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全体 [気づき]

 全体であることを推察してみたいと思います。

 もし、宇宙ステーションから地球を見たら、個々の人間を識別することはできません。宇宙ステーション内では、地上で認識できていたことが認識できません。宇宙ステーションから見ることのできるのは、地表・宇宙空間・宇宙ステーションの内部の何れかです。地上にいる我々は、地球を見ているとは思ってもいません。個々のモノを識別しているだけで、同時に地球そのものを見ているとは感じていないかも知れません。しかし、個々のモノだけを見ているだけではなく同時に全体も見ています。

<識別している範囲によって決まります>

・猫のどの部分を撫でようが「猫」を撫でています。猫のある部分であっても猫そのものに触れていることになります。猫と識別できていれば識別された全体(=猫)に触れていることになります。

・友人から電話で「今どこにいる?」と聞かれた時に、家のどこにいても「家にいる」と答えます。家の内部のいたるところを全体(=家)と識別していれば、家のどこにいようが(=リビング・寝室・・)家です。

・外国から電話があり「What country are you in now?」と聞かれたら、「I am in Japan」と答えます。日本(=Japan)と認識しているので、日本のどこにいようが全体(=日本・Japan)にいることになります。

・月のどこに降り立とうが「月に立っている」ことになります。月と認識し識別した全体(=月)に立っていることになります。月に地名が命名されて共通認識される場所があればその場所の名前であると識別するかもしれません。

・将来人類の誰かが金星に降り立ったとして、「あなたはどの星にいますか?」「あなたはどの空間にいますか?」と聞かれたらどう答えるでしょうか。金星と命名されているので金星と答えます。空間は特定されていないのでどう答えるのか分かりませんが「宇宙空間?」でしょうか。

・宇宙ステーションの船外活動中に宇宙ステーションから切り離されて宇宙で一人ぼっちになり、「あなたはどこにいますか?」と聞かれたらどう答えるでしょうか。

 

 何を認識しているかによって、何に触れているかが変わることになります。家の中にいるという認識であれば家の中のどこを触れようが、家に触れていることになります。

 ◯◯県に住んでいると認識していれば、◯◯県内のどこに住んでいようが◯◯県民ということになります。日本の国籍があると認識していれば、どのにいても日本人ということになります。地球の上にいると認識していれば、どこを見ても地球を見ていることになります。宇宙全体とともにいると認識できれば、何を見ても何かに触れても宇宙全体であるということになります。もし、見ている部分が宇宙全体ではないなら、その部分が宇宙全体から切り離なされていると証明しなければなりません。

 個々人が宇宙全体であるという認識を持てば、「わたし」も「あなた」も同一の宇宙全体として見ることになります。何もかもが宇宙全体という認識であれば、単に「わたし」という呼称が使われているだけで本来の姿は宇宙全体そのものかもしれません。個々人に識別名である名前がついていたとしても、そう呼ばれている宇宙全体の一部であり宇宙全体そのものであるのではないでしょうか。全てが繋がって分離分割されていない全体そのものでありながら、識別するために個別の名前がつけられているだけではないでしょうか。富士山もエベレストも地表の隆起でしかなく同じ地表面です。識別のために命名されているだけのことです。

 

 何でも「1」で置き換えられるように、個々に識別していたものを「全体」・「宇宙」・「自分」に置き換えてみるとどうなるでしょうか。何処も彼処も何から何まで「全体」。何処も彼処も何から何まで「全体」です。「全体」が「全体」を見ている。「宇宙」が「宇宙」を見ている。「自分」が「自分」を見ている。もし「全体」という認識で見ることができたのなら、全体は全体としてあり分離分割されたものではありません。

 全体が先にあって、後から人間が勝手に認識できる部分に分割して命名したのではないでしょうか。部分に分けておきながら、部分が集合しているのが全体だというのは順番が逆かもしれません。

 信じられないかも知れませんが、一歩踏み出せば宇宙空間を移動しています。日々宇宙旅行していることになります。宇宙を聞き宇宙に触れ宇宙を感じて生きています。宇宙(=自身が宇宙との認識)が笑い宇宙が泣いて宇宙が嘆いて・・・・。「自分」が動いているのではなく宇宙が動いているという認識。

 個物の集合である全体であれば、個々の対象を認識する「わたし(=我)」がいて、「わたし」が分別して”我”の欲するように現実に働きかけます。世は無常ですから思い通りにはならないので「苦」となります。”我見我欲”によって”何とかしたい”という”我”に振り回されることで「苦」となってはいないでしょうか。老いても病気になっても自然のことなのに、”何とかしたい”と抵抗しているのではないでしょうか。「苦」(=葛藤・混乱・抵抗・受け入れがたい・・・)とならないようにするには、あるがままを受け入れ気にしない知らんぷりでいることかもしれません。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候 」(良寛)

 災難にあったとして、何故自分に災難が降りかかるのかと天を恨んでいては「苦」が続くばかりかもしれません。今出来ることや、やるべきことをやるしかありません。病気になったらちゃんとした病人に成り切るのが最善かもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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U3

平凡な生活者さんこんにちは。
少し早いですが良いお年をお迎え下さい!
by U3 (2021-12-26 15:05) 

平凡な生活者

U3 さん
 いつも訪問していただきありがとうございます。
2022年もよろしくお願いいたします。
by 平凡な生活者 (2022-01-01 22:16) 

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