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老子-75 [老子]

民之飢、以其上食税之多、是以飢。民之難治、以其上之有爲、是以難治。民之輕死、以其求生之厚、是以輕死。夫唯無以生爲者、是賢於貴生。

 

 人民が飢えるのは、統治者が税金を多く取るからであり、税によって飢えが起こる。人民が平穏に暮らせないのは、統治者が人民の生活に関与してくるからであって、統治によって人民は平穏でいられない。人民が死を軽く見るのは、生きることだけに関心があるからであり、死ぬことを軽く見てしまう。あるがままに生きて、何かを為そうとするすることが無い者は、生きて何かを為すことが貴いとしている人よりも賢明である。

 

<他の翻訳例>

 人民が飢えに苦しむ。それは上にあるもの(統治者)が税金をとることが多すぎるからであって、それゆえに(人民は)飢えに苦しむのだ。人民が治めにくいのは、上にあるものが干渉するからであって、それゆえに治めにくくなる。人民が死ぬことを何とも思わないのは、上にあるものが生を追求することに熱心すぎるからであって、それゆえに人民は死を何とも思わなくなる。生のことを少しも気にかけないものこそ、まさに生をとうといとするものより賢明なのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 当たり前のことですが、自然だけに触れ合っている人は多くの問題を抱えることはありません。自然を制御できないことは誰でも知っています。悩みの多くは人との関係によって生まれます。「自分の正義の敵(=反対)は他人の正義(=悪)」なので、お互いに自分の”我(=正義)”の正当性を主張します。どうして自分の「正義」が他の「正義」に屈服しなければならないのかと考えます。

 自己保身・自己欺瞞・自己正当化・自己憐憫・・・・で自分を守ろうとします。自己が正しいのであれば自己の正義に反する意見は悪と決めつけることになります。間違い(=悪=相手の正義)を正してどこが悪いということです。

 民主という概念を持ち出し多数決によって正義を決めます。多数が正しいという単純な論法です。「勝てば官軍負ければ賊軍」であって、正しい者が勝つのではなく、勝った者が押しつけているだけではないでしょうか。

 多数や勝った者が常識として押し付けているかもしれません。常識というのはその時代のその環境に従った合意でしかありません。何時の時代でも通じる恒常的な常識ではありません。戦時中に戦争を否定する人は非国民というレッテルを貼られます。戦争が馬鹿げているということは子供でも分かるのに・・・・。

 私達は何時でも自分自身の位置を確認することができます。何故ならば、どこに行ってもホーム(=家)に戻ってこれなくてはなりません。頭の中で時空間を把握していなくてはなりません。生きていくには、今はどんな状況かを把握しなければなりません。地図と時計は生きていくために必要に迫られて作られたのでしょうか。

 統治者は自身の統治している土地を把握し租税がどの程度かを知るためにも領土の地図が必要とされます。当時の戦国時代に、物納を多くしたことで人民は飢えて逃げ出したのでしょうか。

 

 選挙がありますが、議員となれば誰からどれだけ税金を取ってどのように使うかを決める権限があります。法によって人々の生活に制限をかけるかを議論します。統治者が一人で決めるか、多数決で決めるかの違いでしかありません。独裁なのかそれとも多く人から投票された人達で構成された集団なのかどうかという違いでしかありません。公正な選挙という形式を経て選ばれたというだけで好き勝手にしているかもしれません。議員の手腕は、国民から集めた税金をいかに地元にバラ撒くかにかかっています。権力はお金に結びついたものであるのは当然のことです。地元民も自分達のことを中心に考えるのも当然のことです。正当性のある論拠で正当に評価されることで、集団的な合意がなされているのかもしれません。

 自分自身でさえ制御できないのに、他人を制御することなどできません。命の脅威かお金(交換機能、価値保存機能、価値尺度機能)というもので従わせるしかありません。

 

 あらゆる生(=命)は自然そのものであって、意志の力によって200年生きようと思っても生きることはできません。全てが自然の成り行きです。人生も終盤にさしかかれば物欲も自然と無くなります。偉大な人の教えによって欲から逃れなくても、不思議なことで自然と消えていきます。驚いたことに、教えを学んで教えを実践しなければならないということでもなさそうです。同世代の人に聞くと自然と欲は無くなっていくようです。高齢になっても欲があるというのは、無理して欲(=我の欲する)を出しているかもしれません。欲が無くなったら終わりだと言われるので頑張っているのでしょうか。「小人は小欲(我欲)大人は大欲(共に豊かになる)」「精力善用・自他共栄」

 自然に任せれば欲の炎は消えていきます。生きていたいというのは欲ではなく本能であり欲ではありません。必要以上に求め続ける、物欲・金銭欲・権勢欲・・・は自然と消えていきます。

 煩悩は字の如く、自らを煩わせ悩ませます。しかし、欲を観察する時に悩まされていた自分も観察することができます。欲を目の敵にして”なんとかしよう”とすればするほど欲に執着します。欲に関心を示さないでいると、欲はただの欲でしか無かったと解ります。物欲を観察すると、欲しかった物はどこかにあった物が近くに来ただけであって一時的な物だと気づきます。最低限必要な物以外は、いつかはゴミとなるだけです。結局はゴミをかき集めていただけなのかもしれません。自然は誰かが所有できるようなモノではありません。自然は誰のモノでもないから、誰もが鑑賞することができます。誰もが、自然の中へ行けば見えたままを独り占めしています。

 自己が所有しているという思い込みが全て放棄されると、全てが誰のものでもなくなります。見る者と見られるモノという対立がなくなります。見えているだけがあります。

 他人の庭で育っているとされた花も、ただそこに花が咲いているだけになります。所有という概念が無くなると、客体として見る必要が無くなります。見えている全てが自分であると気づくかも知れません。頭で解ることではありません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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