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イメージと実体 [気づき]

 「誰もいない森で木が倒れたら音はするのか?」という問いがあります。

私たち人間は限られた範囲の中で感受しています。電磁波・音の周波数・匂い・味・感覚・・人によっても異なるし、他の生物が感受している世界とも異なっています。各人の感覚器官が捉えたものが世界だと思い込んでいます。各生命体がそれぞれに感受している世界があります。生命体のそれぞれが違うということは本当の世界を感受している生命体はいないということになります。自身が見えているモノだけを信じているだけかも知れません。見えているモノを疑ったらきりがありません。

 感受する自身が認識できなくなれば、世界は消えてしまいます。受け取る側の生命体が世界そのものということになります。

 聞こえている生命体がいたとしても、聞こえたという認識がなければ音は無かったということになります。実際に木が倒れた現場にいて、聞こえたとしても発生源の音ではなく聞こえたという感覚を確認しているだけです。

 

 実際に聞こえない音は「無い」ということになります。今居るところで感受できている以外は想像することができるだけです。極端に言えば、ブロードウェイで上演している人が居るかどうかもただの想像でしかありません。

TVインタビューで「◯◯さんが死去しましたが・・」と聞かれて「本当ですか、知りませんでした」と答えます。生きていると思い込んでいるだけです。「〇〇さんが結婚しましたが・・・」「知りませんでした、おめでとうございます」。認識できていないことはただの想像で生きていることになります。認識できている人以外はいるかも知れないしいないかもしれません。今ここで「認知」できなければ、頭の中で考えることでしかないので”実体”があるかどうかの確信はもてません。

 危険だと感じたらその場から逃げてしまえば大丈夫ですが、頭の中にあるものは実体がないので物理的に排除したり離れたりすることはできません。

 今から逃れたり、今に迷うことはできません。実体のない頭のイメージに悩まされてしまいます。忄+脳=悩みではないでしょうか。

 「隻手の音声」:頭の中で片手を振り回しても何も聞こえません。

「百丈野鴨子」「非風非幡」という公案があります。禅問答を読むと、イメージで情景を思い浮かべてしまう癖があることに気づきます。何が言いたのかを考察するのも癖です。解ろうとするのも人間の習性です。自身に全ての答えがあると指摘されています。

 外に対象があって、自分は考える主体だと固執していないでしょうか。別々にあるのではなく無我無心に見えていて一体であるということに気づけるかどうか。全てに”自分”という言葉を当てはめていただければどうなるでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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