SSブログ

現実をどう見るか [気づき]

 他人の思考を覗き見ることはできないし、一致をみることはほぼ不可能なので単なる推測であり一つの意見として読んでいただければと思います。

 

 現実はとどまることなく変化変容し続けています。混沌としていて無秩序な状態へと変容します。(エントロピー増大)

 言語によってモノや事象との関連付けができないと、ゴミ屋敷の中にいるような状態かも知れません。動物は敵・食べ物・親・状況・・・を認識できればいいので、花の名前や川の名前を憶える必要はありません。 

 不幸にも野生生物に育てられた子供は言語を修得できないので、何がどのようにあるのかサッパリ分かっていないかもしれません。赤子は真っ白なので、どこに生まれたとしてもその国の言語を憶えてしまいます。動物に育てられたろ育てた動物のようになるようです。


 

 見ることも聞くこともできなかったヘレン・ケラーは、乱暴で落ち着きのない子だったようです。サリバン先生はヘレン・ケラーが喉が渇いて飲み物がほしいというジェスチャーを見て、その欲しいモノは「w-a-t-e-r」という名前がついているということを教えました。運良く理解してもらうことができ、モノには「名前」(=意味)があることに気づき感動したかもしれません。現実には秩序があって、ゴミ屋敷のように散らかり放題ではない。図書館の書棚のように整理統合されているかもしれない。

 一つのカテゴリーの中に属性の違いによって分類することができます。言語はモノと関連づけられ、関連づけられた言語は滅多に変化しません。平安時代の「テフテフ」が現代では「ちょうちょ」に変わるぐらいかもしれません。「木ki」がある日から「べ」という発音になるとしたら混乱してしまいます。言語が変わらないということは、変化している現実に追随できないことになります。言語で現さすことができるのは「現実であった過去」ということになります。言語で表現された「過去」をいくら集めても事実ではありません。

 

 私たちは現実をどのように見ているのでしょうか。名前のあるモノが別々にあって、その集合が現実であるとの認識でしょうか。子供は何かを認識したときに名前を聞いてきます。子供が目にしているモノの名前を知って面白がっているかもしれません。”ママ”と言えば反応してくれます。自分が名前(=ただの音)で呼ばれることでコミュニケーションが成立します。

 モノに名前があり、感覚や感情も音で表現できます。他(=客体・対象)と認識する自分(=主体)との分離が自然に生じます。言語は意の働きによって思考となります。そこまでは良いのですが、”自分かわいい”という”我”による分別によって苦しむことになります。”我”は思いのとおりにしたいのですが、思いのとおりにならないので苦しむことになります。

 モノには名前があって分離分割した現実を何とかしようと苦悩することになります。

 

 現実にある一切のモノは、全部繋がっています。全体は全体としてあると解釈してみたらどうでしょうか。見えるモノ触れるモノ全ては全体そのものです。見る者と見られるモノは分離していな一体である。

 主体も客体もなく、ただ見えている・聞こえている味わっっているという現実がある。美味しいは美味しいだけ、不味いは不味いだけという現実があるだけです。食べている私がいて、現実を”自分かわいい”という”我”が分別して”何とかしたい”(=自我)とすれば苦悩することになります。あるがままはあるがままでしかないという現実のままをそのままに受け入れる。

 

<実験>

 名前のついていない原初に戻って、全てを”自分”と名前をつけてみてください。一切が”自分”であると気づくかも知れません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(32)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 32

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
言語ゲームイメージと実体 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。