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老子−79 [老子]

和大怨必有餘怨。安可以爲善。是以聖人執左契、而不責於人。有徳司契、無徳司徹。天道無親、常與善人。

 

 根深い怨恨が和解できたかに見えても、心の奥底には怨みが残ったままである。この和解がどうして最善であろうか。聖人は契約に基づいて説得するが、割符で強制することはしない。徳のある者は契約で説得するが、徳のない者は強権を使って解決しようとする。天の道は公平であり、結局は善人の方に味方する。

 

<他の翻訳例>

 深いうらみを(いだくもの同士を)和解させるとき、必ずうらみがあとまで残る。それでどうしてみごとなやり方といえようか。それゆえに聖人は割符の左半分を握って、しかも人びとに支払いを求めない。「徳のある人は割符(の扱い)を管理し、徳のない人が税金(のとりたて)を管理する」「天の道にえこひいきはない。つねに善人の側につく」

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 私達の「我」には、満たされていない・達成できていない・救われていない・楽をしたい・安心安全でいたい・変わりたいが変わりたくない・自己(=我)を否定されたくない・思い通りにしたい・・・・を実現するように働くがついているようです。一人で生きているわではないのに、自分(=我)の思う通りにできるでしょうか。”何とかして”思いの通りに近づけようと頑張りたいのは理解できますが・・・。

 誰かと比べることもとなっています。学校では順位がつけられ、常に競争にさらされて勝ち負けがわかるようになっています。大人になっても収入や肩書がアイデンティティとなっています。自分=アイデンティティであるかのように思い込んでしまいます。名刺に書かれた文字が「私」である筈がないのですが・・・・。

 私達は五感を使って感受できますが、自らを直視できません。見ている自分を見ることができません。遠くの星を見ることができるのに自身を直視できずに死んでいきます。他人に見られても自分が何者かは想像するしかありません。本来の自分が分からないのに他人と何を比べるるのでしょうか。

 

紛争:大きな集団が大規模に争うこと。相手より優位にたとうとすること。

闘争:階級や主義、立場などを異にする者と戦うこと。

戦争:軍事力を用いて様々な政治目的を達成しようとする行為。

意見交換:意見を出し合うこと

交渉:合意のプロセス

折衝:利害の一致しない相手と、問題の解決に向けて、話し合いなどの手段によって駆け引きすること。

討論:議論の優劣を争うプロセス

議論:理由を示して結論を述べる

対話:互いの変容を受容するプロセス

 

 個人から国家まで様々なカテゴリーでの接点があります。融合することもあれば衝突することもあります。それぞれが「正しく」自らの固定観念を守ろうとします。正義の敵は相手の正義であり、神の敵は相手の神です。お互いに自らの正当性を主張します。他は自動的に排除すべき対象(=悪)となります。互いに自らの正義で戦っているので残虐なことでも平気でやっているかもしれません。自らの正義を否定されれば根深い怨恨が残ってしまいます。

 互いに妥協点を見出して契約して何らかの形にして残さなければ信用できないのが人間です。現在でも割り印があるように割符というモノがあったようです。公正・正義とは勝った方の言い分でしかないかもしれません。負けたほうが公正・正義と主張しても通ることはありません。負けたほうが正義となるには勝利するしかありません。公正・正義は勝者の手に委ねられているということかもしれません。小さな国が声を張り上げても、大国の声に押しつぶされていることは誰もが知っています。天の道に従っているので生き残っているのか、生き残った人が天の道に従ったと後から言っているのか。正義が勝つのでしょうか、勝った方が正義と言っているのでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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