は受け取る人だということです。

 質問者のレベルで、質問者が独力で謎解き(=問題が無くなる)ができるレベルでなければなりません。1+1=2,1+1=10,1+1=1,1+1=0,1+1=∞ 2進法では10 コップの水に水を足しても1 水に熱を加えれば蒸発して水が消えるので0  重水素+三重水素で核融合すれば∞  信心できていない人には「神はいる」と言い。神を盲信して自分で確かめない人には「神はいない」と言い。自分で自分を省みる事が出来る人には「神はいるかもいないかも分らない」と言ったほうがいい。相手の状況によって相手の描いている世界で分かって(=気づいて)もらうしかないようです。

 多数の人に同じ言葉を語りかける場合も、既に各自が各自の世界を構築してると認めなければなりません。受け取り方は様々であり「啐啄同時」は困難をきわめることになります。この文章を読んでいる一人一人が自分の世界を持っていて、全く受け取り方が違うということです。


 「慧可断臂」という伝説(=真実かどうかは別として)があります。インドから来たといわれている達磨大師(=中国語で詳細に説明できたかどうか)に慧可が切なる求道の思いを示した行動と言われています。  この逸話によって、仏法を洞察することは命がけでやらなければならないと思い込まれています。そして、仏法を洞察した人は価値あること成し遂げたという欺瞞となることがあるようです。この欺瞞から抜け出せない方も多くいるようです。また、それほど大変なことだという観念ができているのも歪めません。

 お釈迦様の言葉である、「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」を何度も何度も再認識する必要が在ります。(参:無明ー10)


 「それ」は宇宙全体と言ってもいいし、宇宙の働きと言ってもいいかもしれません。無明ー10で表現している「言葉」の概念かも知れません。しかし、我々は既に「それ」であることは確かです。「それ」は何時生まれたかも分からず、「それ」はいつ滅するかもわかりません。

  我々は望んで生まれてきたわけでもなく、どういう経緯(=縁)で今こうして存在しているかも分かりません。今後どのようになっていくかなど自分自身でさえも分かりません。「ふと」気がづけば、今ここに「得体の知れない身体」がキョロキョロしているというのが現状です。

 我々は既に「苦行」真っ最中です。意志があっても出来ない身体があるという現実をみてください。頭では分かっているのに身体が言うことをきかない。身体は「私」でしょうか。この「人間の習性」に日々苦しめられています。

 思い(=頭)の通りにならない現実を思いの通りにしようともがいて(=苦行)います。ただ一つの世界(=一つの宇宙)でありながら、一人一人の独自に世界(=70億以上の世界、全てのいのちを含めたら膨大な数の世界)を自分の世界に合わせようと必死です。

 サハラ砂漠の「ひと粒の砂(=自分)」がサハラ砂漠全体を飲み込むようなことを願っているようです。

 いつまでも老いないとか病気をしないとかあり得ない思いが脳裏をかすめているのではないでしょうか。それは希望と現実のギャップからの「恐怖」から来ています。徐々に病気になっているし、徐々に死んでいるのです。受け入れて気にせず、病気の時は病人に成り切ればいいだけです。病気は滅多に無いので味うべきです。

 不可能とは分かっていても夢を諦められない。高価な薬や安易な健康器具に頼るようになる。まずは意志(=頭)と身体を一致させたいものです。

 老病死という避けられないことから目をそらし、自らを永遠に「苦行」の中に閉じ込めることのないようにしたい。本来は自由で満たされているということの一瞥さえあればいいのです。


<まとめ>

・「言葉や文字」では直接に理解できない。「教外別伝」

・「冷暖自知」:自身の体験と先覚者の体験との一致

・自己の真相を知ることで納得できる人生を送る

・自分のレベルを知ることが大切です。本来はだれでも仏です

・各自が各自の世界を持っている ・身体は「私」ではありません。


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