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賢者の石 [気づき]

 一般によく知られた賢者の石は非金属を金などの貴金属に変えたり、人間を不老不死にすることができるという。(参照:ウィキペディア)

 「百丈野鴨」では、思考する人間以前に生き生きとした生身の人間として活動していることに気づきました。知識や思考で答えを出すことは教え込まれた反応であって、物事を知らず知らずに二元に分けている証拠です。見る自分と見られる対象(=鴨)と分け隔てています。見た後に馬祖を見て答えているのですから、鴨は記憶としてあって実際は馬祖を見ているかもしれません。見る者と見られるモノは別々ではなく、見えているそのものが自分自身ではないでしょうか。どうしても見られる対象があって、見ている自分がいるとしか思えない。ただ見えているという現象(=事)があるだけで、事実はたった一つです。

 必ず自己保身の”自分かわいい”が主となり、見ている自分が立ち現れます。見えているだけなのに、対象を認識して”何とかしようという”自分が存在しているかのように思ってしまう思考過程(=プログラム)が働いてしまいます。考えている時だけ「私(=表象)」が持ち出されて働いているかのように感じますが、ただの考えがあるというだけのことかもしれません。極端に言えば考えた時だけ「私」という何かがいると思い込んでしまっている。「私」を知っている「私」ということは、観察されている「私」は「私」ではなく、観察している「私」が本当の「私」なのでしょうか。観察している「私」はどことにどのように存在しているのかサッパリ分かりません。ただ分かっているように感じている「思い」でしかないのではないでしょうか。瞬間瞬間に変化変容している「私」であれば、そんな頼りない「私」を信じているという「私」もいるのなら誰もが多重人格として生きている事になるのでしょうか。

 

 つねられて「痛ッ」と反応している生身の感覚そのもの思考以前にありのままを見聞覚知している「それ」です。禾山に問うて答えを聞いて分かろうとしているその「思い」が、自分を振り回している原因ではないでしょうか。人の思いを聞いて何かを掴んだり得たりできるというその「思い」が厄介者の正体ではないでしょうか。答えを聞き出そうとして、一生懸命に修行していると誤魔化している「思い」がインチキです。何度も同じことを言われています。毎瞬毎瞬、「私」が居て「私」が思考していたら大変なことです。日々の行動の逐一を「私」が制御することなどできません。ウィルスが侵入したら直ぐに教えてくれる訳でもなく、老化を防いでくれるわけでもありません。混乱を起こして騙していた張本人は自分(=何とかしたいという思い)であるというパラドックス。”何とかしたい”が悪いのではなく、常に主人公面して大手を振っているということです。大人しくしてくれればゆったりとでき、喧騒の中で過ごすことから少しでも自由になれるかもしれません。

 聞こえるのは空気中を伝わるただの振動であり、全ては「隻手音声」かもしれません。ただの振動を意味の有る音(=言葉)と解釈して、”自分かわいい”が主人公として出しゃばると大変なことになります。そういう意見もあるんだなくらいで収められればいいかもしれません。

 

 聖なる書物・偉人が残した言葉・友人・・・影響は計り知れませんが、「賢者の石」となって自らが変貌することはできません。引っかかっている石(=主人公面している”我”)を相手にしないでいると、以外にお気楽に生活できるかもしれません。”我”は”我”として願望を実現しようと一生懸命に働いてくれていますが、つき合っているとほとほと疲れてしまいます。お釈迦様も”我”につき合って生死を彷徨うところまでいったのでしょうか。徹底的に”我”の言うことに耳を貸さずに”何もしなかった”(=坐禅)ことが功を奏したのでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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