事実と妄想 [気づき]
人はそれぞれ異なった環境(国・政治・法律・思想・家庭・食文化・教育・信仰・気候・言語・・)で生まれ育てられています。経験することも異なり、経験から学び自らの判断基準(=固定観念)を構築しています。自分にとって何が良くて何が悪いのかを瞬時に判断することが身についています。自ら作り上げた判断基準ですから、だれもがその時々の判断は自らの判断に基づいてやっているので正しいはずです。それぞれが正しと主張するということは、他の人には正しくないということです。万人が正しいとすることであれば「正しい」と主張する必要はありません。「正しい」ということは「間違っている」と表裏一体であって、「間違い」がなければ「正しい」と主張する必要はありません。
「善」は「悪」がなければ「善」になりません。善人となるには悪人が必要です。勝者であるには敗者がいなくてはなりません。「美」には「醜」という概念が無くては「美」を定義できないのが言語の仕組みのようです。「闇」を表現するには「光」を持ち出さなければなりません。
2歳の子供に「見える」「闇」「夜」「明るい」という概念を使わずに「光」を説明できるでしょうか。例えば遠く離れた人に電話で眼の前にある「壁」を「壁」という言葉を使わずに見えている「壁」そのものを説明できるでしょうか。
言語はその言語圏での約束事でしかありません。事実が先にあって言語は後づけでありただの合意によって使われているだけです。「1」はどこにもありませんが、何かを「1」とすることができます。それぞれが定義する「1」は何でもいいということだということになります。その都度使える仮の「1」です。「山」「川」も合意であって、それぞれがイメージしている「山」「川」は異なります。各人が勝手に使っている仮の「山」「川」ということになります。
悩まされ続けているのは、言葉をイメージして実在のように扱ってしまう癖によるかもしれません。頭の中では電気信号や化学物質が行ったり来たりしているだけのことが実在として感じる。もし、他の言語圏の人の悩んでいる言葉を音として聞いたらどうでしょうか。何らかのイメージが湧いてくるでしょうか。自身の悩み(=日本語)を他国の人が聞いても何を言っているのか分かりません。トラブルメーカーは他人ではなく自身が作り出しているということに気づかなければなりません。その悩みも実はただの妄想であって実体が無いということ。放っておけば消えていってしまうものです。若い頃の悩みは一体どこにあるのでしょうか。
禅の公案に「富士山を荒縄で縛ってもってきなさい」というのがあります。悩みを疑似的に作っってもらい悩む体験をします。言葉となっているので意味や価値があるかのように思ってしまうのが脳の癖です。考えてしまうのも脳の癖です。「山」もただの合意であって頭でイメージすることができます。大人の日本人であれば「富士山」もイメージできるし「荒縄」もイメージできます。なんとイメージで絵を描くこともできるしCGでディスプレイに表示することもできます。出来もしないことを真剣に妄想して悩むことができてしまいます。誰かから出された問題は絵空事として笑うことができますが、自身が悩んでいることは絵空事ではないと感じています。今の悩みは数時間後・数日後・数週間後・数カ月後・・・記憶されなければどこかに消え去っているはずなのですが・・・。
思い通りに”何とかしたい”という意を追いかければ、自らが悩みを作り続けることになります。悩むことは二元対立を持ち出して”何とかしたい”ということです。ただ坐って何も選択しない時間を体験するのもいいかもしれません。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
nice!押し逃げですみませ〜ん♡(^0^)
名前を見てもお分かりのように、『H☆imagine』のU3です。
社会派のサブブログ『Justice!』を久し振りに立ち上げてみました。今後ともよろしくお願いします。
by U3 (2021-11-24 18:13)
こちらこそよろしくお願いいたします。
by 平凡な生活者 (2021-11-30 19:35)