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比べずに事実のまま [気づき]

 私達は自然に”我(=自意識)”が形成されます。成長するに従い、自然に自国語でコミュニケーションがとれるようになります。”我”は”自分第一”であり、自己保身・自己防衛する働きです。子供の頃の”我”は言葉を使って何が欲しく何が嫌なのかを分別して意思表示を行います。言葉を憶え理解することで、周りの存在を言葉で把握できるようになります。成長するに従い自国語で考えることで問題に対処する”癖”がつきます。考えることこそが問題解決であると思い込みます。問題には社会的な問題と個人的な問題があります。個人的な問題に二元対立の思考を使うと自分勝手な思い込み(固定観念)に振り回されて苦しむことになっているかもしれません。

 

 言語の性質上、言語は二元対立となっています。何かを知るには対立概念を同時に理解しなければなりません。何か(=対象・客体・問題)を考える(=主体)には対立概念が必要となります。

 善を行うには悪の概念がなくてはなりません。美という概念は同時に醜と表裏一体となっています。速いというのは何らかの基準が有って基準を上回っていれば速いし下回れば遅いということになります。存在を理解するために、あらゆる存在に後づけで識別名をつけています。存在が先にあって識別名は後につけれられます。

 ある存在の識別名は世界の言語の数だけあります。例えば日本語では”東”ですが、他言語では異なる識別名として使われています。北極点では、”東”はなくどの方向でも”南”です。

 各国で好き勝手に命名し、命名された言葉はどれも正解(その言語が使われている国の人)でありどれも不正解(他の国の人にとっては意味不明)です。分かっている国の人しか分からないし、分からない国の人にはちんぷんかんぷんです。世界中に住む人がその人が住んでいる人だけに通じる言語を使って勝手に命名しました。

 目を閉じて自分の周りの空間を調べてみます。空間が”東”と語りかけてくれることもなく、”東”という文字が浮かび上がることもありません。空間のどこを探しても”東”を特定することはできません。”東”には実体はなくただの概念であり合意です。”東”という実体を見たり掴んだりすることはできません。

 人間は一つの存在そのもの(=物理的実体)を分けて、細かく命名しました。その言葉は実体そのものではなく表象(=概念)であってただの音と形です。考えるには言葉を使うので「実体」を扱っていません。頭の中に「実体」があったら大変なことです。”鉛筆”を考えて頭の中に「実体」の”鉛筆”が存在するわけがありません。

 思考は「実体」そのものを取り扱っていないので「妄想」ということになります。思考はただの意の働きであって良いとか悪いとかはありません。”我”の”癖”ですぐに分別して二元に分けます。”我”は思い通りにしようと頑張るのですが、これが迷いということになります。

 事実から離れて「妄想」の中で”何とかしよう”と自分自身を振り回わすことになります。意の働きであって放っておけば消え去るのですが、どうしても”ああしたい・こうしたい”という”我”がちょっかいを出してきます。”我”は事実よりも、二元に分けた”我”の望む「妄想」を実現しようとします。自分勝手な思い込みが、複雑に絡み合った因縁を思い通りにすることは不可能です。どんな問題でも解決する思考法を手にするのが正解(=対処療法)ではなく、そもそも問題にしない問題にならないというのが正解(=気にかけない)かもしれません。

 お金が不足している(=問題)ので自分の思いの通りの金額にしようとすますが、不足でもなんでもなく事実のままを受け入れてしまえば少なくも多くもない事実のままがあるだけです。事実なのですから事実に従うしかありません。他人と比べることなく、我欲に振り回されることがなければ平穏かもしれません。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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