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不思量ー3 [気づき]

「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」(普勧坐禅儀)

 

 全ての生命体は同じ世界を見ているというのが一般的な常識です。たった一つの世界を多数の生命体がその場でその時に見ているということです。そうでしょうか。アマゾンの川に棲む魚を直接に見ることができなければ、たぶん魚はいるだろうという想像でしかありません。我々が世界としているのは想像の世界と現実に見えて聞こえて体感している事実の世界の二つの世界があるのではないでしょうか。想像はあくまでも想像であって事実の世界は今ここで体感しているあるがままの世界です。誰も他人の世界に入ることもできないし、自分の世界に他が入ってくることもありません。

 生命体の数だけ世界があって、その生命体だけの世界を経験していることになります。見る主体の観念(=経験・環境によるフィルター)によって異る世界が展開されています。動物はその種が生き残るために独自に発達させた感覚器官を使って世界を感じています。犬は嗅覚が発達した匂いの世界で生きているかもしれません。鳥は優れた視覚・聴覚・磁気感覚や風を掴む能力があります。人間の感覚を遥かに超えた感覚器官と飛行能力で想像もつかない素晴らしい世界を体験しているかもしれません。

 人間だけが素晴らしい世界を体験していということではないかもしれません。鳥になって飛べたら人間なんてやってられないかもしれません。蝶になってあらゆる色彩の世界を見たらどうでしょうか。モグラは世界がどうであろうと、気にすることもなく土の中でゆっくりと休息しているかもしれません。

 

 人は自身の観念(=経験・環境によるフィルター)を通してしか世界を見れないので、自分の見たいものだけを見てしまいます。自分に関係のあることしか目に入りません。例えば子供にとって、誰が総理大臣になるかなど全く興味はありません。幼稚園の授業料が上がろうが下がろうが気になりません。お金を使うという概念が無ければお金の所有に心が動くことはありません。できれば、好き勝手に見たい番組を見ていたい。我々大人でも、芸能人のファッションチェックに興味がなければ、そうゆう放送番組は見ることはありません。仏道に興味がなければここに書かれていることは目に止まりません。ただの文字の羅列であり何の意味もないかもしれません。

 花を育てたり花を鑑賞することに興味がある人は、花の名前や花の色や先具合という世界に没頭しているかもしれません。各人が見ている世界は自身の観念を通して見えている世界です。

 つまりは、見えている世界は自分が構築した世界(=自分自身)を見ていることになります。日本人にとって、アラビア語が聞こえていても聞き分けられないので雑音と同じかもしれません。意味のある音(=言葉)や意味のある形(=文字)だけが捉えられるようになっています。

 例えば、日本も日本語も日本文化も全く知らない外国人の見ているモノや聞こえている音は、我々日本人の感受している世界とは異なります。彼らが日本語で書かれた形から意味を見出すことはできません。

 

 世界は外にあるのではなく、自身が映し出した自分自身の世界と言ってもいいかもしれません。”我”がなんとかしようという対象としての世界のままであれば、いつまでも”我”の思い描いている世界とありのままの世界という対立した世界のままかもしれません。あるがまま(=真実)の世界を思量(=分別)して”我”の思いが作り出した仮想のへ変換させようとしているかもしれません。思量(=考え)が中心にあって思量(=考え)に導かれた理想の世界を願って止まない。事実から目をそらし迷いのほうが正しいとしているのなら・・・・。思考は事実を変えることはできません。思考が自由に働けるのは、過去と未来ということになります。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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