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格言名言ー3 [格言名言]

<学ぶ>

1.学びて化せざるは、学にあらざるなり。

・学ぶことは変わること。Learning is changing.

2.学べばすなわち固ならず。

・心を直さぬ学問して何の詮かある。

・玉みがかざれば器と成らず、人学ばざれば道を知らず。

3.学問なき経験は、経験なき学問にまさる。

・経験があるものは、学問あるものよりも優れている(スイス)

・我の性格は、我の行為の結果なり。

4.学を絶てば憂い無し。

・聞かざるはこれを聞くにしかず。これを聞くはこれを見るにしかず。これを見るはこれを知るにしかず。

これを知るはこれを行なうにしかず。学はこれを行なうにいたりて止む。

・学の難きにあらず、学を解すること難きなり。

・日に習えば、則ち学忘れず。--毎日の繰り返し。

・学は博きを貴ばず、正しきを貴ぶのみ。--博識ではなく、正道を学べ。

・学は必ず覆う所無くして後可なり。--迷うような所がまったく無くなってはじめてよいと言える。

・聖人には常の師無し。     

誰からでも何でもどんなことからでも学ぶ

5.疑いの心既に生ぜば、解を得るの義有るべし。          《聖徳太子》

・愚かなる者思うこと多し。            (芭蕉)

・学者とは研究によって時間をつぶす怠け者である。 (ショウ)

・知性を誇る知識人は、自分の広い独房を自慢する囚人のようなものだ。

ーー

1.わかるにも、分かる・判る・解るがあります。see・sence・understand・realize・no problem 分かるは、子供でも燃えるゴミと燃えないゴミの分別ができるように簡単に見分けることができる。 判るは、意味を理解して判別・判断できるような理解度。 解るは、理解しているので問題自体が解体されてしまって問題とならない理解度。  できる段階でも、手取り足取りしてもらってできる段階、手本やマニュアルを見て何とか一人でできる段階、マニュアルなしでできる段階、人に指導する段階があります。剣道での「守破離」の段階を参考にされればいいかと思います。

 挨拶が大事だと学んでも、頭で判っていても行動ができなければ学んだことにはなりません。行動ができてこそ学んだという証明になります。只管打坐は仏の姿といわれています。何も考えずに何も期待しない坐禅(=仏の姿)になりきる。修行(=行動ができている)そのものが仏です。

2.学べば固(=観念)で自らを縛ることは意味のないことだと理解するはずです。「無」は虚無でもないし有無の無でもない。自己を知るには自己そのものになりきる。見つける人と見つけられる人という主体と客体があれば一体ではありません。仏性を探し回っているということは自己が仏性でないということを宣言しているのと同じです。

 すでに水と一体になっている魚が水の中にいると知ることができるでしょうか。仏性そのものと共にある魚が、水中で渇を叫んでいるようなものです。(参考:坐禅和讃)

3.経典や知識に頼っていては先には進みません。坐禅や観察瞑想によって本来の自己に出会うという体験が必要です。知識はあくまで第三者の体験です。第三者はそれぞれの時代や育った環境も異なります。全く同じ道を歩くことがあるでしょうか。自らの体験こそが嘘のない真実として実感されるはずです。

4.学問をやめてしまえば、人生に苦悩はなくなる。人間の苦しみは、教養を積み、認識可能な世界が広がるにつれて増してくる。嬰児のような素朴な心に戻って無為自然に生き、憂いを絶つほうが生きやすい。

ーー

5.修行には三つの要諦がある。

「大信根・大疑団・大勇猛心」の三つです。2つめの大疑団は「大疑無くして大悟無し」と言われています。真実の自己(=本来の面目)とは、意識とは、愛とは、魂とは等々という疑問です。  私であるのに私とは何者かよく解らない。人間とはいったい何かということを知りたい。自分のことなのに人から教わらなければならないのでしょうか。他人が考えた答えが自分自身のことなのでしょうか。参考にはなりますが似て非なるものです。

「他は是れ我にあらず」

 死とは何かを教わりたい。死んだ人に聞ければいいのですが死んだ人は話すことができません。愛し合っているのに愛とは何かを考えようとする。意識があるのに意識とは何かとつかもうとする。仏とはなにかと別のものとして見つけようとする。仏性とは自分とは別のものとして見つけようとする。見つける私がいるなら私と仏性は別々の分離独立した何かです。

 これらの疑問を言葉で追求していくのが哲学のようです。体験で直知するのが仏道。 残念なことに、言葉は実物や事実ではなく人間が勝手につくりあげた概念です。新たな概念で言葉を作っても実体のないものの組み合わせです。言葉で書かれたものは、よくできた砂上の楼閣のようなものかもしれません。

 「皮膚に針を指した時の痛さ」を言葉で説明しても痛くも痒くもありません。実際の針で突けば解決します。「冷暖自知」  言葉で納得できるなら多くの仏典を読んだり、成就されたと思われる方からお話を聴けばそれで解決できます。知識だけでは納得できない。実践修行で智慧によって体験しないと腑に落ちないものです。だれもが仏道修行することで真理の体験をするようになっているようです。

 聖徳太子が言われているように疑いを持ち続けなければなりません。真理を体得しなければならないと自らに言い聞かせ続けるしかありません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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