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悪はつくられる [気づき]

 頭の中のおしゃべりに気づいているその「気づき」が「本来の自己」であって、「気づき」自体に善悪・貴賤・・・という二項対立はありません。「気づき」は何にも染められていません。「気づき」を探すことはできないし破壊することもできません。いつ生まれたかも分かりません。不生であり不滅です。

 頭の中のおしゃべりはその時時の状況に応じて勝手に起こっているだけです。おしゃべりを「気づき」によって観察すると、観察された「おしゃべり」は力を失ってしまいます。過去・未来・他者・・を「我」の思い通りにしようとしたり、比較するということは「我」に力を与えて自らが栄養を補給することになります。

 「思い」の全ては「本来の自己」ではなく、勝手に起こっている出来事です。「思い」は自然現象であって責任を負う必要のない天候のようなものです。しかし、天候に二項対立を持ち出して評価すると、ケチをつけたりありがたく思ったりします。何でもない自然現象さえ恨んだり感謝したりすることになります。

参考:「父親と二人の娘」(イソップ寓話)

 自然(=勝手)に働いている「意識」は何かに気づきます。何かを「他」とすることによって、「他」に対する「自=我」が認識されます。「他」を認識している何かに「自」としているだけのことです。ただ全体があるだけなのですが、勝手に自他に分けて考えてしまっています。

 存在は「何か」であって何かでしかありません。名前をつけることではっきりとした「対象」となって認識されます。全体を意識的に分離しているわけではないので、分離されているとしか思えなくなっています。考えることで分離したものとしているだけのことです。

 何かを「他=対象」とすることで、「他=対象=客体」と認識すると、認識している何かは「自=主体」となります。自己は「自分は正しい=自分かわいい」という大前提で「他=対象=客体」と対峙することになっています。「自分かわいい」が行き過ぎて思い通りにならないと、行き場のない思いを自己に向けるしありません。自己憐憫・自己否定となり極端な場合は自死を選ぶこともあります。

 二項対立は分離・分割が前提であり、混乱・葛藤が必然です。事実しかないのに、自意識が二項対立の分別を起こしてどちらかに決めつけてしまいます。事実は一つであって一枚のコインなのにどちらかを表とすれば自動的に反対側を裏となってしまいます。

 言葉はただの形・音でしかないのに、何らかの意味をつけているので振り回されることになります。経典に書かれたことが絶対であるとしています。否定する人々を平気で虐げるような狂気であっても当事者は狂気ではなく正気です。互いが正しいと信じ切っているので「正義の戦い」と言っているのですが「正しいと思い込んでいる」だけでコインの表裏を演じているだけのことかもしれません。

 「老い・病気・死」はただの自然現象であって事実そのものでしかありません。自然現象さえ不条理であると受け入れられないのは「自分が正しい・自分かわいい」という前提で生きているという証拠です。良いとか悪いとかではなく「気づく」しかありません。

 「悪」があるのではなく、自分たちこそ「正義」であって「悪」とみなしている個人・集団・国家によって「悪」がつくられているということに気づく。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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