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老子−72 [老子]

民不畏威、則大威至。無狎其所居、無厭其所生。夫唯不厭、是以不厭。是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。故去彼取此。

 

 人民が権力者の権威に恐れを抱かなくなると、権力者は大きな脅威を受けることになる。人民の住んでいる場所を軽んじること無く、その生活の場を嫌い厭うことがあってはならない。人民の生活の邪魔をしなければ、権力者も嫌われることもない。聖人は自らの能力を知っているが、自らを目立つようにせず、自らを大事にするが自らを誇るようなことはしない。権威にこだわらず無為に生きることを選ぶ。

 

<他の翻訳例>

人民に畏(おそ)れの感覚が欠けているとき、恐るべき罰がくだる。かれらの住んでいる場所をせばめるな。その生活の手段を圧迫するな。かれらを押さえつけないからこそ、かれらは重荷を苦にしないのである。それゆえに、聖人はみずからを知るが見せびらかさない。みずからを愛するがみずからをもちあげようとはしない。まことにあのこと(みせびらかすことなど)を投げやり、このこと(みずからしることなど)をとるのだ。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 権力者が人民の生活を締め付けすぎると、人民も堪忍袋の緒が切れて反乱を起こすようになる。聖人は自らの能力を誇ることはせずに、密かに暮らすことを選ぶ。

 私達は誰かの言った言葉を耳にしたり、誰かが残した文字を眼にすると自然と受け入れて思考の対象としてしまいます。言葉はただの音であり、文字はただの形でしかないのに、母国語であれば何らかの意味を解釈するような脳の癖があります。初めて聞く外国語であればただの音なのですが、日本語であれば意味がある言葉となってしまいます。

 

 ある新聞広告で”大地真央さんの美肌の秘密”というコピーを目にしました。一体誰がいつどこで女優の肌を見て美肌と判断したのでしょうか。美肌というのは年齢にしてはそこそこのということなのか?こんな憶測なしに、文字を信じてしまうことが間違いを生み出しています。

 見知らぬ人が判定した判断を信じていいものでしょうか。本当に見た日時も記載されず見た人の名前もわからない信用するに値する言葉なのでしょうか。コピーライターの想像で作られたコピーなのかもしれません。真偽は闇のなかであり、ただ文字として見てしまったということです。

 我々の会話・広告・記事・教科書・・あらゆる言葉やあらゆる文字が真実であるという前提で聞いたり見たりしてはいないでしょうか。

 悲しいかな、我々は聞こえたり見たりするものを選り好みせずに受け取ってしまっているということです。言葉の音は聞こえるという事実があり、文字の形は見えるという事実しかありませんが脳が勝手に解釈してしまいます。100円ショップで購入した商品に難癖をつける人はあまりいないのは、自分で手にとって確認して購入したものです。失敗しても100円であり、騙されたのは自分であると諦めるられるかもしれません。

 

 唯識で「四尋思観」という観法があります。

 例えば、”フィルム”を知っている人は”フィルム”を見れば”フィルム”であると認識できます。”フィルム”が発明されて”フィルム”という名前がつけられる以前には”フィルム”も”フィルム”という言葉もありません。また、認識される対象としての”フィルム”も自性も差別(=概念)もありません。辞典にある定義では、”カメラによって得られた映像を記録する感光材料”と説明される差別もあとづけの説明です。「名・義・名義自性・名義差別の四つは」はあるモノ(=存在)に対して、人間によって仮にあてがわれその存在を認識するために一時的に使われます。認識するためには、記憶と見たり触れたりした経験が必要です。

 ”フィルム”が誕生する以前は”フィルム”という言葉は存在していません。将来”フィルム”が完全にこの世から消え去り、見ることも使う経験もない人にとっては”フィルム”と言われても通じません。今の小学生にカメラの”フィルム”と言っても通じないかもしれません。”フィルム”は記憶の中にある名前とイメージにだけであって”フィルム”という言葉だけでは真実に実在するものではありません。”フィイルム”と呟いても”フィルム”と紙に書いても実在としての”フィルム”に触れることはできません。

 ”壁”・”ドア”・・・・一様な存在から分離分割して名前をつけています。社会生活を送る上で混乱しないように命名されているだけです。本当は一様な存在があるだけなのですが、”壁”と呼称したり”ドア”と呼称します。タイ語では”Kảphæng”です。タイの人に”kabe”と言ってもそんなものは存在しません。

名尋思:本当は、”壁”という形、”kabe”という音があるだけであり実在はありません。

事尋思:”壁”を見ているのではなく見えたままがあるだけです。

自性仮立尋思:”壁”という名前と見えたままのを”壁”とあとづけされた仮の存在である。

差別仮立尋思:”壁”の性質・特質が単に定義された一時的な仮のものであると見る。

 ”ドア”は存在していないのでどんな名前に変更することも可能です。二人で今日から”ドリモ”ということにすれば”ドア”は”ドリモ”となります。二人の間では”ドリモ”という仮の存在として認識されることになります。二人以外の人には”ドリモ”は存在していません。

 

言語は真実であるという前提で見るのではなく、言語は方便であることを前提にしなければならないと肝に命じなければならないと痛感しています。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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