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老子−81 [老子]

信言不美、美言不信。善者不辯、辯者不善。知者不博、博者不知。聖人不積。既以爲人己愈有、既以與人己愈多。天之道利而不害、聖人之道爲而不爭。

 

 信頼のおけることばは虚飾されてはいない、虚飾されたことばは信頼できない。正直な者は巧に話すことはなく、巧みに話す者は正直な者ではない。知者は博識ではなく、博識だという人は知者ではない。聖人は貯め込まず、人々のために生きることで、自分の人生は有意義となる。人に与えることで、ますます心豊かになる。天の道は利することはあっても害することはない。聖人の道は、他人と争うこと無く成就される。

 

<他の翻訳例>

 信義のあることばは美しくない。美しいことばは信義がない。善人は議論をしない。議論に巧みな人は善人ではない。(真に)知る人は博識ではない。博識の人は(真に)知ってはいない。聖人は(物を)たくわえない。何もかも他人のために出し尽くして、自分はさらに所有物が増し、何もかも他人に与えて、自分はさらに豊かである。天の道(やり方)は、利益を与えて害を加えないことであり、聖人の道は、行動して争わないことである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 いつも同じようなことを書いていますが、漢字で現された文字(=形)は何となく理解できます。タイ・カンボジア・ロシア・中東・・・・文字(=形)なのか模様なのかチンプンカンプンです。また言葉(=音)を聞いてもデタラメを言っているようにしか聞こえません。外国人が日本人の会話を聞いても何を言っているのか想像もつかないかもしれません。

 タイでは日本語の「キレイ」という発音は「ブサイク」という意味となり反対の意味の言葉(=音)です。また「ハイ」と発音すると「あげる、渡す」という意味となり、何かを渡してくれるのかと注目されます。

マラーティ語「हवामान」(天気)です。我々が看板をや新聞を見ても何が書かれているかサッパリ分かりません。

 それぞれの地域で合意された言葉(=音)と文字(=形)に何らかの意味を付与しています。異なる地域の言語圏の人からすればよくできたデタラメを言ったり書いたりしていると感じているかもしれません。合意された嘘・偽りの音(=言葉)と形(=文字)が使われています。

 外国人の悩みを言葉(=音)と文字(=形)にしてもらっても、本当に悩んでいるのか分かりません。私たち日本人が悩んだり面白がっている音や形は、他の国の人が観察したら何でも無い音や形でしかないことになります。

 同じ日本人でも、頭の中でのおしゃべりを言葉や文字にしなければ各個人の一人芝居の何ものでもありません。誰かの頭に聴診器を当てても思考している事を聞き分けることはできません。

 

 言語には意味があります。区別のつかない同一性の対象に対しては大きな概念でくくっています。山・川・草・花・石・岩・・・・個々に意味づけしたければ岩にも◯◯岩と名前をつけます。言語に意味をつけているので、言語を使って考えれば必ず意味があるようになっています。もし外国人の思考を聞くことができたとしても、意味不明の音であり何が何なのかサッパリ分かりません。思考内容を誰にも話すことがなければ、思考している人だけが意味を作って妄想しているだけかもしれません。 意が勝手に働いて頭の中で音として認識しているだけということになります。

 雪を見たことのないフィリピン人に日本語で「雪」を説明することができるでしょうか。自分のことを言葉で説明できるでしょうか。達磨が「不識」と言ったのも当然のことかもしれません。自分をアイデンティティで説明することはできません。もし言葉や概念で説明されるのであれば、空想のメタ世界でのアバター(=化身)が自分であると認めることになってしまいます。近未来では空想の自分が空想の空間で動くようになるかもしれません。空想が本当で現実・事実が間違っていると感じてしまうことに危惧されます。

 見聞覚知している現実を差し置いてますます空想の世界の方に重きを置くようになるのでしょうか。

 

<小話>

 ロシアの宇宙飛行士が地球に戻ってきて政治家と聖職者に会う機会がありました。政治家は宇宙飛行士に「神を感じたなんて言わないでくれよ」と耳元でささやきました。聖職者は「神がいないなんて言わないでくれよ」と耳元でささやきました。宇宙飛行士が言葉にしたことは「地球は青かった」。

 

言語には意味があり相反しています。考えるのに使われるのが言語ですから、人生について考えれば意味があるし相反するというのは必然のことです。考えてしまえば意味を見出すしかありません。考えが先にあって人生を探しているのか、人生を探すから考えてしまうのか。考えようが考えまいがただ現実・事実から離れることはできません。人生があるから考えるのか、考えるから人生があるのか。ただ意の働きが続いているだけなのに、ちょっかいを出してくる”何でだ”が我であり迷いを生み出している元凶かもしれません。思考が正しく答えをだすという思い込みからなかなか抜け出せないのでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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