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本来 [気づき]

 ”本来”の意味は「はじめからその状態であること。もとからずっと。もともと。元来。また、物事の由来、道理から言ってそうあるはずのこと。」とあります。素粒子とは、あらゆるものを構成する最小単位です。眼で見えている姿と本来の姿はかけ離れているかもしれません。物理的な我々の本来の姿はスカスカの空っぽかもしれません。心と言っても実体があるわけではなく瞬間瞬間の働きが続いているだけです。心身ともに空であり無だということでしょうか。

 各生命体が固有に認識している世界は異なっています。ある動物にとって天敵であっても他の動物には意識する必要がなく無視してもいいものもあります。同じ種類の動物であっても猿のボスはボスの座を狙っている猿には警戒しますが、小猿は警戒することがないかもしれません。

 感覚器官で感受している生命体は同じ状況にあれば同じように感受できます。しかし、個々の体験によって異なる判断があり、異なる行動をしています。異なる体験によって、異なる見方をするので異なる世界を見ているとも言えます。生命体の数と同じ数だけ世界があるということです。70億の人がいればそれぞれが異なる世界(=観)を持っています。私達は自分(=我)の眼で世界を認識しています。誰もが自身の基準があり判断しています。困ったことに誰もが自分が正しいのです。なにせ自分だけの世界ですから間違ってはいないのです。

 「本来の自分」は特徴(=経験・固定観念・アイデンティティ・相対主体)以前の自分(=絶対主体)ということになります。絶対的な意識があって、次に個々の経験や特徴によって個々の意識作用が働いてしまうことになっています。一即多であり多即一です。西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」は、自己が不二なる絶対的な主体でありながら個々の相対的な主体を経験しているという矛盾を抱えて生きていることを表した言葉なのでしょうか。

 

 「本来の姿」は後天的に獲得した個性・特徴・癖を取り去っていけば現れてくることになります。よく譬えられるのが玉ねぎの皮(=獲得していったモノ)を剥がしていくと最後には何もない空・無ということになります。

 ある環境で条件(=縁)が揃えば同じように変化変容していくことが想像されます。個々の生命体は成長する過程で微小な入力情報の差異で様々に変化します。例えば「本来の薔薇」を発見するには、薔薇の特徴(=個性・我)を削り取っていけばいいことになります。ついには原点の薔薇に遡ることができます。「本来の植物」へ戻るには植物と定義される最低限の構造に立ち返ることで本来の植物がどのようなものかが分かります。根・茎・葉・花・雌しべ・雄しべ・・・。人間の「本来の姿」は赤子のような純粋な感受のまま、あるがままが見えたまま聞こえたまま匂ったまま味わえたまま・・・。

 楽器をその特徴で分類すると鍵盤楽器・打楽器・弦楽器・管楽器となります。これらの特徴を削り取り単純化していくと、空気を振動させことができるモノということになります。「本来の楽器」とは空気を振動させることになります。「本来の地球」「本来の宇宙」「本来の自然」・・・考察することができます。

 何が言いたいのかおわかりのことと思います。後づけの特徴を取り除いてくと素・根源にたどり着くことになります。

 自然の根源は不自然なものを取り除いていく。とにかく削れるものを極限まで削っていくことで原点回帰ができます。

 

 「本来の自己」に後づけされた、アイデンティティ(=肩書・地位・名誉・・・)・固定観念・・・。これらは後づけされた特徴であって「本来の自己」から離れていることになります。

 感受されているだけの状態は「本来の自己」であるのに、感受されたことに”自分かわいい”というフィルターを通して分別して自分なりの結果を自己であるとしています。「本来の自己」にフィルターかけて貪・瞋・痴に自らが苦しんでいるのが現状ではないでしょうか。

 ”自分かわいい”というフィルターがついていない、ただの感受そのままが「本来の自己」であると気づかなければなりません。

 

 主体も客体もない、見る者も見られるモノが一体(=分離してない)でありただ見えている「働き」が生滅しています。身体があると認識するのも、心を追いかけて自ら思い悩むのも癖であって「本来の自己」ではありません。

 無分別の見聞覚知のままであれば、個人的な特徴(=自分かわいい)は介入されていません。誰もが既に仏心そのままに生きていますが、分別心で迷っています。私達は、瞬きの間に”自分かわいい”というフィルターを通し、二元対立(=好悪・美醜・高低・・・)に分けていることに気づきません。日々二元対立で分別している事自体に気づきません。二元対立が混乱・葛藤を招いているということにも気づきません。執着と忌避を行ったり来たりして葛藤しています。執着したものは求不得苦・愛別離苦であり、忌避できたと思われるものは怨憎会苦・五陰盛苦です。

 現象界は諸行無常・諸法無我・一切皆苦であるということを身にしみて腹で分からなければなりません。

 

 考えても考えてもどうにもならないのなら、放ったらかしにするのが一番の解決策です。試してみて下さい。

 禅語に「放下著」というのがあります。考えを「手放そう」と考え続ければかえって考えにとらわれ続けることになります。考え(=意の働き)を受け入れてみてはどうでしょうか。ある考えを追いかけて答えがでるのなら、いつか考えは止むはずですが・・・。考えても答えは出ないということに気づく必要があります。”考え続ける”訓練をして来たのに、いまだに悩んでいるということは”考えれば”解決するという信念でしかないということかもしれません。「思考」が万能だというマヤカシかもしれません。救われている人が考えて右往左往しているでしょうか。考えの後に救いがあるのか考えていないことに救いがあるのか自問自答してみるのもいいかもしれません。

 諸行は無常(=エントロピー増大=分解して消滅)であるので、考えですらいつの間にか消えてしまいます。救われるのではなく既に救われているのですが・・・・。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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