禅僧ティク・ナット・ハンのことば 4 [気づき]
人生の中で最も大切なものは安らぎと幸せです。でもこころは常に未来への不安や過去への後悔、または色々な欲求に引っ張られ、いまここにある幸せを忘れてしまっています。くだらないことにこだわるのをやめて本当に大切ないまこの瞬間、すてきな瞬間に帰ってきましょう。
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「人生の中で最も大切なものは安らぎと幸せです。」ということは、人生で最も厄介なことは「葛藤・混乱」ということでしょうか。”私(=我)”は今ある自分に納得がいかない、今の自分を受け入れられないのでしょうか。しかし、他人に対して”私(=我)”の主張は正しい(=自己正当化)のです。おかしなことに他人に対する自分=”私(=我)”はいつも正しいのに、自分自身は「葛藤・混乱」を抱いて生きています。自分が正しいのに自分に納得がいかないというのはどういうことでしょうか。自己矛盾がの中で生きています。「絶対矛盾的自己同一」
”私(=我)”は今ある自分を見ていると信じて疑いません。自分を直視することなどできないのですが、自分を分かっている”私(=我)がどこかにいると感じています。感じているのでどうしょうもありません。
自分が自分の顔や背中を直視することなどできません。見えている時に見ている自分がイルカのように感じていますが、勝手に見えているだけで”私(=我)”が見えているのではありません。見えている様子(=光景)が自分自身そのものです。
自分は常に変化変容していて恒常不変の自分はどこにも存在していないし存在できません。世間も変化しているし自分だと思っているモノも変化しています。”私(=我)”はあるようで無い。”私(=我)”など無いのですが、思った主体としての表象として”私(=我)”があてがわれてしまいます。
道元禅師は、「仏道をならうというは、自己をならうなり、自己をならうというは、自己をわするるなり」と書いています。何がどうやって思い浮かんでくるかなどサッパリわかりません。目を向ければ勝手に見えてるし、音は勝手に聞こえています。思いも勝手にわき起こってきています。勝手に働いている事象に”私(=我)”をくっつけない。”私(=我)”を忘れさることが安らぎだということでしょうか。
”私(=我)”が思考することで解決策(=賢者の石)を手にすることで
安らぎを達成することができるとしているのでしょうか。思考で平安がもたらされるのか、思考しなくてもいいことが平安なのかどちらでしょうか。
”私(=我)”は自分かわいいですから”私(=我)”の思いを実現したいと努力を重ねます。努力するということはもがき苦しむことになります。自分をいじめ尽くして「刀折れ矢尽きる」までやっても”私(=我)”は更に強くなるだけです。えてして欧米人は成果を求めるので、坐禅することで何かを得ると考えているようです。我執の囚われから抜け出す、坐禅は坐禅のためにする。”私(=我)”の為にすると我欲・我執が一層強化されることになります。
困ったことに、素敵を味わおうと”私(=我)”が考えます。”私(=我)”の不在(=無我無心)が素晴らしい。我を忘れて北京オリンピックの競技に魅入っている瞬間瞬間。”私(=我)”の損得なしに見ていられれます。
熟睡(我の不在)した後に爽快感があります。勝手にわき起こる思考は消え去り害悪はありませんが、”私(=我)”が特定の思考を追いかけ回すと葛藤・混乱に振り回されることになります。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
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